そもそもぜんぶあなたのせいじゃないの。

 だって、こわいものはこわいの。 「イデュナ」 「はい」 「ちょっと執務室に書類を取りに行くだけだから。すぐに帰ってくるから」 「はい」 「だからこの手を離してくれないだろうか」  ベッドのふちに腰かけたアグナルはやさしい視線をつと下げる。その先は彼の上着の裾。わたしの手がはっしと掴んでしまっているから、彼はいつまで経ってもここを動くことができない。わかってはいるんだけれど、指先がなかなか言うことをきいてくれなかった。  ちらと見上げれば、彼の眉が見慣れたかたちに下がってしまっている。困っているのだ、たぶん、ものすごく。それでも無理に離すことができなくてただ、わたしを宥めてくれていて。  そ、と。指を離すと、安堵したふうに表情をゆるめたアグナルが腰を上げる。  けれども気付けば伸びた指がまた、同じ場所を握って引き戻してしまっていた。 「なあイデュナ」 「はい」 「ちょっとの間だから」 「わたしも行く」 「そんな肌寒い格好でかい?」 「大丈夫よ」 「君に風邪を引かれては私が困るよ」  たしかにわたしはもう、薄手のネグリジェ一枚に着替えてしまっていた。上着やら着替えやらは侍女が洗濯するために持っていってここにはないし、この寒さだ、彼の上着を拝借するわけにもいかない。ここで駄々っ子のようにぐずぐずしているよりも、アグナルだけで手早く行って帰ってきた方がよっぽど早い。わかってる、わかってるわよ、そんなことくらい。  おずおずと、もう一度、裾を解放して。いまのうちにと立ち上がりかけた夫の裾を、今度は両手で掴んだ。 「あ、あなたが、悪いんですからね」  飛び出したのはまるで子供の言い訳。 「やだって言ったのに、わたしがこわがるような話をして。だから、」 「だから。私と離れたくないのかい?」  真摯に覗きこんでくる太陽色の眸に押され、ぐ、と言葉がつまる。そうです、なんて、正直に口にするのは癪だけれどまったくその通りだから、素直にひとつ頷いた。  この城には幽霊が出るんだよ、と。てっきりどこにでもある怪談話かと思いきやごく普通に、いいえそれ以上に真剣な表情でもって話し出すものだから、彼の語るどれもこれも本当のことなのではないかと信じてしまって。闇に包まれた城が、部屋が、ひとりきりになるのが、とてもこわくて。  掴んだ裾に視線を落とすわたしの頭をぽんと撫で、上向いた瞬間に額にくちづけがひとつ。 「なら、目を閉じて」  言われた通り、眸を閉ざす。まっくらな世界を、おだやかな声だけが支配する。 「私を思い浮かべてみるんだ。できるかな?」 「…できます」 「ではその浮かべた私にくちづけてみてくれ。君ががんばっている間に、戻ってくるから」 「…はい」 「いい子だ」  そうして頬にくちづけをもう一度。ふとベッドが軽くなり、扉が開いて、閉まって。  取り残されたわたしはただ彼の指示したままに、まぶたの裏の彼に意識を集中させた。キスするくらい簡単よ、だっていつもしていることなんだから。そうは思うものの、面と向かってくちづけを待たれるとなかなか恥ずかしさが先行してしまう。夫は不敵な笑みを浮かべている。なんて憎たらしいの、想像のくせに。  想像上のアグナルを前にうーんとひとしきり唸って、ようやく覚悟を決めて。かかとを上げる、もちろん、まぶたの裏で。距離を詰めて、裏に浮かべたわたしも同様にまぶたを閉じて。  ちゅ、と。くちびるに触れた感覚は、本物。 「ほら、ちゃんと間に合っただろう?」 「…遅いわよ」 「グッドタイミングだと思ったのだがな」  苦笑した彼の首に両腕を回し、ぎゅ、と抱きつく。身体はまだ、ぬくもりを残していた。 (罰として今夜はそばにいてもらいますからね、ずっと)
 某映画の夫婦がかわいかったので。  2018.1.29