だってわがままなんていえないもの。

 まさか見つかるとは思っていなかったから、それはそれは驚いた。 「どうしたんだいイデュナ、そんなところで」  唐突に向けられた声と視線にびくりと、大仰なほど肩が震える。扉の隙間から覗かせていた眸を隠して、それからまたおそるおそるもといた位置に戻って。執務室で大臣たちに囲まれていたアグナルはたしかにこちらを見ていた。不思議そうに首を傾げ、どうしたんだ、と。 「ご、ごめんなさい、お仕事の邪魔を、」 「いや、大丈夫だよ、一段落ついたところだから」  その言葉の通り、めいめい書類を手にした大臣がわたしに頭を下げ退室していく。  おいでと、彼が手招くまま足を踏み入れる。それまで話し声が響いていた部屋を一気に静寂が占めたものだから、なんだか居心地が悪くて、組んだ指に視線を落とす。 「あ、の。どうして気付いたんですか」 「この私が、君の存在を感じ取らないわけがないだろう」  それに思いきり顔が覗いていたからね、と。どこかいたずらに微笑まれ、かあと頬に熱がともる。そんなにあからさまだったなんて。恥ずかしさと申し訳なさに、いまなら顔から火だって出せそうだった。 「なにか用事でも?」 「用事、って、ほどでも…」  声にする先から音が消えていってしまう。  さみしいから、だなんて、口に出せるはずがなかった、だって彼はわたしよりもうんと忙しい人だから。  朝は陽が差しこむよりも早く目覚め、夜が完全に深まってから寝室に戻ってくる生活がここ最近ずっと続いていた。いつからまともに顔を合わせていないのか数えようとしても、もう両手では足りないほど。もしかすると彼はわたしの表情なんて忘れてしまったんじゃないかと、本人に言えば笑われそうな不安さえ抱いてしまって。  そうしてこっそり執務室を窺ってみれば、政務官や秘書官など現国王に仕える歴々の官人と言葉を交わす夫の姿。書類を片手に話しこむ姿勢にやっぱり彼は次期国王なのだと──忘れていたわけじゃ、なかったのに。夫であるはずの彼が、どこか遠い人のように思えてしまって。  場違いさに涙さえあふれそうだった。どうにか流れてしまわないようにと、ぐ、とくちびるを噛みしめて。 「─…すまない、イデュナ」  ふ、と。近付いた影に顔を上げるより先に、背中に触れたぬくもり。それが彼の両腕だと認識する前に引き寄せられ、気付けば腕の内に抱き留められていた。 「用事がなくったっていつでも、来てくれていいんだよ」  久しぶりに感じる体温に、こらえていたはずの雫がぽろぽろこぼれていく。 「それにちょうど私も、君のところへ行こうと思っていたんだ」 「…ど、して、」 「君が恋しくてね」  見上げれば、少しばかり恥ずかしそうに苦笑した彼が肩を竦める。ぼやけてしまってよく見えないけれど、それはたしかに、わたしのよく知っている表情。わたしのだいすきな、アグナルの笑み。 「…そんなこと、言ったら、会いにきちゃいますよ、たくさん、たくさん」 「会いに来てくれ、たくさん、たくさん」 「迷惑、かけちゃいますよ」 「迷惑なわけないじゃないか」  ぐ、とゼロ距離にせまった身体にすがりついて、みっともないと思いながらも声を上げて泣いた。彼の前ではじめて見せた涙だった。  子供みたいに嗚咽を洩らすわたしの背中を、彼はずっと、やさしく撫でてくれていた。 (だって私たちは夫婦なんだから、なんて彼の声がひとつ)
 新婚ほやほやの距離感がすき。  2018.3.18