あなたとわたしに似合いのラストを、
「婚約したの。──って言ったら、あなたはどうする?」
ことり。指したナイトが、彼のキングにチェックをかける。指を話すと同時、ちらと視線を持ち上げてみれば、同じく盤から顔を上げたばかりの眸と出会った。
わたしのものとはまったく違う色。移り変わる季節に置いてけぼりにされた真夏の太陽にも似た、色。一体何度、この眸を見つめてきただろう。一体何度こうして、この太陽に映されてきたのだろう。真面目に数えようにも彼とのはじまりは、もはや掠れて思い出せないほど遠い昔のことで。
またたきがひとつ、ふたつ、緩慢にもたらされた後、太陽は影を差すこともなくまた盤に向き直る。
「君のようなお転婆姫を迎え入れられる酔狂な男がいたとは」
「あら、失礼な言い草ね」
「事実を言ったまでだよ」
「事実は隠すためにあるものでしょ」
「君にだけは実直であろうという、私の心の表れが分からないのかい」
だけ、だなんて。大して考えもなく吐いたであろう言葉に、不覚にも鼓動が跳ねてしまう。悟られぬよう、指をぎゅっと握り込む。いま動揺させるのはわたしの側であるはずなのに。
ともすれば震えてしまいそうになるくちびるを必死で噤んでいるわたしの様子に気付いてさえいないだろうその人は、あごに手を当て思案のポーズ。
息を、ひとつ。心を隠す術は、窮屈な生活の中で嫌というほど身に染み付いている。
「それで」
「それで?」
「答えは」
「答えとは」
「どうするのかって質問にまだ答えていないわよ、アグナル」
努めてなんでもない風に、彼を真似て眉間を寄せてみせる。幼い頃からちっとも変わらない、彼の癖。考え込んでいる時によく浮かべる表情だけれど、いま彼の頭を悩ませているのはチェスの次の手なのか、それともわたしが発した言葉に対してなのか。
相手にとってはきっと数秒、けれどわたしにとっては随分と長い間の熟考を経て、あごから離れた指が黒く染まったクイーンの王冠部分を挟む。盤を滑った彼女は、王を追い詰めていたはずの純白の騎士を塗り潰していく。
「それで。どうしてそんな夢物語を」
こつり、こつり。何事もなかったかのように─実際問題彼の中では何事もなかったのだろうけれど─ゲームは進んでいく。
「夢ではなく現実よ、アグナル」
進撃していたのはわたしの方であったはずなのに、いつの間にか防戦一方。
「ほう。明日は雪かな」
漆黒の女王が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「冬のアレンデールに、雪の降らない日なんてあるのかしら」
まだ。まだ、終わらせてはならない。焦りばかりを覚える心中とは裏腹に、こつり、無情にも彼は指した、最後の一手を。
「お遊びもこれまでのようだよ、レディ」
気付けばわたしの王の逃げ場は絶たれてしまっていた。チェックメイト、と。彼の声が終わりを告げる。
このゲームで勝利したことは、ただの一度もない。相手の三手先を読むのは彼の得意とするところだろうから、それも当然といえばそうなのだけれど。もう少しだけ、会話を続けられたら。それでもきっとなにも変わってはいなかったと、どこかから俯瞰しているわたしがこぼす。
そう、なにも。わたしとアグナルはずっと昔から、この距離のまま。
傍らの置時計にちらと視線を向けた彼が腰を上げる。
「ちょうどいい頃合いだ」
「あら、また勝ち逃げする気?」
「麗しいじゃじゃ馬姫を退屈させるのは忍びないが、来客があるのでね」
「誰が麗しくて上品ですって?」
「ほう。どうやら素晴らしい耳をお持ちのようだ」
「お褒めに与り光栄ですわ、殿下」
悪戯な笑みを浮かべた彼は、適当にくつろいでいてくれと言葉を残し踵を返す。言われずとも、すでに身体は豪奢なカウチに抱き留められていた。知らず張っていた気が、ため息とともに抜けていく。
靴音を響かせ去っていく彼はけれど、ノブに手をかけたところでふと足を止めた。
「─…式には、招待してくれるんだろう?」
考えでも巡らせたような間の後、振り向くことなく問いが向けられる。彼が描いているもしもに、自分で話題を投げておきながら胸が締め付けられていく、きりきり、呼吸が止まってしまいそうなほど。
それでもまたたきひとつで縛りを解き、見えていないとわかっていながら微笑んだ。飾った表情の裏に心を隠すのは、得意だから。
「誰が呼んであげるものですか、あなたみたいな好色」
「おや、失礼な言い草だな」
笑みがこぼれる気配。後ろ手で扉を閉めた彼は結局、一度も振り返らなかった。
***
わたしがアレンデールに足を運んだからといって、その国の王子が四六時中相手を務めてくれるというわけではもちろんない。ゆくゆくは王位を継ぐ彼には、こなすべき公務がそれこそ山と積まれているのだから。
そんな時わたしは、勝手知ったる城内をひとり当てもなく彷徨う。
廊下ですれ違うのは、もはや見知った城仕えたち。窓拭き中のある者は手を止めガラス越しに会釈をひとつ、厨房からやって来たある者は焼き立てのパンをひとつ、花瓶を抱えたある者は綺麗に咲いた一輪を、それぞれ送ってくれた。
もらったパンを一口、じんわりと甘みが広がっていく。
こんなところを、たとえば侍女長に見咎められようものなら、廊下の真ん中に立たされたままお小言をたんまりと頂戴しそうだけれど、幸いにも彼女に遭遇する気配はなかった。きっとアグナルの言っていた客人を出迎える準備にかかりきりなのだろう。願わくば全部お腹に収めるまで顔を合わせませんようにと、もう一口。
城の侍女たちを束ねる侍女長でありアグナル付きの教育係でもある彼女には昔から、ふたり揃ってお叱りを受けていた。と言っても大抵は、わたしのやんちゃな遊びに付き合わされた結果の叱咤ばかりだったけれど、それを言い訳にもせず黙って頷いていたものだ、幼い日の彼は。
もう随分と大人に近付いてきたわたしたちは、それに伴い叱られる回数も減っていった。少なからずの寂しさは感じるもののやっぱり、怒られないに越したことはない。だって両手を腰に当てた彼女は、自身の親よりも恐ろしいのだから。
だからわたしは、角を曲がったところで見えた覚えのある背格好に、半ば条件反射的に急いで残りのパンを頬張った。
足音を聞き付けたのか、両手にたくさんの食器を抱えたその人がぱっと振り向く。
「まあ、イデュナ様」
さして驚いた様子のない彼女に、片手を上げて応える。だって口内ではまだ形を保ったパンが甘さを主張していたから。
「今回のご滞在予定は?」
投げかけられた疑問に、口の中の甘みを慌てて飲み下す。やっぱり隠し通すことはできなかったみたいで、本当に貴女という方はと呆れを乗せたため息がひとつ。
「もう立派なレディになられたかと思えば」
「返す言葉もございません」
示されたくちびるを舌で拭えば、ザラメの感触。
「明日には帰国するつもりよ」
「昨日いらっしゃったばかりなのに、随分とお早いのですね」
目を丸める彼女にただ苦笑だけを返す。
父には一週間の旅程だと告げていたけれどもう、充分だった。
サザンアイルズ第三王子との縁談を持ち掛けられたのは、なにも今回がはじめてではなかった。遠く離れた我が国を選んだのは恐らく、貿易に富んでいるアレンデールと友好関係にあるからだろう。透けて見える政略に、カーマル国王であるわたしの父は難色を示し、いまだ首を縦には振っていない。
多くの血を流してきた歴史を持つ我が国はもはや、領土の拡大は求めていなかった。ここ数代の王も、そして温厚な父も考えは変わらず、一人娘であるわたしを政略結婚の駒に使うような真似はしたくないのだと。父と、若くして亡くなった母のように、愛し合った相手と結ばれてほしいのだと。
心で結ばれたい、相手。
わたしには、そして父にも、思い浮かぶ相手はただひとりしかいなかった。だからこそいつだって、アレンデールへ向かうわたしを笑顔で送り出してくれるのだろう。そんな父はきっと、沈んだ心に気付いていない。
「昔はひと月でもふた月でもいてくださりましたのに」
「…もう、あの頃みたいに子供ではないもの」
この冬が終われば、成人の儀が執り行われる。サザンアイルズからも、周辺諸国の王子からも、求婚を迫られるのは恐らくもうあと少しのこと。だからこの旅が、最後の機会だった。
いずれ大規模な戦争が始まるだろうことは、各国の緊張状態を見れば明らかなことだ。そうなればいくら争いを避けてきた我が国であろうと、戦いに身を投じなければならなくなる。
大きな後ろ盾を、国の利益となる婚姻を。王族に生まれ落ちた誰しもに課せられた呪いがたまたまわたしにかけられなかっただけで、いつだって隣り合わせなのだから。
目の前の彼女が眉をひそめる。
「姫様、顔色が優れないようですが」
「…少し、寒いせいかしら」
「天気が悪いからでしょう。この空模様だときっとすぐ、雪が降り始めますよ」
彼女の言葉につられて視線を移せば、窓の外には暗雲が垂れ込めていた、まるでわたしの心の内みたいに。
「イデュナ様が無事お帰りになるまで、激しくならなければよいのですが」
「そう、ね」
いっそ一歩も外に出られないくらいの悪天候になってしまえばいいのに、なんて。そうなればわたしの帰国予定だけでなく、ここの国民たちにも被害が及んでしまうから滅多に口には出せないけれど。それに残っていたってもう、なにも。
「あら、花が」
彼女は察しが良いから、これ以上は抱えているものに勘付かれてしまうだろうと別の話題を探し、そうしてはるか下に映る色に目が留まった。彼女も同じく窓を覗き込み、ああと声を洩らす。
「サザンカですね。先日ようやく開いたばかりで」
「雪が降れば、散ってしまうわね」
「ええ、恐らく」
「…少し、見てきてもいいかしら」
せっかく懸命に咲いたその色を、目に焼き付けておきたくなった。きっともう自由にここを訪れることはできないだろうから、自分の意志で動けるうちに、この国のものをたくさん。
「外套をお持ちしますので、少々お待ちを。風邪でも召されたら合わす顔もございませんから」
「ありがとう、…本当に」
早速どこかへと足を向けた彼女の背中に感謝をかける。こうして世話を焼いてもらえるのももしかすると、最後かもしれないのだから。
***
きんと凍った空気が頬を刺す。もう何度も経験してきたはずの冬をけれど、季節が巡るごとに忘れてしまうのだから困りものだ。
受け取った外套の前身頃を合わせる。心なしか香った彼と同じ匂いに、こぼれたのは苦笑。こんなところにまで、あの人を感じ入るだなんて。
頭を振って思考を逃がす。
そうしてもう一歩、足を踏み出せば途端、彩色豊かな世界が広がっていった。
身の丈ほどの木に花弁がいくつも開いている。純白に、紅をまとったそれに、薄く桃を散らしたものと、目に鮮やかな色ばかり。とりわけ薄桃色のサザンカは、なによりも色濃くわたしを惹きつけた。
そ、と。花弁の下からやさしく持ち上げる。
サザンカは冬に花をつけるものの、厳しい寒さにはあまり強くないと聞く。いくら品種改良を重ねているからといってもきっと、散ることのないままこの国の冬を越すことはないのだろう。
距離を置き、ぱたりと横たえた身体を痩せた芝生が受け止めてくれた。眸を閉ざしてしまえば、わたしがまだ、無邪気さしか持ち合わせていなかった少女でいるような錯覚の深みに落ちていって。
この広い庭園を駆け回っていた日々がつい昨日のように感じるのは、わたしがまだ大人になりきれていない証拠なのだろうか。
肌を射る寒さも、太陽からもたらされる暑さもものともしていなかった、あの頃。わたしは少女で、彼もほんの少年だった。ふたりのすべては、この城内に詰め込まれていた。わたしの遊び相手は彼しかいなくて、彼の遊び相手もまたわたししかいなくて、けれどそれだけで充分、満たされていて。
曾祖母の妹姫がこの国に嫁いだことから、カーマルとアレンデールは友好関係を築いている。そのためか、幼い頃から父に連れられよく、この地を訪れていた。
わたしよりも二つ年齢が下の王子は寡黙で気弱で、どこまでも誠実で。そんな少年の手を引いて、城内の探検へと繰り出す毎日。
父にわがままを言って、時には季節が移り変わるほどの長期間、滞在していることも珍しくなかった。いま思えばアレンデール国王もよく許してくれたものだと、昔の自分に呆れさえする。幼いわたしはそれだけこの国に魅せられていて、そうして同世代の男の子ともっと一緒に遊んでいたくて。
この庭園は、かくれんぼをするには絶好の場所だった。鬼は大抵、小さな王子の役目。彼はじゃんけんで、いつだってグーを出すから。
咲き誇る花壇の陰に、葉を茂られた大樹の枝の上にと、隠れられるところはいくらでもあった。なにせお行儀よく勉強やら作法やらを覚えるより身体を動かすことの方が好きだったわたしは、どんなことだって面白がっていたのだから。濡れた地面に這いつくばることも、高い木に登ることにも、抵抗なんてあるはずない。
そんなわたしを見つけるのにはどうやら大変な苦労を要するようで、鬼役の少年はいつもうろうろと、眉尻を下げて捜し歩いていた。終いには膝あたりをぎゅっと握りしめ涙を堪えるみたいにくちびるを噛み佇むものだから、慌てて駆け寄り慰めるのが常だった。
少年は泣かない。わたしに涙を見せたことがない。彼は出会った頃から、心を隠す術を学んでいたから。成長するにつれそれは顕著になり、いまではあの、なにを考えているのかまるで読めない笑顔の裏にすべてを押し込めてしまう。
彼が、立派な王子へと成長を遂げたアグナルが、幼馴染とも呼べるわたしに一体どんな感情を向けているのか、それさえも。
太陽色の眸がわたしを映し取るたび、その色の持ち主である彼の真意を推し量ろうとして、けれどその術を、わたしは持ち合わせてはいなくて。
ふ、と。
ぬくもりが触れた気がして、まぶたを持ち上げた。
「──みつけた」
逆さまの太陽色に、わたしが映り込んでいる。
またたきをひとつ、ふたつ、みっつ目でようやくその色の持ち主に思い至り知らず、息をついた。あの日の少年がいつの間にか、わたしを見つけられるようになっていただなんて。
「眠り姫のお目覚めだ」
「お転婆姫の間違いじゃなくて?」
「自分で言ってしまっては世話がないな」
わたしが上体を起こすのと、朗らかに笑った彼が隣に腰を下ろすのは同時だった。
どうやら寝転がってそのまま眠ってしまっていたらしい。浅い夢に落ちている間に、どんよりと重かった雲がさらに厚みを増した気がする。
悪化した天候を意識した途端、裾や襟元の隙間から冷え切った空気が侵入してきた。こんなに寒々とした冬空だ、たとえ仰いでいた時間がたった数分だったとしても、身体の芯が凍えるには充分。
「これからどこぞの王妃になろうかという姫君が、そう軽率に横になってはだめだよ」
「それくらい自由にさせてちょうだい」
「私たちに自由は認められていない。そのことは、君もよく知っているんじゃないか」
語尾は上がったものの、それは疑問ではなく紛れのない事実。王位継承権を持つわたしたちに、自由意志など存在しないのだ。
窮屈には感じるけれど、今更抗うつもりもない。だってわたしは王女で、彼は王子。ゆくゆくは玉座に君臨する者としての教育は受けてきた。覚悟と、それからある種の諦めを学んできたのだから。
俯くわたしの肩を、やわらかな布が滑っていく。見れば、アレンデールの象徴でもあるクロッカス模様がふんだんにあしらわれたショールが身体を覆っていた。わたしが寒空の下にいることを見越してわざわざ持ってきてくれたというのだろうか。
藤色のそれをそっと引き寄せる。
「夢を。…昔のわたしたちを、見ていたの」
諦めを。覚え込んだはずだった、のに。
「あの頃の君にはよく、振り回されていたよ」
「あら、失礼な言い草ね」
「失礼、レディ。正しくは現在進行形だ」
「あれだけ弱虫だった男の子が、随分と弁が立つようになったじゃない」
「どこかの男勝りな女の子のおかげでね」
「感謝の言葉として受け取っておくわ」
「そうしていてくれ。実際、君には感謝しているんだ」
珍しく届いた素直な言葉に面食らって隣を見やれば、発信元である彼はまっすぐ前方に視線を向けたまま、その口元に微笑みを乗せていた。
「弱虫で非力だった私が、君のおかげで強くなれた」
「強く」
「そう、君よりもうんとね」
低い木ひとつ登れなかった男の子が主張する強さとは、一体なんのことだろう。易々と木登りできるようになっただとか、わたしを見つけることができるだとか、きっとそういうことではなくて。
ごろりと、先ほどのわたしと同様に身体を横たえた青年は、見上げるでもなく空を視界に収める。
「王位を、継ぐんだ」
「…いつ」
「…分からない。けれど、もうすぐ」
嘘がへたくそな人だった、昔から。
本当は日取りまで確定しているのであろうそれは恐らく、わたしの成人の儀と同じ春。アレンデールの長い冬が終わったその時、頭に冠を戴くのだろう。それがこの国の古い慣習でもあった。
即位するに伴いこの国に、王妃を迎え入れるのだろう。国を存続するため、更なる発展へと導くためには、王妃の存在は必要不可欠だから。きっと相手は、わたしの知らない誰か。わたしではない、誰か。
思い当たる女性がいないといえば嘘になる。眉目秀麗な青年へと成長した彼の浮名は、それなりに耳にしていたから。やれどこぞの王女に言い寄られていただとか、情熱的な文をいくつも受け取っていただとか。社交界のお暇なご婦人がたはこの手の噂ばかりを好んでいるから、聞きたくなくても問答無用で流れてくる。
そんな中で、王子側から好意を寄せているといった旨の話題を目にしなかったことだけが幸いだけれど。
けれどきっと、噂になった誰かしらに思いを抱いてはいるはず。彼だって年頃の青年なのだから。
そう遠くはない未来に、若く麗しいどこぞの王女さまが彼の隣に並び立つことだろう。外を駆け回ったり、木に登ったりなんてしない、おしとやかで王女然とした、誰かが。
そんな将来をふと描くだけで覚える息苦しさを、またたきひとつで逃がした。
子供じみた駄々を抱えているわたし自身、顔も見たことのないどこかの王子の隣に立ち、知らない国で終える一生が控えているのだ。もしかするとそれは、彼が妻を娶るより先かもしれない。
帰国したら、父に進言するつもりだった、サザンアイルズ第三王子の求婚を受け入れると。カーマルは豊かな国ではあるけれど、こと戦力面を見れば他国との差は歴然。そんな中、大戦に巻き込まれようものなら、もう国を維持してはいけないだろう。
父はやさしすぎる、ともすれば愚かにさえ映るほど。
「─…アグナルは、」
あるいは、彼も同じ気持ちでいてくれたら。
それはどこまでも夢にまみれた願い。わたしがいつの間にか膨らませていた、幼馴染に向けるには強すぎる想いを、彼もまた、抱えていてくれたらと。
喉元まで迫っていた言葉を、けれどひそやかに飲み下す。そうして、わたしは、と。
「わたしは。あなたのしあわせを願っているわよ、いつだって」
眸がまたたきをひとつ、ふたつ目は閉ざされたまま。
「私も。君が笑顔でいられることを願っているよ、いつだって」
──彼が眸を覗かせていなくてよかったと、思った。そうでなければきっと、痛いほど噛み締めたくちびるを咎められていただろうから。
わたしの顔が綻ぶのは、軽口を叩けるのは、傍にいたい相手は。誰であろう、この人自身なのに。彼の隣で笑っていられない人生に、しあわせなんてあるはずがないのに。
だからこそ最後の望みを賭けて偽った、婚約したのだと。もしかすると抱えているかもしれない想いの一端を吐露してもらえるだろうかとか、そこまでの期待はかけていなくて。ただ、愛想と建前で塗り固められた表情にどうか少しでも動揺が走りますようにと。
結果はある意味、想像した通りのものだった。わたしの隣に別の誰かがいる未来を口にする彼は至極、普通で。動揺も、戸惑いも、そのなにひとつも見つけることはできなくて。彼にとってのわたしはきっと、その程度でしかなくて。
そうでなくてもわたしの故郷はアレンデールに比べ、領土も経済面も、どれを取っても見劣りしている。アグナルの気持ちがどうであれ、婚姻関係を結んだとしてもこの国への利益は大して見込めないだろう。
そうやってひとつひとつ、潰していった、望みを、可能性を。期待していなかったなんて嘘、本当はそうであればと願をかけていたから。他の誰でもない、わたしのことを想っていてくれたらと、そう、
「イデュナ、」
この音が、わたしの名前だけを紡いでくれたらと。
まぶたを開けた音の持ち主は、けれど眸にわたしをとかさない。わずかにかげった太陽色がなにを映しているのか、わたしには見当もつかなくて。
庭園を支配する静寂が耳に痛い。途切れた言葉に続く内容を想像するだけで、視界が歪んでしまいそうだった。
ショールを引き寄せた指をかたく、握り込む。青白い血管が浮かんだ甲に、白い結晶が舞い降りて、とけた。
「…もう、降ってきたのね」
見上げてみれば、すっかり厚みを増した暗雲からちらちらと、少なからずの雪が落ちてきている。どうやら明日まで待ってはくれなかったようだ。
隣に視線を戻せば、またたきとともに言葉を呑み込んだ彼が身体を起こしたところだった。
昔に比べ随分と伸びた背が、見上げているせいだろうか、普段よりいくらも大きく映る。冷たさに赤く染まった頬が、手を伸ばしたところで指先さえ届くことのないほど、遠くに。
「本格的に降る前に戻ろう」
「でも、」
「嫁入り前の姫君が風邪でも引いたら大変だからね」
強くなったのだと。ほんの少し前までは小さな少年であったはずの彼は言った、わたしのおかげで強くなれたのだと。果たしてその強さとは、幼馴染の結婚を手放しで喜ぶことなのか、上辺を笑みで繕うことなのか、わたしにはわからない。誰よりも理解しているはずだった男の子の心が、いまはもう、見えない。
一歩二歩と、わたしから遠ざかっていく背中がふいに咳き込んだ。苦しそうに震えるその肩に、けれどどう触れていいのか、いままでどう触れていたのか、わからなくなってしまっていて。
薄桃色のサザンカが揺れる、彼の咳に呼応するように。
***
その日も朝から雪模様だった。
雪、と表現したものの、そんなに生易しいものではないことくらい、白く濁った窓の外を窺えばわかることだ。
足止めを食らうのも、今日で三日目。最初はまだらだった雪が次第に風をまとい、あっという間に視界がホワイトアウトするまでに成長してしまったからだった。
ここからは見ることが叶わないけれど、海はかつてないほどの大荒れ、北方にそびえる山々は熟練のアイス・ハーベスターでさえ足を踏み入れることが難しいという。
海路と陸路、両方が一度に絶たれたけれど、この時期にはよくある事態だと、わたしを始め家臣たちも大して動揺した風もなく。現国王のご厚意に甘え、天候が落ち着くまで滞在させてもらっていた。
結露した窓を拭う、たったそれだけで、暖炉であたためたはずの指先がきんと凍えていく。触れた先から熱が奪われていく感覚にぶるりと身震いをひとつ、曇らせてしまわないよう、息を詰めて顔を寄せた。
あの色鮮やかなサザンカの行方が気になっていた。ようやく花開いたばかりだというのに、この吹雪で散ってしまってはいないだろうかと。覗き込んでみるけれど、渦巻いた風がひっきりなしに通り過ぎていくせいで花の姿を見とめることはできない。
「まだ大丈夫らしい」
「え、」
「サザンカ。幾分数は減ってしまったが、まだ咲いているみたいだよ」
かけられた言葉に振り向く途中で、見知った横顔が現れた。わたしの肩越しに窓を覗き込んだ彼は、煙った景色を透かすように眸を細める。
「先ほど様子を見てきた庭師が教えてくれたんだ」
「意外と強いものね、花も」
うるさく鳴る鼓動を悟られないよう、平常を装って再び視線を戻す。わたしたちの呼気であたたまった窓がもう白く膜を張って、外の世界を遮断していた。
「しかし珍しいな、君が花のことを気にするなんて」
「あら、花より団子とでも言いたいのかしら」
「口にしてはならない真実もあるんだよ、レディ」
「あなたはもう少しお世辞を覚えてちょうだい」
「おや、外面だけは良いと自負しているんだが」
「剥げてるのよ、わたしの前では」
「それは失敬」
「ちっとも思ってないくせに」
満足そうに口の端を持ち上げた彼が首を引っ込める。離れていく際にふわりと、また、覚えのある香り。
息苦しい胸を掴みかけた手を留め、言葉を呑み込むと同時に身体を向けた。用事は済んだとばかり、彼との間には肘をめいっぱい伸ばしても届かないほどの距離ができている、まるで最初から空いていたみたいに。
「あなたのお相手をするほど、わたしは暇じゃないの」
「それはよかった、私も野暮用があるのでね」
「じゃあ早く向かわれてはどうですか、王子」
「姫の仰せのままに」
仰々しく一礼してみせた彼はそうしてわたしの提案通り、踵を返す。きっとこの吹雪で同じく足止めされている、どこぞの客人の相手でもしなければならないのだろう。付き添う私もなかなか骨が折れますと、昨日あたりカイがこぼしていた。
そのまま角を曲がってしまうかとばかり思っていた彼はけれどふと、なにかを思い出したように立ち止まり、ただ、と。向けたそれはたしかにわたし宛て。
「君に声が聞きたくてね、」
不自然に途切れた言葉の続きはなかった。
眉尻を下げた彼は廊下の角に消え、次いで咳の音が苦しそうに吐き出される。急激な冷え込みに風邪でも引いてしまったのだろうか、ここ数日、咳き込んでばかりいる気がしていた。
せめて肩でもさすろうと足を踏み出しかけて、けれど咳は靴音とともに足早に去っていってしまった。
彼の気配が遠ざかり、やがて廊下に残されたのは、窓を叩く暴風の音だけ。
彼ももう子供ではない、わたしが気にかけずとも治す手段を見つけるだろう。そうやって思考を切り替え、さてどうしたものかと考えるのは今日の身の振り方。いくら広い城内とはいえ、引きこもってもう三日経つのだ、さすがに退屈が頭をもたげてきた。
暖房設備のない廊下は寒すぎる。とりあえず部屋に戻ろうと窓から離れて、
「あら、イデュナ様!」
呼び止めてきた声に自然、顔が綻んでいった。
廊下を小走りで駆けてきたゲルダとは、年齢が近いこともあり他の侍女よりもよく言葉を交わしていた。まだ若いながらも侍女の中では古参である彼女とは頻繁に、アグナルへの愚痴やらなにやらを朝まで話し込んでいたものだけれど、そんな彼女もいまや侍女長補佐に従事しているため、ゆっくり会話する機会も減ってしまっている。
いまだって、腕いっぱいの大量の毛布や衣服を抱えているけれど、それでも駆け寄り笑顔を向けてくれた。
すらりと細身の彼女を見上げ、昔は同じくらいの身長だったのにと、ふとした懐かしさに浸る。
「ねえゲルダ、あなたも暇じゃないわよね」
駄目で元々。尋ねれば、彼女は申し訳なさそうに肩を落とした。
「すみません、侍女長から先ほど、新しい仕事を任されたばかりで…」
「気にしないで、みんな忙しそうだもの」
「アグナル様は」
「あの人もいろいろ忙しいみたい」
「そうかもしれませんが。あの方は少し、姫様を放置しすぎるきらいがありますわ」
次期君主の話題にも構わず声を張り上げるゲルダの様子に、思わず笑みがこぼれていく。いつだってわたしのことを親身になって考えてくれるところが、昔とちっとも変わってはいなくて。
「以前は、どこへ行くにもおふたりご一緒でしたのに」
「…そういうものよ、きっと」
たしかに最近─とみにこの数日─彼と顔を合わせる時間が減っている気がする。避けられている、とまでは言わないけれど、意識して距離を空けられているようで。昔と同じ距離を、拒んでいるみたいで。
原因を思い起こそうとしてみても、特にこれといった出来事は見当たらない。
男女の交友関係なんて恐らく、こんなものなのだろう。物心つけば、異性と関わることに恥ずかしさを覚えてくる。それに、噂好きの婦人たちの間であらぬ話まで流れてしまう。わたしと幼馴染以上の関係にあるという噂は、独身の彼にとって都合のいいものではないだろうから。
「そういうもの、でしょうか」
腑に落ちない風で落とされた言葉に自信を持ってそうよと答えることもでいずただ、窓の外に視線を投げる。
あるいはわたしを嫌っているのかもしれないとも考えたけれど、だとしたら先ほどの言葉は。君に声が聞きたかったと告げた、あの真意は。
「あの。イデュナ様、」
吹雪の音に紛れてしまいそうなほど小さく名前を呼んだ彼女はけれど、迷うように眸を彷徨わせ、くちびるを引き結んで、
「…引き留めてごめんなさい。まだ残ってるんでしょ、仕事」
続きは、聞きたくなかった。彼女が心を砕いてくれているのは痛いほどわかっていたけれど、次の言葉がなんであれ、いまのわたしには気休めにしかならないだろうから。
そうですわ、と。名案だとばかり、ゲルダの表情がわずかに明るさを取り戻す。
「温室に足を運ばれてみてはいかがでしょうか」
「温室」
「庭園を気にしていらしたみたいですので。温室でしたら、見頃の花がたくさん咲いていますよ」
「…そうね。そろそろ吹雪も見飽きてきたころだもの」
気晴らしにもなるかもしれないと、呟くのは心の中。
笑顔を返したことに安心したのだろう、ふと、彼女が安堵の息をついた。
「ああそういえば。温室の物置にはくれぐれも、お近付きになられませんよう」
「どうして」
「わたくしたちも詳しくは伝えられていないのですけれど、王子のご命令ですので」
王子の、という部分に疑問が浮かぶ。彼は理由も告げず命令を下す人間ではないはずなのに。ゲルダも同じことを思っているようで、わたしに伝えながらもひたすらに首を傾げていた。
「わかったわ。とりあえず、物置に近寄らなければいいのよね」
少しの違和感を呑み込み、承諾する。
わたしの返事にようやく、ゲルダが笑顔を取り戻した。
***
足を踏み入れた途端、あたたかな風に乗って春のにおいがした。
はるか上方のガラス天井を覆うように、ヤシの葉が広がっている。だというのに明るく縁取られた温室は、見渡しただけでも大広間以上の広さがあるように見えた。
最後にここを訪れたのはいつのことだったか。花が好きだった母に連れられては走り回っていた記憶がぼんやりとあるけれど、その母も亡くなって、どこか敬遠してしまっていた。ここに来ると、もう二度と会えないその人のことを思い出してしまう気がしたから。
けれど実際にこの部屋のにおいを吸い込んでみれば、いままで曖昧な記憶の底に沈んでいた出来事が浮かんできて自然、頬が綻んでいく。
花を愛していた母は他国を巡るたび、その国の花屋や音質を欠かさず覗いて回っていた。自分の国でだってもちろんたくさんの花を栽培していたけれど、地域ごとに様々な植物が息づいているから、と。花を愛でる彼女はいつも、しあわせそうに笑っていて。
『ほらイデュナ、ブーゲンビリアの花はね、』
記憶のはざまで取り出せなくなっていた母の声が、やわらかく降ってくる。お前にそっくりなのだと、いとおしそうに目を細めた父が言っていた、音。
色とりどりの花の名前だけでなく、それに託された言葉まで教えられたけれど、鑑賞よりも遊びの方に忙しかった当時は話半分で。それでも幼い日そのままの景色を前にして、その大半が、母の音とともに掘り起こされて。
花柱を伸ばした真っ赤なハイビスカス、扇のような花弁を持つ薄桃色のコチョウランに、八重咲きの純白なアザレア。オレンジはまだ実をつけていないようで、代わりに目にまぶしい白の花が開いていた。
他にも名前の知らないたくさんの植物が、温室というひとつの世界を構成している。ともすれば外界の天気も季節もなにもかもを忘れさせてしまうように。
あるいはなにもかも、忘れてしまえたら。母の記憶とともにいる彼を思い出すことなく──思い出した時のこの胸の痛みさえ、二度と浮かばない記憶のさらに深みへと落とし込めたら。叶わない願いだってことくらい、とうに知っているけれど。
温室の奥へと足を進め、そうして見つけたゼラニウムの紅がかった花弁に顔を寄せる。
わたしよりも、一緒に母の講釈に耳を傾けていた彼の方が植物に詳しくなっていった。そんな彼曰く、ゼラニウムは香料によく使われているのだという。彼も好んで自室に飾っており、そのせいか彼はいつだってローズに似たこの花の香りをまとっている。
花に関心の薄かった昔の君が唯一興味を示していた花なんだよと、からかうような調子で言われたことをふと、思い出して。
ふいに視界がにじんでいきそうになった、だってここは、この国は、彼のもので溢れているから。彼の生まれ故郷なのだからそれも当然のことだけれど、それでもこの城内には、ともに育ったわたしたちがそこかしこに息を潜め、ふとしたことでわたしの鼓動を止めにくる。それをなんてことないみたいに逃れる強さを、わたしはまだ、持ち合わせてはいなくて。
だから早く帰りたかったのに。父に告げていた予定よりも早く、この地を去ってしまいたかったのに。この国と親しい雪は、それを許してはくれない。
やっぱり、来るべきではなかったのかもしれない。最初から期待なんてかけなければ、こんなにも傷付くことはなかったのに。心を隠す術は身に付けているけれど、心から目を背ける方法は知らないのだから。
歪んだ視界をそのままに、踵を返し足を速める、懐かしさの詰まったこの場所から一刻も早く離れたくて、彼の残り香から逃れたくて、
きいん、
耳に奥に直接転がり込んでくるような音が、ひとつ。
つま先で弾き飛ばした軽やかなその音源は先へ先へと床を滑り、温室の中心でするりと止まった。どこからか洩れる光を反射している様子がここからでも窺えるものの、それがなにであるかが判然としない。
一体なにを蹴飛ばしてしまったのだろうか、視界を狭めていた雫を拭っても、その姿をはっきりと捉えることができない。
どこか惹かれるように近付いて、一瞬、きらめきが、わたしの眸を射抜いていく。
「花…?」
正確に言い表すなら、花を模したなにかだった。
ガラスと呼ぶにはあまりにも透き通った素材で形作られたそれは、いまにも床と同化してしまいそうなほど向こう側をはっきりと透かしていた。
しゃがみ込み、顔を近付けても、わたしの表情が映り込むことはない。
よくよく観察すればそれはバラをかたどっているようだった。花弁のひとつひとつまで精巧に似せて作られたそれは、元となった花と同様に彩色すれば恐らく本物と見紛うほどになるはずだ。
けれどなぜ、と。違和感にも似た疑問が広がっていく。
たしかにアレンデールにもガラス工房は存在するけれど、目の前に転がるそれは無機物とは程遠いなにかだと、直感が告げていた。これは生きているのだと。そう、たとえば辺り一面に咲いている花たちのように。
動悸が強く、早く打つ。どうしてこんなにも胸騒ぎがするのかわからない。それでもわたしはこれを、この正体を、知らなければならないのだと。
震える指をそれに伸ばして、
「─…イデュナ?」
覚えのある声が、わたしの動きを絡め取った。
窺うような口調に恐る恐る視線を持ち上げる。どうして君がこんなところに、とでも言わんばかりに首を傾げたアグナルは、けれどわたしの指先がもう少しで拾い上げようとしていたそれを見とめ血相を変えた。
「それに触れるな!」
いままで聞いたこともないほどの怒声、剣幕。突然の豹変に知らず身が竦み上がる。
いままで彼の感情の起伏を目の当たりにしたことはなかったし、実際彼の気性は穏やかそのものだった、そうだと思い込んでいた。けれどこんなにも激情を表に出すことがあるのだと。わたしは彼のほんの一面しか知らなかったのだと。
ずかずかと足音を荒げ近付いてきた彼は、そのまま奪い去るみたいに、深い青の手袋をはめた手で乱暴にそれを掴み取る。
「…ま、まだ、触っていないわ」
「本当か」
「本当よ、…ごめんなさい、アグナル」
探るように向けられた鋭い視線も、はじめてのもの。
手に収めたそれとわたしとをしばらく見比べていた彼はけれどふと、困ったように眉尻を落とす、まるで我に返ったみたいに。
「…すまない、大声を上げたりして」
立ち上がらせてくれようとでもしたのか、つと伸ばされた手に、思わず身を固めてしまう。彼の眉がますます下がっていく。
「…お願いだ、もう、ここには立ち入らないでくれ」
消え入りそうな声で落とされた言葉は、どこか切実な響きも含んでいた。
わたしの返事も聞かず真横を通り過ぎた彼は、物置のある邦楽へと迷わず足を進め、そうして木々に隠され、代わりに彼が洩らしているのであろう咳だけが木霊する。
彼の姿が消えてしばらくしても、その場に縫い留められたように動けなかった。彼の怒りが、射るような視線が、悲しみのにじんだ表情が、ぐるぐると頭を巡る。
そうしてふと浮かんだのは、彼は手袋なんてしていただろうかと。そんな取るに足らない疑問だった。
***
四日経っても、雪は勢いを増すばかりだった。
留まるところを知らない風雪はその腕にアレンデール全体を乱暴に閉じ込め、寒さを凌ぎきれなかった国民は暖を求めてこの城の大広間にあふれている。侍女長を始め多くの城仕えたちはそちらの対応に追われ、城中を忙しく駆け回っていた。
不慮の出来事とはいえ超過滞在させてもらっている身だからと、わたしに付き従って渡航してきた侍従たちも進んで手伝いを申し出ている。
話し相手のいなくなってしまったわたしはけれどひとり、廊下を急いでいた。道中すれ違った城仕えたちが、ただ事ではないわたしの様子に一様に目を丸めているものの、説明している余裕はない。一刻も早く、この違和感の正体を、不安の根源を明らかにしたかったから。
昨日の温室での一件以来、アグナルとは顔を合わせていない。いつもはどんなに忙しくとも夜が更ける前には顔を出しておやすみの言葉をかけてくれていたというのに、昨晩はそれもないまま。
ひとりきりの客室で巡らした想いはやっぱり、彼に関することばかり。
はじめて耳にした音がずっと、鼓膜から離れない。彼が意味もぬ怒りを向けてくるとは到底思えないから恐らく、理由あってのことなのだろう。ならばその理由はどこに。
きっと温室に転がっていた、あの花に似た細工が関係しているのだと、一晩考えた末の結論はそれ。
触れるなと、彼は叫んだ、ともすれば悲痛にも取れる声音で。わたしがあれに触れることで起こる不都合とはなんだろうか。いくら頭を悩ませてみても、そもそもあれが一体なにであるのか判明しないことには答えが出るはずもなくて。けれどわたしは、あの花もどきを目にしたことはなくて。
知り得なければならないと。だからいま、足を速めている。そこに、彼がわたしとの距離を取る原因がある気がしたから。
そうして辿り着いた大きな扉を押し開けば、静寂が音もなくわたしを包み込んだ。
この書庫には、アレンデールの歴史を始め、医学に占術学、詩集に論文、果てはいまやすたれた錬金術書まで、ありとあらゆる分野の書物が収められている。
膨大な書誌を所蔵する書庫が実際どれほどの広さか目測しようにも、天井まであろうかという棚が幾重にも並べられているためそれも叶わない。私はとうの昔に読破したのだと、この国の王子が自信たっぷりにそう言ったことがあるけれど、数えきれないほどの書棚を前にするたびに疑いを向けずにはいられない。
整然と並んだ棚の間をくぐるように、目当ての本を探していく。
普段は大臣や支所たちが書物を求め歩き回っている姿をそこかしこに見かけるというのに、皆どこかへ駆り出されているのか、息遣いひとつ響いていなかった。
耳に痛いほどの静寂が身体にまとわりつく。隙間なく書物の詰まった棚が四方から圧迫してきて、ともすればいまにも傾いで埋もれてしまうのではないかという錯覚に囚われる。
いつもは心地良いだけの空間であるはずの場所がいまはこんなにも、息苦しい。
喉元まで浮かんだ弱音をなんとか飲み下し、右へ左へと足を進めていく。
疑心にも似た脅迫に襲われていたからだろうか、ようやく目的の棚に出会ったときには、ほとほと足は痺れ精神はすり減っていた。
またたきを何度か繰り返し、気力を引き戻す。
この棚には農業、特に園芸に関する本が集められていた。背丈以上まで埋められた背表紙を、上から下まで丹念に目を凝らす。
求めていたものはすぐに見つかった。
分厚い図鑑を取り出すと、見た目にそぐった重さが両腕にのしかかる。表紙をめくり、目次を辿りながら思い返すのは昨日目にしたあの花のかたち。一見バラに似ていたことから、まずそのページを開いてみる。それからベゴニア、ラナンキュラス、花びらの開き方がそっくりなものは手当たり次第に。
けれど結局、昨日と同じものを探し出すことはできなかった。どれも相似しているだけに留まっているし、それにあれは透明だったのだ、そもそも存在しているなんて思ってはいなかった。
それでも一応すべてのページに目を通し、別の図鑑も一冊二冊と当たってみた後、見つけられなかった落胆をぱたんと本の内に閉じ込める。大した期待はかけていなかった、ただ、些細な手がかりでも見つかればいいと。そうすればあるいは、彼に対して抱いた違和感の正体に近付けると。
ある意味では予想していた結果にもはや肩も落ちない。本を元いた位置へと戻し、半ば作業的に背表紙を横へなぞり、
ふと。
見つけたそれは、園芸とも農業とも程遠いものだった。
この書庫は─大抵の書庫がそうであるように─内容ごとに分類され、それぞれ区分けされた棚に配列してある。司書にとって一番効率の良い管理方法であるし、また閲覧者にとっても探しやすいからだ。
図鑑に負けず劣らずの厚みを持つ場違いな本をやっとのことで引きずり出し、表と裏の表紙を確認する。
どこからどう見ても、それは医学書のようだった。医学や薬学の書棚からこの本を取り出した誰かが、間違えてここに戻してしまったのだろう。
きっと単にそれだけの理由であるはずなのに、こんなにも引っ掛かりを覚えるのはなぜなのか。理由は判然としないもののそれでも確認はしなければならないという出どころ不明の義務に駆られ、ページをめくる。
目次に続いて病名や症例が次々と、時には図解付きで掲載されている。随所に専門用語がみあっれるそれの半分は理解が追い付かない。
息まいて本を開いたものの、別段変わったところはなにもない、ごく一般的な医学書だった。だというのにどうしてこれが気になってしまったのか。どうしてこうも、息が苦しさを覚えるのか。
いい加減閉じて別の本を当たらなければならないのに、なにかを求めて一枚、ページを繰って、
「──ひょうかはき、びょう…?」
目に飛び込んだ文字にぴたりと、手が止まる。
他の項目に比べ、このページだけやけに皺が寄っているようだった。まるで一度、くしゃりと握りつぶしてしまったみたいに。
ひょうかはきびょう。氷花吐き病。がらんとした書庫にわたしの呟きが落ちるたび、その音がたしかな意味を成していく。
『嘔吐中枢氷花性疾患とは、突然氷の塊を吐き出す奇病である。吐物が花の形状を模しているため通称、氷花吐き病と呼ばれる』
いままさに指で辿っているそれは、見たことも聞いたこともない病名だった。現実味のない説明文を読み解く行為はまるで、おとぎ話の世界を追うみたいで。人が氷ででいた花を吐き出すなんて、にわかに信じられるものではなくて。
けれどわたしはあの花を、氷花を実際に目にしてしまっていたから。そうして恐らくそれを生み出したのであろう人を、知っていたから。
本を戻すのもそこそこに書庫の出口へと足を向け、勢い込んで駆け出した。
目指すは彼のいるその場所。誰にも明かすことなく、心をひた隠しにしてきた青年はきっと、あそこでひとりぼっちのはずだから。
***
ふいに思い出したことが、ひとつ。
まだうんと小さかった頃──つまりわたしがまだ、彼より頭ひとつ分大きくて、彼がわたしに手を引かれていた、あの頃。
それでも珍しく先陣を切った少年が、部屋と呼ぶには少し狭く、けれど光差すあたたかな空間にわたしを連れていってくれたことがあった。
やわらかな光に包まれたそこには、いろんな花のにおいと、少しばかり埃を被ったものたちと、それから太陽の色であふれていた。
滅多に表情を表さない少年が、その時ばかりはきらきらと目を輝かせ、
『ここはぼくの、ひみつ基地なんだ』
『ひみつ基地』
言葉少なに伝えられた単語は、当時のわたしにすればなんとも魅力的な響きを持っていた。
『たいせつなものとか、だいすきなものを、ここに隠してる』
乳児期にくわえていたタオルも、木製の小さな馬も、音楽を奏でなくなったオルゴールも、海岸で拾ったのであろうなんの変哲もない貝殻も、なにもかも。少年にとっては大切で、大好きなもので。
『でも、いいのかしら。わたしはひみつを知っても』
途端になぜだか場違いである気がしてきたわたしの手を、少年はぎゅっと握りしめてくれていた。まだ成長しきっていないものの、たしかなぬくもりを与えてくれる手だった。
天窓から差し込む光の加減だったのかもしれない。けれどその時のわたしには、なによりもまばゆい場所に見えたことを覚えている。
『いいに決まってる。だって今日からここは、ぼくと君、ふたりだけのひみつ基地だから!』
少年が微笑む、深い太陽色の眸にわたしを映して。
『ぼくにとっては君も、─────』
ひどくうれしかったことを、覚えている。
***
温室の物置の鍵は、閉まっていなかった。
ノブを回し、手前に引けば難なく扉が開く。天候が悪いせいだろう、かすかに窺える程度しか光が入り込めていないそこはけれど、その中で佇んでいる人がだれであるのか確認するには充分だった。たとえ見とめることができなくとも、その人が彼であることくらい、わかっていたけれど。
久しぶりに足を踏み入れたここは、昔となんら変わりないように見えた。違うところを挙げるとするなら、少年が大切に保管しているものたちの数と、被っている埃の量と、視線の先にいるこの場所の主がもう少年でないことくらい。
一歩、二歩。踏み出しても、彼は微動だにしない。
入口からまっすぐ進んだ突き当たりの壁に面するように、机がひとつ設えてある。彼はその机の前でただ、立ち竦んでいた。背を丸めているからか、いつもより小さく見えて。わたしの来訪にもきっと気付いているだろうに、それでも振り向こうとしないまま。
息を吸い込めば身体中に、懐かしさが一気になだれ込んできた。
「─…ここへは来ないでくれと、言ったはずだ」
足下を這うような低い声が伝ってくる、けれどわたしはもう、怖気づいたりはしなかった。
机の上にはきらきらと、自ら光を放っているかのようなそれらが山と積まれている。その正体を、わたしはもう知っていた、知ってしまっていた。だからこそ、目を逸らすわけにはいかなかった。
「…もうずっと昔、あなたが言ってくれたわ。ここはわたしとあなた、ふたりだけの秘密基地だって」
少年の声が蘇る。いままで忘れてしまっていた、まだ世界がふたりだけで回っていた頃の、わたしたちが。
「だから。知らせたいのかと思ったの、ここに隠すことで、わたしに。あなたが氷花吐き病だって。あなたには、」
「言わないでくれ!」
ぐ、と。向けられた怒気に、吐き出しかけた言葉を呑み込む。
あなたには病に罹るほど想っている相手がいるのね、と。震える肩に投げかけたかったのは、その一言だった。
氷花吐き病は感染源も、その治療法も不明ではあるけれど。たしかな事実は、叶う当てのない恋慕を抱いてしまうと発症する可能性が高いということ、そして全身を雪の結晶に覆われる雪紋症も併発するということ。
手袋を外した彼の腕には、雪の結晶に似た紋様がくっきりと浮かび上がっていた。
彼には、想い人がいる。それも、どうやったって結ばれることのない相手が。
きりきりと、胸が音を立てて締め付けられていくようだった。わかっていたことだ、彼がここまで想いを向けている人がわたしでないことくらい。今更すぎる現実を、わたしが見えないふりをしていただけに過ぎないのだ。
喉が押し潰されているみたいに苦しくなる息を、なんとか吐き出して。
机で所狭しと咲いている花もどおきたちが、彼の想いの強さを代わりに表しているようにも見えた。
「ねえ、アグナル」
びくりと、彼の背が強張る。ここからはまだ、彼の横顔さえ窺えない。無理やり立ち入ることに怒っているのか、それとも眉を下げいまにも泣き出しそうなのか。
「叶わない想いを抱くのはとても、つらいことだわ」
彼の姿といまのわたしが重なる。
「振り向いてもらえないとわかりきっている人にそれでも恋い焦がれるのはひどく、悲しいことよね」
言葉の境界線が次第に曖昧になっていく、もはや彼に語りかけているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか。
つらいだけだと、悲しいだけだと、苦しいだけだとわかっていてもそれでも想いを寄せてしまう気持ちは痛いほど理解でいる。どれだけ自分を誤魔化そうとしても、心だけは偽れないことも、よく、知っている。
知っているからこそ、彼には、彼にだけは、しあわせになってほしかった。愚直すぎる彼がこれ以上身を焦がすことのないよう、わたしに出来ることならなんでも手を貸す覚悟で、ここまで来た。
「…だからなんだと言うんだ」
だというのに彼は、ともすればくつくつと喉さえ鳴らしそうな様子で言葉を吐く。握りしめすぎて白くなった拳が震えている。
「私に、想いを断ち切れと、」
「違うの、そんなつもりじゃ、」
「叶わぬ心など捨て別の者に想いを向けろと! 君は、そう言いたいのか!」
身を切りつけるかのような叫びが、狭い物置に木霊する。ようやく振り返った彼は悲しいほど眉を下げ、わたしを見据える。まだ十八にも満たない青年の、それは痛烈な抵抗にも、見えた。
言葉を発せないでいるわたしの目の前で、彼は突然咳き込み始める。間断も容赦もないそれに屈み込んだ青年はそうして苦しそうな音とともに、ついに吐き出した、氷色の花を。
口元を覆った彼の手のひらにひとつ目にこぼれたのはつい昨日、目にしたのと同じ、バラに似たそれ。続いてクロッカス、アネモネにヒガンバナ。どれもみんな、寒々しいほどに透き通っていた。
きいん、と。手で抱えきれないほどの氷花たちが地面にぶつかるたび、凍えた音が耳の奥へと転がり落ちていく。とけることのない花が彼の口から排出されるたび、わたしこと氷花を生み出しているのではないかと、そんな錯覚に囚われる。
終わることのないえずきに、けれど彼は言葉を継ぐ。
「何度も、…何度も、そう、しようと。諦めようと、した、私よりももっと、相応しい相手がいる、はずだと、」
こぼれているのは氷花か、彼の心か、あるいは氷花自身がそれであるのか。
彼の襟元から這い上がってきた雪の結晶模様が、ぴしりと音を立てて首を、頬を凍らせていk。
「けれど、できなかった、捨てられるはずが、なかったんだ。私は、…私はずっと。出逢った時から、ずっと、惹かれていた、から、」
「…やめて、」
「たとえ報われずとも、私は、」
「もうやめてちょうだい!」
我知らず声を、張っていた。
心が悲鳴を上げながらきしんでいく、それ以上は聞きたくないのだと、わたし以外の誰かに想いを寄せた彼の言葉などもういらないのだと。
耳をふさいで、視界を閉ざして。それでも聞こえないはずの彼の声が頭中に響いて、見えないはずの彼の姿がまぶたの裏にありありと映って。
いままで必死に繕ってきたものが全部、ぜんぶこぼれていってしまうようだった。心を隠す術を身につけてきたはずなのに、表情を偽る手段を学んできたはずなのに。肝心な時にそのひとつだって役に立ってはくれず、わたしを裏切るばかり。
彼が隣にありたいと願う人と一緒になれたらそれでいいと、彼が心を騙すことなく生きることができるのならばと、そう思っていたはずなのに。これまで通り見守ることができればいいのだと、自分に言い聞かせてきたはずなのに。彼の切実な胸の内を前にしてこんなにも、身体が言うことを聞いてくれない。こんなにも、涙があふれて止まらない。
「イデュナ、」
アグナルの音で名前を紡がれただけで、ともすれば呼吸が止まってしまいそうなほど、彼が好きでたまらない、のに。
一体いつからこうなってしまっていたのだろう。一体いつから、こんなにも身勝手な想いに変わってしまっていたのだろう。答えはわかりきっていた、だってわたしこそ、小さな少年と出逢った時からずっと、
「イデュナ、お願いだ、どうか聞いてくれ」
壊れたように首を横に振ることしかできないわたしに、けれど彼は縋る勢いで言葉を紡ぐ、最後だからと。
「私にはもう、時間がないんだ」
時間がない。その意味がわからなくて思わず、伏せていた顔を上げる。
いつの間にか目の前にまで迫っていた彼の太陽色の右目が、おびただしいほどの結晶に侵食されていた。
途端、書庫で目にした内容が頭を過ぎる。氷花吐き病が進行すると、やがて身体の隅々にまで雪紋が至り、そうして最後の花を吐き出し終えた後、氷のようにとけてなくなってしまうのだと。
「…だめ、よ、…だめよ、アグナル」
震える喉が、うまく声を取り出してくれない。
「だめよ、そんなの、…ねえ、最後だなんて言わないで、絶対治るはずよ、だから、」
「イデュナ」
こんな時だというのに、わたしの言葉を遮った彼は微笑んだ、状況を忘れて見入ってしまうくらい無垢なそれを向けて。
ふたりきりの物置で巻き起こった風が、わたしたちを中心に渦を作る。雪さえもまとったそれは次第に勢力を増し、外界で猛威を振るっている吹雪と同様に扉を、天窓を揺らしていく。
風に散らされ互いにぶつかり合う氷花の甲高い音が響き渡る。
わたしの両肩に手を置いた彼の、もうすっかり窺えなくなってしまった太陽色の眸に、ぽろぽろと雫をこぼす女が映り込む。
ふ、と。アグナルが息をついて、
「イデュナ。──君が、好きだ」
──瞬間、あらゆる音がかき消えた気が、した。
ぐ、と。恐らく氷花をすんでのところで飲み下したのであろう彼が、苦しそうに眉を寄せながらそれでもわたしに伝えようと、届けようと、口を開く。
「出逢った時から、ずっと。私の心にはいつだって、君しかいなかった。君のことしか考えていなかった。君だけが、私のすべてだったんだよ、イデュナ」
「どうし、て、」
「あの日も言っただろう? 私にとっては君も、大切で大好きなのだと。あれからずっと、気持ちは変わっていない、むしろ日増しに大きくなって、…こんなにも身勝手になって」
綴られる想いに、理解が追い付いていかない。だって彼は他の、わたしではない誰かに心奪われているはずなのに。お転婆でもじゃじゃ馬でもない可憐な王女こそ、彼の隣に相応しいはずなのに。
寡黙であるはずの幼馴染は、堰を切ったように吐露していく、本当にこれが最後だと言わんばかりに。
「私は、強くなれなかった。君が隣にいなくても生きていける強さを、手にできなかった」
わたしのおかげで強くなったのだと、いつかの彼は言っていた。わたしよりもうんと、強くなったのだと。それはつまり、想い人への気持ちを自分ひとりの胸に閉じ込めるという強さで。けれどその虚栄が彼を、氷花吐き病というかたちで苦しめていて。わたしのついた嘘が、想いを確かめたいなどという独りよがりな考えが、彼をここまで追い詰めてしまっていて。
吹雪が唸りを上げていく。
ついに左目まで氷色に彩られた彼はふと笑った、凍った雫を流しながら。
「あいしてるよ、イデュナ、君のことを」
そしてごぼりと咳がひとつ、最後の花が顔を覗かせて、
「─…っ、まって、」
別れを紡ごうとするそのくちびるを、ふさいだ。
氷色の眸が、驚きに見開かれていく。包み込んだ頬が、わたしの体温まで奪い去ろうとするみたいにきんと凍えている。それでもくちびるを離さなかった、花を、心を、彼がどうか、失ってしまいませんようにと。
身を切るような風が全身を叩く。痛みよりもただ、苦しくて、胸がいまにも張り裂けてしまいそうで。
肩を押さえ無理に身体を離した彼が表情を歪める、わたしの心をそのまま映したみたいに。
「なぜ、…君は、でも、」
「わたしだって!」
吹雪なんかに負けるわけにはいかなかった。轟音の中声を張り上げ、謝罪の代わりに向けるのはいままで隠していた気持ちと、見えないふりをしていた心と。
「あなたの隣にいたいと願ってたの、出逢った時から、ずっと! あなたしかいらなかった、あなただけを見ていた、あなただけが、わたしのすべてだった、わたしは、」
きいん、と。どこかで転がった氷花が音を立てる。
「あいしてるのよ、アグナル、あなたのことを」
なにもかもが静止していた。
あれだけ耳をつんざかんとしていた吹雪も、舞い上げられた氷花たちもみんな、宙で動きを止めていて。
唯一目の前の眸だけが、またたきをひとつ、信じられないと、言葉で語るよりも雄弁に。
けれどわたしはひとり、納得さえしていた。言葉にしてみればそれはただただ、純粋な想いだったから。わたしが盲目になってしまっていただけで、それはいつだって、まっすぐだったから。
ふわり、と。
ゆるやかに動き出した風が、先ほどとは逆方向に渦を巻く。物置のそこかしこに散らばった氷花さえも呑み込み、わたしたちを目として大きな奔流となる。もう冷たくはないその風雪はどこかぬくもりを持って、ふたりを包み込んでいく。
彼の頬から、首筋から、手首から、雪の結晶が徐々に姿を消す、まるで雪解けみたいに。
すべての氷花を巻き上げた風はやがてわたしたちの頭上高くに収束し、そうして一際強い突風とともに降り注いできた。
粉々に砕けた氷花だったものたちが彼の肌に触れ、やわらかくそのかたちを失っていく。
還ったのだ、きっと。胸の奥底に仕舞っていた心が、あるべき場所へと戻ったのだと。はじめから知っていたみたいにただ、そう思った。
それまでまぶたを閉ざしていた彼が、つと、眸を現す。懐かしい太陽色が、光を浴びてきらきらと輝いていた。
どうやら外の世界の吹雪も止んだようで、天窓からは久しぶりに陽が差し込んできている。
「…私はどうやら、見誤っていたらしい」
またたきをひとつ、ふたつ。くしゃりと、泣き出すみたいに破顔した彼はこぼす。
「私が見えなくなっていただけで、君はずっと傍にいてくれていたのに」
あなたの心が見えないだなんて嘆いてその実、わたしは見ようともしていなかっただけなのに。
腕を広げた彼が、目の前がぼんやりと霞んでしまっているわたしを抱き留める。いつの間にかわたしよりうんと大きくなってしまった青年はけれどその少し早い鼓動も、安心をもたらしてくれる体温も、まっすぐな性格も、なにひとつだって変わってはいなくて。
きっとわたしたちはずっと、この距離にいたのだ、幼い頃に出逢ったその時から。他の誰よりも近い距離で、お互いを想い合っていたのだ。近すぎて気付くことができなかったけれど、ややもすれば見逃してしまっていたけれど。
けれどこれからはもう、離れることはないのだと。ずっと、彼の隣にいられるのだと。予感めいたそれにまた、涙がぽろぽろこぼれていく。
彼の眸から、わたしと同じものがいくつも流れてあふれて止まらない。彼の涙を生まれてはじめて見たと、思ったのはそんなこと。偽ることのない彼がいとおしくて、あいらしくて。そんな彼が、わたしはやっぱり。
イデュナ、と。紡がれた名前に自然、頬が綻ぶ。彼の音で、わたし自身がかたち作られていく。わたしは彼でできているのだと。彼がすべてを作ってくれたのだと、なぜだかそう、思い至って。
今度は自分から口づけてきたアグナルはそうして微笑んだ。
「──ようやく、みつけた」
真夏の太陽みたいな、笑顔だった。
(そうしてエンドロールもともに)
夫妻合同本で書き下ろした異国の姫とアレンデール王子のお話。
2017.12