Hello, Princess.
まるで水底のようだと、彼は言った。
「心臓の音と、それから、なんだかぽこぽこ聴こえるよ」
ぽこぽこ、なんて表現が似つかわしくなくてそっと笑いをこぼす。どうやら見咎められてしまったみたいで、それ以外適切な表現が見つからなかったんだ、と。口をとがらせて見上げてくる様子はまるでへそを曲げた子供ね。そんな姿もかわいいのだけれど。
どうにか機嫌を直してほしくて、男の人にしてみればやわらかい髪を撫でれば、いよいよそっぽを向いてしまった。
あら、なにがご不満なのかしら。
「…君は少し、私を子ども扱いしすぎだ」
なんだ、そんなこと。
「そんなこと、とは。私にとっては由々しき問題なのだが」
そう言われても、いつもは凛々しく厳格な現国王が、わたしとふたりでいる時は途端に甘えた風になってしまうのだから仕方がない。いまだって、子供の成長が見たい、だなんてわたしの大きくなったおなかに耳を当てて、ゆるやかな音が聴こえるからか少し、まどろんで。
頬をゆるめている様子はこれからパパになる人にも、家族が生まれてくることを心待ちにしている兄のようにも見えた。
いつでも王たる自覚を忘れていないはずなのだが、なんてぶつぶつつぶやいているかわいい国王さまに微笑みを一つ、そういえばと、なんでもない風を装って声をかける。顔を上げた彼の目の前にゆるり、左手をかざして。
手のひらから、小さな雪の結晶が躍り出た。
彼の眸が驚きで見開かれる。重力に逆らって浮いていった結晶はやがて静かに空間にとけた。
「…これ、は」
これはきっと、おなかの中にいるこの子の魔法ね。
「魔法、か」
眸が不安そうに揺れる。わたしと同じように、この子を案じているのかもしれない。生まれる前から不思議な力を発現させてしまった子供の未来を、行く末を。忌むべき力を持った者が辿りつく場所なんて、考えなくたってわかりきっているから。
安心させようと微笑んでみた、つもりだったのにきっと、うまく作れていない。きちんと笑わないと、彼にまで恐れが伝わってしまうのに。おなかにいるこの子まで怯えさせてしまうかもしれないのに。
そんなわたしに、けれど彼はふと、笑いかけた。いつもみたいに自然に、やわらかな笑顔を。
「きっとこの子は、やさしい子に育つんだろうな」
その確信がどこからくるのか、首を傾げれば、やさしく左手を取られてそのまま彼の頬を包み込むみたいに宛がわれた。指先がどうしようもなく震えていることをきっと知っているのに、それでも手を握りしめて、大丈夫だ、なんて。
「この子の雪はこんなにも、あたたかい」
だから大丈夫だと、彼は言う。なによりも私たちの子供なのだからと、もうすぐ父親になる夫は笑う。わたしの不安さえも呑み込んで。呆れてしまうくらい甘えたな人はけれど、誰よりも強くあろうとしていて。
つられて笑みを落とす。今度はちゃんと、形になっているはず。その証拠にほら、彼も目尻のしわを深めて。
左手をそっと、宙に向ける。窺うみたいにふうわり現れた結晶が天井にまで到達して、それからとけていった。大丈夫、あなたはこんなにもあたたかいから。
大きな手がおなかを撫でていく、守るように、慈しむように。
あたたかな雪がふわり、舞った。
(どうかこの子が、この雪のようにあたたかい子でありますように)
雪の王女が生まれる少し前。
2014.10.15