ただ、恋をしただけでした。

 雨の日は、すき。 「──イデュナ、」  見慣れた靴が目の前で揃えられる。呼びかけに顔を上げるよりも早く、傘の柄が取り去られ、視界が広がる、笑みに形作られた表情が現れる、わたしにまで同じものが広がっていく。  大きめの傘が雫に打たれる音だけが響く、だってこんな雨の日に好き好んで佇む人なんて数えるほどもいないから。 「遅れてすまない」 「いいえ、わたしもいま来たところなの」  冷えた手を握られてしまえばすぐ明るみになってしまう嘘を一つ、だって彼の方こそ、この雨の中駆けてきたことをおくびにも出さないのだから。裾に跳ねた泥を見つけてこっそり安堵しているのは、わたしだけの秘密。  自身の傘を畳んでそっと、曲げて差し出してきた腕に自分の両のそれを絡ませ、ふたりして足を進める。どこへ、なんて宛てはない、ただ、人のいないところへ。次期国王である彼が、誰とも知れない女と仲睦まじく歩いている姿を誰かに見咎められてしようものなら、なにを噂されるかわかったものではないから。柄を握った彼が傘を深く、素性が知られてしまわないように。  傘の中だけは、わたしたちふたりの世界だった。ここでなら腕を組んでも、指を絡めても、視線を重ねても。どこにでもいる普通の恋人の真似をしてみたって、許されるような気がした。 「今日はよく雨が降るな」 「ええ、本当に。おかげで髪が言うことを聞いてくれなくて」 「ふわふわと髪をふくらませている君もかわいいと思うよ、私は」 「あなたがよくても、わたしが困ります」  ぱしゃ、ぱしゃ。  水の跳ねる音に紛れて、腕を下へと辿っていく。行き着いた指はわたしのものより少しだけあたたかくて、その温度にまた、頬がゆるんだ。すぐに絡んでくれた指はもう離してくれそうもなくて、けれどわたしも逃れるはずもなくて。 「ねえ、あなたまで冷やしてしまうわ」 「君のこの体温まで愛しているんだ、これくらいどうってことないさ」  愛、だなんて、いつもは頬を染めて小声でしか口にしないくせに。そういえばかわいいなんていう褒め言葉も、普段なら言葉を詰まらせながら伝えてくるのに、今日はすんなりと、聞き逃してしまうほど自然で。  ちらと隣を窺う。少しばかり背を屈めた彼はまだ、口の端をやわらかく持ち上げたまま。 「…なにか、ありましたか」 「─…いいや、なにも」  嘘をつくのは上手でないくせに。さっきより強く握りこまれた指にどうして気付かないというのだろう、強張った表情をどうして見咎めないというのだろう、必死に心を伝えてこようとするあなたをどうして訝らないというのだろう。  きっと、決定したのだ、戴冠式の日取りが。詳しい日程が国民に発表されるのはまだ先だろうけれどきっと、夏がやってきたら。歴代の国王も初夏に行っていたのだと、いつだったか父に教わったことを思い出した。 「…もうすぐ、」  雫が傘を打つ、わたしたちふたりだけの世界に音を残しては消えていく、わたしにばかり傾けているせいで彼の右肩がぐっしょりと色を濃くしてしまっている。 「もうすぐ、夏、ですね」 「…嫌いだよ、夏なんて」  戴冠すれば、国王になれば、こんな自由も許されなくなってしまう。雨の日に人目を忍んで逢瀬を重ねることなんて、もう二度と。  絡んだ指が体温を失っていく、わたしのせいで、わたしに触れてしまったばかりに、彼のなにもかもが変わっていってしまう。そもそも触れたいだなんて恐れ多い願いを抱いてしまったことが間違いなのだけれど、それさえも否定してしまったらもう、ひとりで傘を差せなくなってしまいそうだから。  歩みが止まる、これ以上の行き場がない、だってわたしたちの世界はこの狭い空間一つしかないのだから。 「──止まなければいいのに、雨」  呟いたのはわたしか、彼か。判断するより先に、雫がまた一つ。 (ただ、想いを寄せたかっただけなのに)
 町娘イデュナとアグナル王子の実らない恋。  2017.6.11