追いかけるのはあなたの影ばかり。

 広いベッドにも、もうすっかり慣れてしまった。  きっといつもと同じ時間に開いた眸が捉えたのは、きっちりひとり分空いた隣のスペース。夜中になんて帰ってくるはずもないのに起き抜けの頭はどうしたって夢を見てしまうようで。慣れた落胆に肩を落とすのは諦め、代わりにため息を一つ。  今日も、あなたのいない一日が始まる。  朝食は娘たちが起きてから。  ゲルダが止める間もなく部屋から飛び出してきたのだろう、アナはいつも通り天才的なほどの寝癖をつけたまま、遅れてやって来たエルサは対称的にきっちりと三つ編みを下げている。  おはようママ、と元気に挨拶したアナは、けれどきょろきょろ食卓を見渡し見るからに表情を落とした。 「今日もパパ、いないね」 「…パパは明日帰ってくる予定なのよ」 「きのうも言ってたよ、ママ」  痛いところを突かれてしまえば、それ以上慰めを重ねることはできなくて。  同じく眉を下げるエルサと一緒に椅子に座らせ、ひとりが欠けた朝食をいただいた。  公務は可能な範囲で片付けている。  国王の目に通すほどの案件でもなければ承認の印を捺し、書類を分類し、わかりやすいようメモを残す。使うのはこの部屋の主愛用の羽ペン。最初のころは自分のペンをわざわざ持ち込んでいたのだけれど、どうしてだか夫のペンに手が伸びてしまうものだから、そのうち諦めて堂々と使うようになった。  ペン先でこつこつと机を鳴らす、彼の癖。机にインクがついちゃうわよと何度注意してみたって、どうにも染み付いてしまっているみたい。  そんな彼を真似て、こつこつ、こつこつ。だからどうというわけではもちろんなくて、ため息を一つ、作業に戻った。  ランチは屋根の上で取ることになった。  屋根、といっても、廊下の突き当たりの窓から直接歩いていける場所だし、幅もあるから安全だ。心配性な夫はここで食べることを快く思わないけれど、いまばかりは関知することもできない。もちろんゲルダに見咎められようものなら、王族たるものがなどとのお叱りを受けてしまうから、娘たちに口止めしてこっそりと。  ふたりと手を繋ぎ、誰にも見つからず目的の場所へ辿り着く。シェフに頼んで作ってもらったサンドイッチを手渡せば、ふたりとも嬉しそうに頬張り始めた。  わたしたちの上空を、名前も知らない鳥が気持ちよさそうに泳いでいる。今日は快晴だ。けれどエルサの表情は、それとは裏腹にふと、曇っていってしまう。 「…パパとも食べたいな」  きっと朝は我慢していたのだろう言葉が、ぽつり、胸に落ちていく。わたしも。わたしだって、あなたたちのパパと、 「…パパだってエルサたちと食べたいって思ってるわよ、きっと」  気持ちを押し込め、デザートのチョコレートを進めれば途端、きらきらと眸が輝く。  だってわたしは、この子たちの母親だから。  どうやらお昼前に、庭をうんと駆け回っていたらしい娘たちは、ランチを終えるとすぐお昼寝に入ってしまった。  子守歌を聞くことなく夢の世界へ走っていってしまったエルサとアナに、おやすみのキスを一つずつ。閉めた扉にもたれ、長い息を吐き出した。  普段ならばこれから、じゃあ私たちも休憩にしようかとお茶菓子を持ち寄るのだけれど、相手がいないいまはただ時間を持て余すばかり。昨日も一昨日も、そして明日も明後日も、きっと。  海を隔てた隣国に出かけたこの国の王は、もう一週間も音沙汰がない。初めは三日ほどで帰ってくるはずだったのに、日はどんどん過ぎて。目的の国からなんの通達もないから、途中で遭難した、なんてことはないだろうけれど。  そちらはどうですか、アグナル、晴れていますか、寂しくはありませんか、わたしに会いたくはありませんか──募る想いを堪えるのも、もう、限界だった。  気丈でいようと努めた、だってまだたったの一週間だもの。滞在が長くなることだってあるわと言い聞かせ、寂しがる子供たちを宥め、代わりに公務をこなして。出来ると思っていた、平気だと笑って見送った、そのはずだったのに。  わたしは結局、彼の姿ばかりを追ってしまっていて。 「──どうしたんだい、イデュナ、こんなところで」  降ってきたのは、もはや懐かしい声だった。  視線を巡らせてみれば、高い位置にある見慣れた色に出くわす。にじむ視界でもそれとわかる眸も、少し寄った眉も、たくわえ始めた髭も、そうしてやわらかな表情も。なにも、なんにも、わたしの知っている彼と変わってはいなかった。  涙をこぼしたわたしを見とめ、彼は急に慌てふためく。 「ああ、その、怒っているのなら謝らせてくれ、遅くなったのにはわけが、」 「アグナル、」  そんな夫の言葉を遮り、思いきりしがみついた。息を吸い込んで。これはいつも、ベッドで感じるにおい。空いたひとり分のスペースに残された、彼の香り。  動揺している風だった彼はけれどわたしの頭に手を置き、その大きな手で撫でてくれた。ぬくもりが伝わってきてまた、視界が不明瞭になっていく。 「ただいま、イデュナ。君に会いたかったよ、とても」 「─…わたしも。会いたかったのよ、とても」  息をまた、一つ。 「──おかえりなさい、アグナル」 (影ではない彼はたしかに、ここにいた)
 つまりはどうしようもなくあなたに会いたいということ。  2017.4.22