A.M.4:00の波間
水滴が底にたどり着く前にジョッキが下げられ、代わりになみなみ注がれたビールがやって来た。
これで何杯目だろう。少なくとも片手では足りないはず。それでも彼女は酔った様子のひとつも見せず、一杯目と同じペースでジョッキに口をつける。
先に濁っていく私の思考はこういう時、決まってあの日を思い出す。
もうすぐ日付が変わろうとしていた。
てっきり私が最後だろうと思っていたから、一階のセキュリティゲート前でうごめく人影を見た時は思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「ご、ごめんなさい、驚かせてしまって」
存外焦ったような声音にはどこか覚えがあった。
最小限の明かりの下、恐る恐る近付けば、小柄な女性が床に置いたカバンの前でしゃがみ込んでいた。ひょろりと縦に長い私を見上げる眸はどこか縋るような色を孕んでいて、知らず鼓動が跳ねる。
「セキュリティカードが見つからなくて…フロアを出る前はたしかにあったはずなんだけれど」
「…その、首から提げてるのは」
ほとほと困り果てた表情で見つめる彼女を、失礼ながらそっと指差す。胸元へ視線を落とした彼女が、あ、と声を洩らし、数瞬の間。
「…疲れてるのかしら」
「…もうこんな時間ですから」
床に並べられたポーチやら財布やらが拾われていく。手伝ったほうがいいだろうかと悩んでいるうちにカバンへ収めた彼女が立ち上がった。私よりも頭ひとつ分以上小さい。
顔も手もくちびるもなにもかもこじんまりと作られた彼女は、気恥ずかしそうに微笑んだ。
「このこと、あの人には内緒にしていてちょうだいね」
「あの人、って」
「あなたのとこの課長よ。またドジやらかしたのかって、からかわれちゃうもの」
言われてようやく合点がいった。
総務課に在籍しているのだという奥さんと顔を合わせたのはこれが初めてだった。なにしろ私が入社した頃は、リモートワーク推奨真っ只中。代表電話からの取り次ぎで声だけは聴いたことがあったけど、オフィスフロアが違うことも相まってか、この三年ついぞ対面したことがなかったのだ。
ポン、と軽やかな音とともにゲートが開く。彼女に続いてゲートをくぐりながら腕時計に視線を落とす。終電には間に合わないだろう。週末だからネカフェもカラオケも空いてないかもしれない。
眠気に侵食されつつある頭でぼんやり考えていたものだから、ゲートの数歩先で立ち止まっていた彼女にあやうくぶつかりかけてしまった。
「あなた、わたしに構ったせいで終電逃しちゃったわよね」
「いえ。元々間に合わなかったので、ネカフェにでも行こうかと」
「もしかしていつもそうしてるの? 女の子ひとりだと危ないわよ」
もう女の子なんて年齢でもないのに、心配をありありと浮かべたその人がそっと見上げてくる。
不思議な目だった。色素の薄い眸が水面のように揺らめいて、妙に引き込まれてしまう、まるで海に誘われるみたいに。
だから次に繰り出された言葉に、咀嚼もせず反射ではいと頷いてしまっていた。
「よかった! それじゃあ行きましょ、おすすめのお店があるの」
小さな手が手首を掴んでくる。随分と高い体温に動揺して喉が詰まった。
「あ、あの、行くってどこへ」
「朝まで開いてる居酒屋があるの。和食が美味しくてね、いつか誰かを連れていきたくて」
「そうじゃなくて、」
帰らなくていいんですか、そう言いたかった。課長は三十分ほど前に退勤していた。私が入社するもっと前に結婚していたようだから新婚ではないのだろうけど、それでも家庭のある人がこんな気軽に外泊するなんて。いや居酒屋で飲み明かすなら厳密に言えば泊まりではない、そうだけど。
まだ状況を呑み込めずにいる私に向けられる、また、あの眸。
「あなたの話をよく聞いていて、どんな子なのかなって気になってたの。…だめ、かしら」
海に引き込まれた人間は成す術なくただはいと頷くしかないのだと、知ったのはこの夜が初めてだった。
年度初めの忙しさが落ち着き、梅雨が明け、ビールの美味しい季節になってもまだ、彼女との定期的な飲み会──彼女曰く夜明かし会は開催されていた。お誘いはいつも金曜夜。定時後に送られてくるチャットにノーと返したことはない。
口下手な私は、だけどアルコールが回ると少しだけ饒舌になる。回りの良くなった舌でいろんな話をした。
課長が私を評価してくれているということ。声だけの付き合いだったから最初は年上だと思われていたということ。好きなお酒は日本酒、彼女は生ビール。ビールならいくらでも飲めるしいつだって飲みたいけど、課長が下戸だから家では控えていること。飲み友達ができて嬉しいと笑うその人につられて笑ったら、あなたってそんなかわいらしく笑うのね、なんて、眸を細めるあなたのほうが、
「──寝ちゃった?」
ふ、と。落ちてきたおとに意識を引き上げられた。やわらかな声。電話取り次ぎの際、イヤホン越しでも耳をくすぐってくるそれは凪いだ海のように穏やかだ。
「おきてます」
「それならこっち見てちょうだい」
重いまぶたをこじ開ける。こちらを覗き込む色素の薄い眸。濡れているように見えるのはアルコールのせいだろうか。揺らぐ眸に、ずるり、誘い込まれていく。
「いま何時ですか」
「四時を過ぎたところよ。そろそろ電車が動く時間ね」
帰りたくない、と駄々をこねそうになる自分を必死に抑えた。
最近いつもこうだ。彼女と夜を明かすようになってから、ひとりきりの家に帰ることが虚しくなった。今までそんなこと思いもしなかったのに、この人の帰りを待つ人がいるのだと、課長がずるい、などと、浮かぶ端からアルコールで流し込んでいく。
「…浮気を疑われたことはないんですか」
代わりに投げた疑問にぱちり、目の前の眸がまたたいて、それからふわりと細められる。
「ないわよ。あなたと仲良くなったことは伝えてるし、それにあなたは女の子だし」
「それなら、」
一緒に帰ってくれてもいいじゃないですか、もう少し私といてくれてもいいじゃないですか、だって私は女の子なんですから。子供みたいなわがままは、だけど手の甲を撫でる彼女の指に押し留められた。
私よりいくらも高い体温。ぬるま湯のような居心地のいいぬくもりを手放したくない、そう願っても、彼女のほうから離れていってしまう。
テーブル越しの眸が駄々っ子をとかし込む。海の底に沈められた女は、母とはぐれた子供のような顔でこちらを見つめている。
「また来週、ね」
いつも通りの別れの言葉にくちびるを噛みながら、それでも私は不確かな約束に縋るしかなかった。
(底についたらもう、引き上げてはくれないんですね)
上司の妻と私。あなたが手を引くからここまできたのに。
2024.6.12