想いがあふれてとまらないの。

 むう、と頬をふくらませてみても、子供みたいだな、なんていたずらに笑われることはない。だって彼は、さっきからちっともわたしを見てくれていないのだもの。かわいらしい眸は―こう表現するといつも彼はふてくされてしまうのだけれど―埃を被った古めかしい本に向けられたまま。眉をひそめてまで熱心に読むものなのかしら。  本にまで嫉妬している自分にほとほと呆れが差してきたけれど、ふたりきりだというのにこの状況はあんまりにもあんまりだ。せっかくお付き合いできたというのに、これでは関係が戻ってしまったみたい。 「ねえ、アグナル」 「ん」 「アーグーナールっ」  いくら名前を呼んでみても、上の空な返事が繰り返されるばかり。普段は恥ずかしくてなかなか口にすることができないそれを勇気を振り絞って音にしているというのに、それにさえ彼は気付いてくれない。そんなにのめり込むほど面白い内容なのだろうか、後ろからちらりと覗いてみたけれど、異国の言葉なのか文字を追うことはできなかった。  わたしをおいてけぼりにして、わたしの知らない言葉の世界に没入してしまっている、ただそれだけのことにも気が急いて。憤りにも似たそれを隠し通すなんてことできなくて、感情に突き動かされるがまま、首元に抱き付いた。  突然のことだからか、広い背中がびくりと震える。身体がこわばっているのは拒絶の現れなのだろうか。途端に速まった鼓動は自分ひとりのものしか聴こえなくて、それがまた悲しさをふくらませていく。 「イデュナ、」  ようやく落とされた名前にはただ、離れてくれ、と。そんな響きが含まれている気がして。にじんだ視界に引っ込みそうになった手をなんとか押し留める。きらわれたくはない、けれどこれ以上距離を置いてほしくはなかった。彼の視界に、世界に、ほんの少しでもいいからわたしを映していてほしかったから。  彼を引き寄せる言葉をもう持ち合わせていないわたしはせめて、行動に移すしかなくて、 「──…っ、イデュナ、なにを、」  さっきからいやというほど向けられていたうなじにそ、と。くちびるを寄せれば、しっとりとした体温が伝ってくる。それと同時に身体が震えて、次いでばさりと大きな音と低いうめき声が続いた。 「い…っ、」 「ご、ごめんなさい!大丈夫…?」 「大、丈夫だ…いや、そっちではなくて…」  いかにも重たそうな本が直撃した足をさするために屈んだ彼は背中を丸め、ちらりと視線を背後へ、明るい眸がようやくわたしを捉えてくれた。またたきを一つ、二つ、三つ目とともに頬から首元へと紅が広がっていく、あっという間に。そんな様子に、同じようにまたたきを三つ、ただ見つめていることしかできなくて。  先に視線を逸らしたのはやっぱり、彼の方だった。片手で顔を覆って、ため息をつく。それでも染まった顔は隠しきれていないけれど。 「君は…なんてことを…」 「ごめんなさい…いや、でしたよね」  床にぺたりと座り込んでうなだれる。せっかく眸に出会えたというのに、真正面から見つめることはできなかった。きっと彼は呆れているのだ、はしたない娘だと思ってるのだ、自分でもわかっているのに、そんなことくらい。触れたかったから、だなんて、そんな言い訳は聞いてはもらえない気がした。  けれど、そうじゃないんだ、と。顔を上げれば少しだけ、距離が縮まっていて。 「見れなくて、な。…君の、顔を」 「…どうして」 「…恥ずかしいじゃないか、なんだか」  ついには耳まで真っ赤にさせて丸まってしまった彼はなんだか小動物みたいだった。ぽそぽそと落とされていく言葉曰く、恋人同士という関係に慣れておらず、どうしていいかわからなかった。曰く、どこぞの国の言葉とも知れない本を掲げて平静を保つことで精一杯だった、等々。声はどんどんと音量を下げ、最後には独り言のようになってしまった。  言葉を拾って一つずつ意味を汲み取って、そうして理解した時には、彼と同じくらいの体温が頬に集まってしまっていた。それはつまり、きらわれてはいないということで。蔑ろにされていたわけではないということで。 「緊張…していた、ってこと、ですか」 「そういうこと、…だな、うん」  ちらりと、指の隙間から窺うように覗いた眸に、堪えきれなくてついに頬をゆるめてしまった。 「む。…笑うことはないじゃないか」  途端、顔を上げてふてくされたように頬をふくらませた彼の表情は数分前のわたしとそっくりそのまま、きっと彼は気付いていなかったのだろうけれど。  ご機嫌直しと、それから照れ隠しも含めてもう一度、首元にすがりつく。再び硬くなった身体に、けれどもう拒絶の意思は感じなかった。 「ねえ、アグナル」 「ん」  今度こそたしかに返ってきた言葉に微笑みを一つ、のどにくちびるをそ、と。触れた先から、熱が広まっていった。 (ほんとに、かわいい人ですね) (…からかってるな、イデュナ) (いいえ。すきですよ)
 若いころは恋人っていう響きひとつにさえ恥ずかしがってたらいい。  2014.11.11