放課後のアムネジア

【1】 「好きになってしまったみたいです、あなたのこと」  文面の意味だけを取れば告白の言葉であるはずのそれを、目の前の少女は歌うように口にした。  一瞬理解できずただ見つめ続けている僕に向かって、少女はにこり、微笑む。僕らが同じ空間にいることを証明するかのように、廊下側に向かって沈み始めている太陽が二人を平等に照らす。いつもは心配になるほど白い少女の顔が、健康的な橙色に染まっていた。  二人きりの教室には、もちろん先ほど少女が発した以外の音がするはずもなく。開け放した窓から、サッカー部だか野球部だかのかけ声が微かに届く程度だった。  一つの机を挟んで向かい側に座っている少女は、なおもこちらを見つめ続ける。返答を待っている風ではなく、ただただ笑顔で。僕は次に口にすべき言葉も忘れ、ふと、微笑む。  あなたは。やがて少女がつぶやくと、そこで言葉を切り瞬きを一つ、二つ。それが合図だった。  僕は。発した声は思いのほか掠れていた。一度、唇を閉じる。 「好き、かもしれません。あなたのことが」 「違うでしょ、君」  途端、目の前の少女──もとい、演劇部部長は不機嫌そうに頬をふくらませる。恨みがましく投げかけてくる視線を受け止め、僕はわずかに首を傾げた。 「そこは、『いまの僕のこの感情は、好きなどという生ぬるい言葉では表現できません。僕は愛しているのです、あなたのことを』でしょ」 「何とも時代錯誤な台詞ですね」  丸めていた台本をぱらぱらとめくってみれば、確かにそう書いてある。続けて、『嘘ではありません。愛しております、誰よりも』などと台本中の男はほざいているのだから、ますます時代設定が分からなくなってきた。現代の男子高校生がこんな台詞を臆面なく吐くだろうか、普通。  ため息を一つ、手放した台本が、するりと机の上を滑る。乱暴に扱わないでよ、部長が食べ物を詰め込んだリスのように頬をふくらませた。  しかし、と再び台本を手にしながら思い直す。これは台詞を変えることができる絶好のチャンスではないだろうか。勢いで台本を丸めたのを見咎めた部長が、だから丁寧に扱ってよと言っているが、そんなことはお構いなしに僕は可能性に心躍らせた。 「変えないわよ、台詞」  僕の言葉を先取りしたように、両手を腰に当てため息まじりにそう言われた。ぱん。期待が音を立てて弾ける。僕は部長を真似て頬をふくらましてみた。これがなかなか難しい。 「なぜ分かったんですか。まさか部長、読心術の心得が」 「あるわけないでしょ。君がさっき言ってたじゃない、自分で」 「何てことだ。心の声を我知らずつぶやいていたなんて」 「うっかりのレベルを超えてるわ」  ちゃんと台本通りに演じてよ。部長が唇をとがらせた。  何にせよ、せっかくの台詞改編のチャンスを逃してしまった僕のやる気はとうにゼロだ。部長に口答えする気も失せてしまった。  ふう、とため息をもう一つ。再度、台本に視線を落とす。 「それにしても。何ですか、この主人公」 「あ。話そらした」 「この男、僕と同い年のくせに妙に達観してますし。二股かけてますし」 「その方が面白いかなって」  当の作者は真顔でそんなことを言う。ドラマであれば面白いかもしれないが、文化祭の演目で、誰がこんなどろどろ要素を求めるのだろうか。ぜひ訊きたいものである。 「まるで昼ドラですね」 「わたしとしては、火サスを意識したつもりだったんだけど」  昼ドラと火曜サスペンスの違いが、僕にはいまいち分からない。 「第一、殺人なんて起こってません」 「ちっちっち、人が死ぬだけが火曜サスペンスじゃないのだよ」  的外れな推理を披露した助手に正解を教える名探偵を気取っているのだろうか、おもむろに立ち上がった部長は、すぱー、とキセルの吹き真似をし、訳知り顔で頷く。雰囲気はまるでシャーロック・ホームズだ。会ったことはないが、きっとこんな感じなのだろう。違うのだよワトソン君。ソファにゆったりと腰かけたホームズがキセルを吹かす様が目に浮かぶ。  空想のキセルを吹かしながら、しばらくうろうろとさまよった部長は、ソファではなく椅子に無駄に優雅に腰かけた。  僕たち演劇部は、倉庫として使われている教室の一室を無断で部室と定めている。まかり間違ってもイギリスの貴族の家であったり、校長室や貴賓室ではないのだから、当然ソファなどという洒落た家具はこの空間に存在しない。ちなみに使い古され白から黄色に変色しているクッションならなぜか大量にあるのだが、入部当初から変わらず部屋の隅にうずたかく積まれたままだ。 「あら。このソファ、肘かけがないわ」 「ありません。そもそもソファではありません」 「分かってる。言ってみただけよ」  どうやら同じことを考えていたらしい。不服そうに頬をふくらませるも、しかしすぐに興味を失ったのか、机の上の台本を手に取り最初から読み始めた。  一年と半年ほど一緒に過ごして判明したことだが、どうも僕と部長の思考は似ているようだ。と言っても、性格が似ているわけではなく―むしろ真逆ですらあるのだが―同じ時間に同じことを考えていたり、同じタイミングで一言一句違わない言葉を口にすることがしばしばある。  君とわたしは、実は年の離れた双子なのよ。部長が前にそう言ったことがある。年が離れていたら双子ではないのでは。反論すると、部長はちっちっち、と指を振る。僕の想像の中のホームズその人のように腕を組む。いわゆる、魂の双子なのだよ。小さな子供のように胸を張り、得意げに繰り返した。その言葉の意味はいまだに分からずにいる。  きゅるる。小動物の鳴き声のようなそれが、回想をさえぎるように小さく鳴った。音源を探してみれば、やはりというか部長が腹を押さえ、明後日の方を向いている。何て分かりやすい人だ。と、呼応するようにぎゅるると音を上げた僕が言えることでもないが。 「お腹、すいた」 「すきましたね」  お好み焼き。一呼吸おいて、二人の言葉が重なる。こんな暑い時期になぜわざわざ熱い料理が食べたいのか。自分のことは棚に上げ、思わず顔を見合わせる。なんでこの暑い日にお好み焼きなの。彼女の呆れたような表情がそう言っていた。  数秒の間、見つめ合う。先に顔をそらしたのは部長だった。ぷ、と噴き出し、それから口元に手を当てくすくすと笑う。 「じゃあ、食べに行こっか」  一緒に。そう言って笑いかけてきた部長は鞄を手に取ると、僕の返事も聞かずに立ち上がる。まるで僕が断らないことを知っているかのように、部室の戸締りを始める。読まれていると思うと少し癪だった。たとえそれが無意識だとしても、だ。  しかし、半ばスキップしながらこちらにやって来る部長に腹が立つはずもない。かくいう自分も、部長と夕飯を共にすることが楽しみの一つでもあるのだから。  机の横にかけていた鞄を手に、よっこらせと大して重くもない腰を上げる。 「おごってもらえるのなら」 「割り勘に決まってるじゃない」 「部長がそんなに心の狭い方だとは知りませんでした」 「と文句を言いつつ、先行する君であった」 「ほら、早く行かないとお好み焼きが逃げますよ。部長のだけ」 「逃げないわよ」  言いつつも、鞄を肩にかけた部長は僕を追い越し、がたがたときしむ扉を勢いよく開けた。昼間のまばゆい色合いが嘘のように薄れた太陽が、彼女を包みこむようにあたたかな色をかもし出す。それはまるで彼女自身が光を放っているかのようで。僕はまぶしさにつと目をすがめた。 「ほら、早く行かないとお好み焼きが逃げるわよ。君のだけ」  光が僕の真似をして言った。  玄関でスニーカーに履きかえ校門を出た時には、すぐ近くの停車場に巡回バスが到着していた。もうすぐ発車時刻ということもあり小走りで乗り込み、後ろから二列目の席に座る。窓を開けると、ゆるりと車内に侵入してきた風が、わずかに汗ばんだ僕の肌を絡め取るように過ぎていく。夕方だからだろうか、気温に反して冷たく感じた。  鞄を足元に置いたところで、遅れて乗車してきた部長がすぐ隣に腰かける。 「ふう、あっついね」  ネクタイをゆるめながら片手で顔をあおぐ部長は汗一つ掻いておらず、何とも涼しげだった。  後ろから二列目の席に並んで座るというのが、僕らの下校スタイルだ。入部当初は、当然のように隣に座り身を寄せてくる部長に戸惑った。もちろん、それを目ざとく見つけた同級生には茶化され、見知らぬ上級生からは、まあこんなやつだけどよろしくとなぜか任されてしまう始末。  いたって健康的な高校男子である僕は大いに動揺したが、それが一年と半年も続けば耐性がつくものだ。ねえほらあれ見てと身を乗り出し窓の外を指す部長のあしらい方も心得たし、僕の肩にもたれてうたた寝する部長との距離にも慣れた。慣れとは怖いものだと、つくづく思う。 「ねえ。あそこの男の子」  部長が袖を引っ張ってきた。促されるままに視線を辿ると、右斜め前方の席に座っている男子生徒が、席越しにちらちらとこちらを窺っている。  不意に目が合った。慌てた男子生徒は、大急ぎで座席に隠れる。 「友達?」 「いいえ」 「そう、ならいいの」  大して興味はなかったのか、ふむむと唸っていた部長は顔を背け、動き出したバスからの景色を楽しみ始めた。  部活動で優秀な成績を残し学校内でも有名なその男子生徒は、部長に覚えてもらっていないと悟ったのか、ちらりともう一度こちらを見た後にがっくりと肩を落としていた。恐らくは部長に恋心でも抱いているのだろう。  意外と言っては何だが、部長は結構もてるらしい。放課後に呼び出され告白されるのはざらで、時にはストーカーまがいの行為もされるという。保護者化してきた僕としては、そんな話を聞くたびに心配で仕方がないのだが。  そういえば、こんなこともあった。 『ねえ、靴箱開けたら、小包みが大量に入ってたんだけど!』 『今日は確か、バレンタインデーですからね。生徒が入れたんじゃないでしょうか』 『な、なんでそんなに冷静なのよ! これが爆弾だったらとか、考えないの?』 『爆弾だと思ってるんだったら持って来ないでください』 『そ、そうよね。爆発物処理班呼ばないとね』 『まさか公衆電話に向かうつもりですか。一介の学生が爆発物なんて用意するわけないでしょう、普通』 『じゃあなんだって言うのよ』 『チョコかと』 『チョコ型の爆弾ね!』 『だから爆弾から離れてください』 『総員、退避っ』 『そういう意味じゃなくて』  と言いつつ、爆弾もといチョコレートを処理すべく包みを開ける僕。  世界広しといえど、今どき靴箱にラブレターやバレンタインチョコを突っ込まれる絶滅危惧種的学生は、部長以外にいないのではないかと僕は思う。  とにもかくにも、その天然さからか、部長は男女問わず好かれる人なのだ。  右斜め前方の彼の気持ちなど露知らず、部長は通り過ぎる景色を横目に機嫌よく鼻唄を口ずさんでいた。 「何でしたっけ、その歌」 「知らない。でも、どこかで聞いたことがあって」  そうして再びふんふんと歌い始める。聞き覚えのあるその曲は、一昔前に流行った演歌だった。  部長は古いものが好きだ。小説ならば江戸川乱歩、音楽ならば演歌、番組なら水戸黄門、といった具合に。最近のものはどうも性に合わないのだと彼女は言う。そのくせ昼ドラや火曜サスペンスは欠かさず見ているのだから、やはり部長の趣向は分からない。  がたん。バスが揺れ、身体が一瞬座席を離れる。ぐらりと傾いた部長は、体勢を立て直すこともせずそのまま僕の肩に頭をもたげてきた。僕には形容することのできない淡い香りが鼻孔をくすぐる。蛇口を思い切りひねったように広がった香りに、心臓が化学反応を起こして跳ねた。  ──やっぱりまだ慣れていないみたいだ  ふわあと欠伸をしている部長の横で、僕は早くも前言撤回していた。 「部長」 「ううん…。寝ちゃいそう、この体勢」 「部長」 「なんかいい匂いするね、君。香水でもつけてるの」 「部長」 「なに」 「もう着きましたよ」  言うと同時に、降車ボタンを押した。ぴんぽん、と音が響き、音声が次のバス停に停まることを告げる。  肩のぬくもりがふいに消える。部長はいそいそと鞄を肩に、待ちきれないといった風に足を上下させている。ぱたぱた、ぱたぱた。  ちらりと顔を窺えば、彼女は満面の笑みを浮かべていた。まるで遊園地に行く子供みたいだと、僕はこっそり笑った。  扉を開け、談笑が飛び交う店内に足を踏み入れた。  高校が近いからか、この時間帯の客の大半は学生だ。加えて今は夏休みなので、部活帰りの生徒が店の半分以上を占めている。  縦長に延びている店の奥へと進んで行き、個室のように仕切られている一角に陣取った。奥から二番目の席。ここが僕たちの指定席となりつつある。ここからだとお手洗いも近いし、何より店員がよく通るからだと、部長が以前言っていたことを思い出した。彼女は注文をする際に店員を呼ぶのが苦手なのだ。  部長は僕の向かい側に座り、メニューを手に取る。傍目にもそうと分かるほど目を輝かせ、どれにしようかな、などと弾んだ口調でつぶやいている。そんな部長を眺めるのが、僕の楽しみの一つでもあった。 「ねえ、君はなににするの」  声を張り上げているわけでもないのに、部長の声はこの喧騒の中でも不思議とよく聞こえる。それとも僕の耳が、彼女の声を捉える機能に特化したのか。 「お好み焼きのそば肉玉、ねぎかけで」 「しんぷるいずべすと、ね」  部長が、流暢とは言いがたい発音で英語らしき言語を口にした。舌足らずの子供のような発音で、なぜそんなにも得意げな表情なのかが僕には理解できない。相変わらず謎な人だ、胸中でつぶやいた。  謎ってなによ、謎って。部長が何やら文句を言っているようだが、耳を塞いで明後日の方向を見ることでやり過ごした。 「で。部長は何になさるおつもりで」 「うどんとそば、どっちにしようか悩み中」 「そばがいいんじゃないですか。部長の髪みたいで」 「どういう意味よ」 「そのままの意味です」 「コシがあるってことね」 「くるくるってことです」  二人分の水とおしぼりを持ってやって来た顔なじみの女性店員が、そんなやり取りを聞いて苦笑した。部長といくらも年が変わらないはずの彼女は、大人びた外見のせいか、部長と並ぶと年の離れた姉妹のようだった。 「ご注文を伺うのは、もう少し後の方がよろしいでしょうか」 「いえ、大丈夫です」 「あっ、ひどい! わたしまだ決めてないのに」 「お好み焼きのそば肉玉、トッピングはねぎで」  非難の声を上げる部長は無視してさっさと注文する。店員は微笑ましそうに笑顔を浮かべ、いつものですね、と伝票に書きこんでいく。部長はしばらく唸った結果、マヨネーズかけお好み焼きのそばダブルとなった。  また太りますよ。親切心で忠告すれば、うっさい、と一言。マヨネーズたっぷりね、とは言ったものの、一度自身の腹に手を当て、がくりとうなだれた。 「いつもの、ですね」 「ええ、そうです」  部長が何か言い出すよりも先に答えると、店員は頭を下げて去って行った。  水の入ったコップを手に、ちらりと向かいの席に視線を移す。二の腕を触りまたも落胆していた部長は、僕の視線に気付いたのか、ふいに顔を上げ小さく笑った。 「少し、嬉しくなるよね。いつものって言われると」 「そうですか」 「だって、前に来た時の自分も、そのまた昔の自分も覚えていてくれてるってことでしょ、あの人。それが少し、嬉しいなって」  そう言って本当に嬉しそうに目を細めるものだから、僕もつられて笑い返す。  部長の表情や行動につられることは多々あった。部長が笑えばなぜだかこっちまで嬉しくなり、それまで彼女に腹を立てていたことも忘れて笑顔を返せる。彼女がおいしそうに料理を食べれば、たとえ世界で一番嫌いなレバーでも笑顔で食すことができる、そんな風に。  そこまで考えて、やはりレバーだけは死んでも無理だと思い直した。 「おいしいじゃない、レバー」 「勝手に人の心を読まないでくださいよ」 「だから全部自分で言ってるんだって」 「何てことだ。心の声を我知らずつぶやいていたなんて」 「あら、なにこのデジャヴ」 「そういうわけで、レバーは食べられません」 「どういうわけか説明もなしにまとめにかかったわね」 「レバーは人類の食すものではないのです。もっと言えば、あれは食物ではないのです」 「じゃあレバーが大好物のわたしは人類じゃないと」 「そうですね」 「少しは否定してよ」 「たとえレバーが好物でなくても、部長は人類にあてはまりませんから」 「まさかの展開だわっ」 「安心してください、僕の方は紛うことなく人類です」 「なにを安心しろって言うの」  部長は若干涙目になっていた。いけない、いじめ過ぎてしまったか。正確にはいじめではなくいじっているだけなのだが、部長からしてみればどちらも大差ないらしい。  あんまりいじめると泣いちゃうんだから。机にのの字を書いて俯いている彼女は、普段よりもさらに幼い口調でそう言った。本気で泣きだしそうなその様子に、うずき出した悪戯心をやっとのことで抑え込む。  もういじられないことを感じ取ったのか、しばらくして恐る恐る顔を上げてきた。僕の顔色を窺い、ぱっと顔を輝かせる。それじゃあ、と一言、大きく息を吸った。何がそれじゃあ、なのか。そんなことは、今の彼女にとっては愚問でしかない。肩がゆるやかに上がり。はあ、はき出すとともに元に戻る。そうして僕をはたと見つめてくる部長は、もう部長ではなかった。 「『ありがとうございます、来てくださって』」 「…いきなりですか」  予感はしていたが、やはりというか、部長は夕方行ったばかりの劇の台詞を口にした。ゆるやかな深呼吸。それが、彼女が台詞合わせの前にする癖だった。  僕の呆れ交じりの質問には答えず、ほら君の番よ、と目で訴えてくる。こうなると部長は、たとえ僕が無視しようがお好み焼きがやって来ようが人類が滅亡しようが、決して部長に戻ることはない。僕が台詞を言うまでは。  仕方ない。ぐいと水を飲み、のどを潤す。息を吸い、冷えた呼気をはき出した。 「『一体どうしたのですか、話があるなんて』」 「『あなたに、聞いてほしいことがあって。わたしが、いなくなってしまう前に』」  そう言って、目の前の少女の口元がゆるまる。それは部長ではなく、台本の中の少女がそのまま抜け出してきたかのようだった。  高校三年生の少女は、三年間同じクラスである男子に恋心を抱いていた。  ある日、ガンで余命幾ばくもないことを告げられた少女は、男子に想いを打ち明けることを決意する。彼はすでに他の女子と交際していたが、少女の儚げな姿に、ずっと前から彼女が好きだった事実に気付く、そんな、よくある内容だ。  僕──男子は、不思議そうに首を傾げる。途端、周囲の笑い声や雑談はすべて遮断された。まるで世界に二人だけが取り残されてしまったかのような錯覚に陥る。目の前に座る少女のソプラノだけが耳に心地よく響く。  いなくなってしまうとは。いくら尋ねても、少女は寂しそうに笑うばかりだ。そうしてまぶたを閉じて。開いて。寂しさを奥に潜ませ、歌うように発した言葉。 「『好きになってしまったみたいです、あなたが』」  男子は理解できず、ぽかんと口を開けたまま間抜けにも少女を見つめ続ける。  あなたは。やがて少女がつぶやくと、そこで言葉を切り瞬きを一つ、二つ。微かに合図を送ってくる。  僕は。口にした台詞はやはり、掠れていた。  しかし、それから先の言葉が出てこない。しばらく考えてからもう一度、僕は、とつぶやいてみたが、ここまでが限界のようだった。 「…部長」 「………」 「部長」 「…なに」 「やっぱり変えませんか、台詞」 「なんで」  先ほどの笑顔から一転、机に肘を突き、ため息をつく部長は明らかに機嫌を損ねていた。僕が中断させたからか、それとも台詞を変えたいと言ったからかは分からないが、とにかく不機嫌そうだ。  しかし、僕も後に引くわけにはいかない。ずいと身を乗り出し、説得を試みる。 「恥ずかしいんですよ、あの台詞」 「『いまの僕のこの感情は、好きなどという生ぬるい言葉では表現できません。僕は愛しているのです、あなたのことを』…これのどこが」 「全部です」 「驚きだわ」 「僕としてはむしろ、この台詞を真顔で言わせようとする部長に驚きです」  気恥ずかしい、と表現する方が近いかもしれない。好きと言うならまだしも、愛しているという言葉は、僕にはまだ早いようだ。芝居だと分かっていても、途端に口の端がかゆくなり、思わず目をそらしたくなる。  腕を組んだ部長はわずかに下唇を噛む。思案する時の彼女の癖だ。 「じゃあ、なにがいいのよ」 「夕方の台詞合わせの時、僕が言った台詞です」 「『好き、かもしれません。あなたのこと』」  てっきり忘れているだろうと思っていた台詞を、部長はやはり軽やかな節回しで言ってのけた。 「曖昧ね」 「曖昧でいいんです。主人公だってまだ、この感情をあまり理解していないんですから」  それに少女の台詞も『好きになってしまったみたいです、あなたが』という、曖昧なものですし。僕は続けた。 じとり。据わったままの目が、僕を真正面から見つめてくる。僕も負けじと見つめ返す。傍から見れば怪しいカップルか何かと勘違いされているのだろうかと思うと少し、笑えてきた。 「む。なに笑ってるの、君」 「いいえ、何も」 「変な子」  そうしてようやく部長の口元がほころぶ。  はあ、とあからさまなため息をつかれる。仕方ないわね、彼女がつぶやいた。それでも笑顔は消えないまま。 「変えようか、台詞」 「ありがとうございます。頼りになりますね、こういう時だけ」 「よし。やっぱり変えずにいきましょうか」 「部長素敵ですー、世界一頼りになりますー」 「ほれほれ、もっと褒めよ崇めよ敬えよ」  鞄から筆記用具を取り出した部長は、得意顔をそのままに取り出した手帳をめくる。 白色のシンプルな手帳を、彼女はいつも携帯している。思いついた台詞や話を書き込んだり、果ては一日の出来事を記したりと、その用途は様々だ。中身はあまり見せてもらえないが。  部長は机に手帳を広げ、シャーペンで先ほどの台詞と『変更』の一文字を書き込む。まっさらなページに、丸みを帯びた丁寧な字が加えられていく。  その間にお好み焼きが運ばれてきた。目の前の鉄板に二人分のお好み焼きが並ぶ。部長のお好み焼きが鉄板の半分以上を占領しているせいで、通常サイズの僕のそれが小さく見えた。小さな身体の一体どこに大きなお好み焼きが収納されていくのかが、部長七不思議の一つだ。  赤があれば信号なのにね。以前、部長とこの店を訪れた時、彼女がそう言っていた気がする。僕のトッピングがねぎで緑、部長がマヨネーズで黄色、だから赤もあればいいのにと。じゃあ紅ショウガたっぷり乗せてみますか、そう提案すると、部長は頬をふくらませた。 「紅ショウガは焼きそばと一緒に食べるべきよ」 「…え」 「だから、紅ショウガ」  見れば部長は、いつかのように頬に空気を溜め、僕の手元を指差している。無意識に紅ショウガの入った缶を手に取っていたようだ。  お好み焼きに紅ショウガなんて邪道だわ。あの時とまったく同じ言葉を、部長は口にした。 「…そうですね。やめておきます」 「ぜひそうして」  缶を元の位置に戻す。部長は両手を胸の前で合わせ、早く早くと促してきた。 「冷めちゃう」 「はい」 「ん。じゃあ、いただきます」 「いただきます」  合掌するなりヘラを持ち、端から一口ほどの大きさに切り分けていく部長をぼんやりと眺める。見つめている僕に気付くことなく、彼女は幸せそうに口元をほころばせている。  ふう。息をつくと、湯気で眼鏡がくもった。 「ねえ。それで見えるの、君」 「見えません」 「じゃあ外せばいいのに、眼鏡」 「外すとさらに見えません」 「どっちも変わらないと思うけど」  僕の視力を知らないからそんなことが言えるのだ。ひとたび眼鏡を外してしまえば、すぐ目の前にあるお好み焼きが二つあるように見えてしまう。それなら眼鏡がくもる方が幾分マシだ。 「二つになるなんてお得じゃない」 「そういう問題じゃないです」  それに、 「部長の顔も見えなくなりますし」 「もう、正直者なんだから。いくらわたしが可愛いからって、終日見つめられても困るわ」 「歯についてますよ、青のり」 「うそっ」 「嘘ですよ」  照れたような表情から一変、覗いていた白い歯が隠れ、ポケットから急いで手鏡を取り出していた。こみ上げてくる笑いを堪えることができなくて、僕はすぐに嘘であることを明かしてしまう。  それに眼鏡を外してしまえば、こんな風に一人で百面相する部長が見られなくなってしまうから。とは、言えるはずもないが。  じとり。そんな擬音が聞こえてきそうなほどの目つきで、部長が見据えてくる。 「もう。からかわないで」 「すみません、青のりは歯じゃなくて頬についてました」 「謝るポイントが違うわよ」  憤慨しつつも再び手鏡に自身を映しこむ部長。それももちろん嘘なわけだが、気付かないまま彼女は一心に鏡を見つめている。 「部長」  呼び止めると、鏡の上からちらりと目が覗いた。羞恥で染まった頬の紅が目元まで侵食し、瞳まで赤いように錯覚する。 「嘘、ですよ」  ヘラを持ち、お好み焼きを切り分ける。息をはくと、また眼鏡がくもった。
【2】 「わたし、許さないわ。あなたのこと」  去ろうとしていた少女が、何かを思い出したようにふと振り返り、僕の顔を睨み据えて言った。その遺恨の表情すらも、完成された彫刻作品のように見えて。僕はつい、見惚れてしまっていた。  きびすを返した少女は今度こそ去っていく。と思ったら、教室の隅をぐるりと回り、僕の後ろにやって来ると、先ほどとは打って変わって不安そうに見上げてきた。 「あの、」 「僕は、」  少女の言葉をさえぎる。僕は。繰り返してから、息を一つ。ひゅう、と情けない音が洩れる。 「あなたが、好きなんです」 「違うでしょ、君」  今にも泣き出さんばかりだった少女から一転、不機嫌そうに頬をぷくりとふくらませた部長へと戻っていく。その表情が、言葉が、つい先日見た光景そのままで。こういうことをデジャヴと言うのだろうかと思うと自然、笑みがこぼれた。  その台詞じゃないでしょう──彼女が次に繰り出す言葉は容易に想像できる。いつもなら黙って二の句を待つのだが、今回は怒られるよりも先に反論してみることにした。 「確かに、台本とは違いますけど」 「そ、そうよ。分かってるんじゃない」  反論されるとは思っていなかったのだろう、気圧されたように後ずさった部長は、それでも強気な姿勢のままだ。そんな部長に、ずい、とわずかに近付く。その距離だけ、彼女が後退する。 「でも結局、部長が二人の少女を演じるわけですから、裏を返せば同一人物ってことじゃないですか。ということは、どちらを好きでも問題ないんですよ」 「すごくめちゃくちゃな理論ね、それ」  呆れたように大きな息を一つ、はき出す。  先ほど演じていたのは、主人公から別れを切り出された元恋人が恨みつらみをぶつける場面だ。恋人役はもちろん部長。何しろ演劇部部員は、僕を含め二人しかいないのだから、その配役は当然だった。  文化祭用の台本を渡された時─もうはるか昔のような気がするが─部長に進言したことがある。登場人物が二人しかいないものにしたらどうかと。すると部長は、いつものように得意げな表情で、あまり豊かとは言いがたい胸を張り、言ったのだ。わたしが全部するから大丈夫、と。 「大体、配役自体に無理があったんですよ」 「誰の」 「部長のです」 「恋人に、余命幾ばくもない少女に、主人公宅に勤める家政婦。この配役のどこに無理が」 「すべてですよ」  部長は言葉通り、劇中に登場する女性全員を演じることになった。しかも声や表情まで変えてすべてを演じ分けているのだから、尊敬しないわけにはいかない。しかし素直に褒めてしまうのも、何となく癪だった。 「わかった。自分が主人公役しかしてないから嫉妬してるんでしょ、君」 「違います」  速攻で否定する。だが僕の言葉をスルーしているのか、はたまた最初から聞いていないのか、そうだよねと納得したように頷いた部長は、自然な動作で腕を組んだ。 「じゃあ君には特別に、通りすがりのおばあさんという役を献上しようぞ」 「脇役の匂いがぷんぷんしますね」 「なに言ってるの。十秒も出番があるのに」 「完全に通り過ぎただけですよね、それ」 「そんな些細なことは気にしないの」 「しかも僕、男なのにおばあさん役って」 「そんな些細なことは気にしないの。男の子でしょ」 「男の子だから気にしてるんですが」  男の子でしょと言いつつおばあさん役をあてがう部長は、やはり謎な人だ。一見からかっているようにも思えるが、本人はいつでも真面目に、本気で言っているのだから性質が悪い。  呆れてものが言えない僕の目の前で台本を開いた部長は、登場人物の欄に『脇役:通りすがりのおばあさん』と付け足す。なぜわざわざ『脇役』と書くのか理解できない。 「脇役が、役の上では一番重要なのよ」 「だから心を読まないでくださいと何度言えば分かってくれるんですか」 「全部自分で言ってるから、君」 「わざわざ『脇役』と書かなくてもいいじゃないですか」 「脇役の意味が分かってないようね。目に見える言葉すべてが真実とは限らないのよ」 「脇役にどんな隠された意味があると」 「簡単に答えを求めることなかれ。心の目で見れば一目瞭然よ」 「目を閉じれば見えると言うんですか」 「そうよ。なにか見えた?」 「文字が見えません」  夕方の教室。新学期まで秒読み状態となった今日は、開け放した窓からかすかに和音が届いてきていた。軽音楽部が文化祭に向けて合奏でもしているのかもしれないと、机に片肘を突いた体勢でぼんやり思う。  机を挟んで真向かいに座る部長は、まだまだ修行が足りないわね、と微笑んだ。そうしてどこかで聞いた覚えのある鼻唄を歌いながら、機嫌よく台本をめくる。二人きりの教室内には、ぱらぱらとリズミカルにページを繰る音と、部長が奏でるスローテンポな鼻唄だけが響いていて。なぜだかそれらが心地よくて、僕はゆるり、目を閉じた。  こうすると自然、思い出すのはあの日のこと。  夕方の教室と、静寂と、初めて見た彼女のこと。 ***  妖精。  扉を開け、椅子に腰かける少女を視線が捉えた時、僕の脳は直感的にその単語を思い浮かべた。  窓際の席に座り、頬杖を突き、横顔だけを覗かせた少女は瞬きを一つ落とす。ゆるりと上がった左腕が、指が、髪を耳にかける。やわらかそうな耳がほんのりと色付いている。そんな仕草の一つ一つを、僕は食い入るように見つめていた。  この妖精はどこからやって来たのだろうか、もしや人間世界を探索中にこの教室に迷い込んでしまったのだろうか。そんな子供じみたことを考えるほど、視線が、思考が、僕が。少女に惹きこまれてしまっていた。  思わず鞄を取り落とす。ばたん、意外と大きな音が、夕方の教室に響いた。どこか止まっているかのような空気を一瞬震わせたその音が、少女の存在を掻き消してしまうのではという僕の心配をよそに、少女の肩がびくりと動き、こちらを振り返る。セミロングのくせ毛気味な黒髪が動きに合わせて右へ揺れる。彼女はもちろん消えない。  君は。数秒の間があり、ようやく少女が発した一言。静寂に溶け込んでしまうほど小さな、しかしはっきりと僕の耳朶に届く声音だった。思えばこの瞬間から、僕の耳は少女の声をいち早く捉えられるよう都合よく変化したのかもしれない。  一瞬の思案の後、少女は立ち上がる。  僕は。そこで、言葉が詰まった。眠たそうに細められた少女の目に見つめられ、僕は何を言い出すこともできなかった。  僕はただ偶然、この教室に迷い込んだだけ。道が分からず、当てもなくさまよっていただけ。廊下から見えた彼女に、道を尋ねようとしていただけ。音にしようと口を開くたび、探し当てたはずの言葉は掴む前にどこかへ消えていってしまった。  少女が小さな音を立てながら、ゆっくり近付いてくる。上履きがタイルの床をきゅ、と擦るたび、自身の立てた音に驚くように少女の目が丸みを帯びる。  白い上履きが、すぐ目の前で立ち止まる。少女の顔は視線を下げた先、僕より頭一つ分ほど低い位置にあった。もちろん僕の身長が一般の男子高校生に比べ高いということも事実だが、おそらく同年代であろう少女が平均より小さいこともまた事実だった。  もしかして。あごをゆるく掴むように人差し指と親指を当て、少女はつぶやく。その一挙手一投足にさえ、僕の心は跳ねた。  入部希望者ね、君。断定するような、それでいて窺うような口調で尋ねられる。  もしかして僕は勧誘されているのか、一見すると物置か倉庫に見える教室は部室だったのか、そもそも彼女は人間なのかさえも、いまの僕は判断しかねていたが、それでも。  はい。先ほど失くしてしまった言葉とは別のそれを、勝手に口にしていた。  僕の返答に、少女はにこり、微笑む。よろしい。やけに厳かな口調で一人、頷く。窓際に歩いていき、ぱっと振り向く。くるりと跳ねた黒髪が、肩をなでるように流れた。形のよい耳が隠れる。心配になるほど青白かった頬は、陽を受けていつの間にか朱に染まっていた。  少女は笑顔を向ける。薄い唇から、白い八重歯が覗いた。  そこでようやく僕は、少女が本当にそこに存在していることを確信した。  ──今日から君は、わたしと二人だけの演劇部員です! ***  妖精だと思った。とは、いまだに言えずにいる。照れくさいというのも理由の一つだが、もう一つの理由はやはり、癪だからだ。そんなことを口にしようものなら、部長は鼻高々になるに決まっている。  ──可愛さって罪よね!  いつまで経っても成長が窺えない胸を張り、自分の言葉に少し照れながら、彼女は言うのだ。照れるくらいなら言わなければいいのにと、僕はいつも思う。  あら。突然の疑問符に、僕はまぶたを開く。机に頬杖を突いた部長は、眉を器用に八の字に寄せ、うーと唸りながら、何やら神妙な表情をしていた。 「どうかされたんですか、珍妙な顔をして」 「珍妙とは失礼な。…じゃなくて。これ」  いつの間に取り出したのか、見覚えのある白い手帳が机に広げられる。部長の、折れそうなほど細く白い人差し指を辿りながら、視線を下げていく。行き着いたのはたった一文。丸みを帯びた文字。見覚えのある、シャーペン書きの文だった。  瞬間、心臓が耳元にまでせり上がってきた気がした。ばくばく、ばくばくと、自分の意思とは関係なく、やたらうるさく鳴り響く。背中を冷や汗が伝う。自身の発する音以外はすべて遮断されてしまったように感じて。机の下で、こぶしを握った。 「…『好き、かもしれません。あなたのことが』」 「どこの台詞を変更したんだっけ、これ」  『変更』の一文字を指し首を傾げる部長を前に、僕は唇をきつく噛んだ。 「さあ。僕も、あまり」 「おかしいわね。君と一緒の時しかしないと思うんだけど。変更」 「ずっと前にやった台本とかじゃないですかね」  そうなのかなあ。頭を掻き、本当に不思議そうに部長は言う。しばらくその一行を凝視し、宙を見つめ、それから僕をちらりと見て。僕はなるべく、いつも通りを装った。手が汗ばむ。視界がちかちかと瞬く。部長の姿が一瞬ふっ、とかき消えた気がして。なるべく不自然に映らないよう、机に視線を移した。  きっと忘れてしまっているだけですよ。それだけを言うことは簡単だが、何せのどがからからに乾いていて、それ以上の言葉を発することは不可能だった。それでなくとも、僕は言えなかったのだろうが。 「…君がそう言うなら、そうなんだろうね、きっと」  腑に落ちてはいないようだが、それでも部長は苦笑を浮かべていた。そうですよ、きっと。気付かれぬようにそっと、息をつく。握りしめていた手にようやく痛覚が戻ってくる。上がっていた心拍数はどうやら正常になったようだ。少なくとも、この沈黙の中ででも聴こえないほどには。  部長がふいと横を向く。つられて首を動かせば、沈みかけた太陽の光がわずかな抵抗を見せ、僕の視界に残像を残そうと足掻いていた。下校時刻を告げるチャイムが鳴る。軽音楽部はもう練習を終えたようだ。  腕時計に目をやり、もうそんな時間なのかと目を瞠る。腹もすくわけだ。  今夜は奮発して焼き肉でも食べに行こうか、僕は顔を上げた。 「あの、」 「ねえ、」  沈黙の後、二人の声が重なって消えた。合いすぎていたタイミングに思わず目を瞬かせれば、驚いたようにこちらを見ていた部長も瞬きを一つ。ぱちり。長いまつげが伏せられ、一拍置いてとび色の目が覗く。もう一度、瞬きを返す。一つ、二つ。まぶたが一瞬だけ、視界をさえぎった。  先に笑ったのは僕の方だった。ぷ、と噴き出し、おかしさから顔を俯ける。 「む。なによ、わたしはただ、一緒にごはん食べに行こうって誘おうとしただけなのに」 「僕もですよ、部長」 「あら、偶然ね」 「じゃあ、食べに行きますか。何がいいですか」 「焼肉」 「僕も焼肉がいいです」  久々に。僕はこっそり、付け加えてみた。部長には届いていなかったようだが。  一度だけ、部長と焼肉を食べに行ったことがあった。君は身体が大きいんだから、もっと食べるべきなのよ。小さな身体でぴょんぴょん跳ねながら部長が言うものだから、じゃあ何ならたくさん食べられますかねと尋ねると、迷うことなくただ一言。お肉。  結局、焼肉をたらふく食べたのは部長で、僕は終始焼き係に徹していた。おいしかったね、と付け合わせのキャベツしか食べていない僕に、満足そうに言った彼女の顔が忘れられない。  部長は勢いよく立ち上がった。目をきらきらと輝かせ、お肉っお肉っ、としきりに意気込んでいる。犬の尻尾でもついていれば、引きちぎれんばかりにぶんぶん振っているに違いない。  ふ、と。思い出し、ちらりと振り返る。先ほどまで対面していた机の上には案の定、白い手帳がぽつんと置き去りにされていた。部長はいつも鞄に収め忘れてしまうのだ。  忘れてますよ部長──いつもの癖で出かけた言葉をすんでのところで押し止める。密かに手帳を取り、彼女が開けることはないであろうロッカーに隠した。  ロッカーを閉めたところで、先に廊下に出ていた部長がひょいと扉から顔を覗かせる。 「もちろん、君がおごってくれるのよね」 「おごりません」 「なんで」 「部長の胃袋はブラックホールですから」 「失礼ね、ブラックホールじゃないわよ。ちゃんと噛むもの」  それから部長は大真面目に、自身の胃袋とブラックホールの違いを語りだした。曰く、ブラックホールは隕石とか惑星とか、よく分からないけどそんな感じのものを、味わわずに吸い込んでるから、どんどん大きくなるの。その点わたしは、よく噛んでるから、いくら食べても太らないのよ。曰く、ブラックホールは底無しだけど、わたしの胃袋にはちゃあんと底があるの。そうね、牛丼二十杯分くらいかな。あ、大盛りでね。  要は、僕にとっては胃袋もブラックホールも大差ないということだった。 「と、いうわけで。おごってくれるわね」 「その話を聞かされた上で、なぜおごってもらえると確信してるのかが理解できません」  扉の隙間から覗いているそのままの体勢で、恨みがましい視線を僕に向ける。じゃあ止めましょうか、焼肉。そう言うと、ぷくっと頬をふくらませた。 「いじわる」 「恐縮です」 「褒めてないわよ」  演劇部の部室─と称し、勝手に拝借しているだけだが─があるのは、理科室や音楽室等と同じ実習棟の二階だ。そのため帰宅する際には、同じ階の連絡橋から授業棟に移動する必要がある。ちなみに二階は三年生の領域、つまり学級がある。この学校では、同じ階に三年間在籍することになっているのだ。  僕たちは普段通り、連れ立って連絡橋を渡った。部長はいつも僕の左側。ぽんぽん、と自身の目の高さほどの欄干を軽く叩く。ここを歩く時の、彼女の癖だった。 「なんだかにぎやかね」 「文化祭の準備をしているんですよ、みんな」  教室棟への扉を開ける。僕の言葉を証明するかのように、途端に周りに声があふれ返った。夏休みが明けた翌週に文化祭が開催されるため、生徒は否が応でも夏休みを返上してその準備に追われることになるのだ。  各々の教室からは多様な音が聞こえてくる。釘を打つ音、椅子や机を移動させる音、廊下を慌ただしく駆け抜けていく音。それらに混ざって聞こえる、楽しげな笑い声。そんな生徒たちを横目に、教室を一つ、二つ行き過ぎていく。  部長がふと、教室の前で足を止めた。その三歩ほど先で、僕も立ち止まる。首を傾け教室内を覗く部長の視線を追えば、中で指示を飛ばしていた快活そうな女子生徒が手を振っていた。ちらり、扉の上に掲げられた標識を見る。  どうやらここは、部長が在籍する組のようだ。とすれば、笑顔でこちらに近付いてくる彼女は友人だろうか。  人懐こそうな笑顔を見せる彼女と部長が話している間、僕は数歩離れた壁に掲示されてあるクラスポスターを眺めることにした。この組はどうやら仮装喫茶なるものをするらしい。いま流行りのコスプレ喫茶と同じようなものだろうか。  窓から中の様子も覗いてみる。内装はあらかた完了しているようで、白いテーブルクロスがかけられた机はいつもより豪華に見えた。メイド服を着た体育会系の男子生徒が見えたが、僕の記憶には留まらせないことにした。目に毒だ、非常に。 「がんばってるよね、みんな」 「もういいんですか」  いつの間にか隣に立っていた部長が、僕と同様に中を見つめそう言った。つい先ほどまで会話していた少女は、教室に戻り忙しく立ち振る舞っている。  彼女を追う部長の視線が、右へ左へと動き。やがて疲れたように目を閉じ、小さく頷く。普段は小学生のような幼さを残した横顔が、なぜだかひどく大人びて見えた。 「…帰ろっか」  ぽつり。独り言のようにつぶやいた部長は、階段の方向へと足を向ける。僕はもう一度だけ教室内に目を遣り、歩き去っていく部長の背中を追いかけた。  身長が低いからか、部長の歩幅は比較的小さい。早足や大股にならずとも、すぐに追いつくことができるのだ。 「さっきの人と、何を話されてたんですか」 「ん。最近どう、って」 「何と適当な」 「一番答えに困る質問よね」  前を向いたまま、答えが返ってくる。先ほどの欄干と同じように、階段の手すりをぽんぽん叩きながら歩く部長は、まるで叱られた後の子供のようだった。しょんぼり、という表現が妙にしっくりと当てはまる。  会話が途切れる。いつもなら部長は尋ねていないことまで話し出すのだが、今日はなぜか話が続かなかった。どこか寂しげな背中にかける言葉を探すも、口下手な僕に面白い会話など到底浮かぶはずもない。  普段なら。例えば部長がふくれっ面を浮かべていれば、昼食でも食べ損ねたのだろうと予想がつく。例えば笑顔ですり寄ってくれば、靴の紐が上手に結べたぐらいでと茶化すことができる。そんな風に、すべてとはいかないまでも、大抵のことなら知っていると思っていた。  今の、頼りなげな少女一人笑顔にすることができない僕は、部長のことなどまるで理解できていなかったのだと、嫌でも実感した。 「ああ、それからね」  踊り場で突然、部長が振り返る。あれ、と首を傾げ、それから思い出したように見上げてきた。おそらく振り返った位置に僕の顔が見当たらなかったからだろう、ようやく目が合い、安堵したように頬がゆるまる。ようやくいつもの調子を取り戻した風の部長に、僕もつられて微笑んだ。 「一緒にいた男の子は誰、って」 「一緒にいた男の子」 「気まぐれで皮肉屋で変人な子よ」 「誰ですかね、そのあまのじゃくは」 「自覚してるんじゃないの」 「で、そのイケメンで紳士的な男の子がどうかしたんですか」 「なに自分で美化してるのよ。…その子とはどんな関係なのって訊かれて」 「訊かれて、部長は何と答えたんですか」  ぽかんと、どこか思案するかのように見つめてきていた顔が、にやりと意地悪く微笑む。こういう表情をした時の部長は、いつもの可愛らしさはどこへやら、二時間ドラマに出てくる悪人顔に変貌するのだから不思議だ。 「ひーみつ」  秘密にされると余計気になるのだが。部長は唇に人差し指を当てると、くるりと背を向けた。 わずかに助走をつけた彼女は、僕が止める間もなく走り出し、飛んだ。折り目正しいスカートがふわりと舞い、それに合わせて黒髪がなびく。踊り場上の窓から差し込む夕日が、振り上げられた両腕の白さを際立たせる。  もしかして部長は宙に浮いているのではないだろうか。僕がそう錯覚し始めたころに、小さな足音を響かせて部長が着地した。  秘密だと、彼女は言った。その秘密の内容は、いつか教えてもらえるのだろうか──答えは知っているはずなのに、ふいに視界がぼやけた。  くるり。振り向いた部長は、歪んだ世界ではっきりそれと映るほど満面の笑顔を浮かべていた。先ほどまでなりを潜ませていたはずの可愛らしさが顔を覗かせる。とっさに、目をすがめた。 「ほら、早く行かないと焼肉が逃げるわよ。君のだけ」  どこかで聞いたことのある言葉に、僕はいよいよ泣きそうになった。
【3】 「好き、かもしれません。あなたのことが」  つぶやいた言葉は誰に聞き咎められることなく、閑散とした廊下に響いて消えた。  もう何度となく口にしたはずの台詞は、一向に言い慣れる様子がない。息を吸えば情けない音が洩れ、言葉にすれば途端に羞恥が襲ってくる。たとえそれが台詞の一部であろうと、そのたびに僕の胸は針で刺されたようにちくりと痛みだす。  ちらりと視線だけを背後に向けると、連絡橋へと通じる扉に消えていくくせ毛が、ほんのわずかに見えた気がした。すぐにでも追いかけたい衝動を抑え、再び国語科準備室へと足を運ぶ。  放課後、国語科準備室に古典の参考書を運ぶよう、担任に頼まれたのだ。係でも何でもない僕が一体なぜ、と問うと、暇そうだったからと、にべもなく答えられてしまった。僕も暇というわけではありません、部活動したり部活動したりしなければならないのです。そう言えば、やっぱり暇なんじゃないかと笑われたことが少し癪だった。  それもこれも星座占いが最下位だったせいだ、きっと。  普段は気にもしない占いに罪を押し着せ、前が見えないほど積まれた参考書の山を抱え直した。  四階の国語科準備室へと行くと、扉の前で青いジャージ姿の担任が腕を組んで仁王立ちしていた。貫禄と威圧溢れるその姿を見止めた僕の身体が、条件反射的に反転し来た道を辿っていく。 「お、少年」  もちろん、視力良好の担任が見逃すはずもなく。呼び止められ、渋々引き返した。  体育教師でもないのになぜ常にジャージを着用しているのか──相対するたびに浮かぶ疑問をため息と一緒に飲み込んだ。彼女の前でその疑問を口にしてはいけないというのが、この学校の暗黙の了解らしい。  何でも、昔のさばっていた不良集団を根絶させた際に押収したものだとか、彼女に憧れている女子生徒からの贈り物だとか、数えきれないほどの説が飛び交っているが、真実は定かではない。というより、本人に尋ねるのが怖くて定かにならないだけだったりする。  そんなこんなで遂には学内最強説がまことしやかに囁かれているこの人ほど、腕組みが似合う教師はいないだろうと、僕は常々思っている。 「遅いぞ、少年」  担任は僕を少年と呼ぶ。 「こんなに重いものを持って来させるからです。一人で辿りつけた僕をむしろ褒めてください」 「何だ、こんなことで音を上げるのか。最近の若者は軟弱だな」 「僕が軟弱なのではなく、先生が堅固すぎるだけです」 「あまり褒めるな。照れる」  頬を染めつつ片手で参考書の山を受け取る様は、何とも奇妙だった。  一見すれば清楚な女性に―ジャージ着用という点を除いてだが―見えなくもない担任が、かれこれ十年間彼氏なしというのも頷ける。 「そうやって独り言をつぶやく少年に彼女がいないのにもまた、頷ける」 「先生まで勝手に心を覗かないでください」 「むやみやたらと心を晒すなと私は言いたい」 「人間、開放的なのが一番ですから」 「あくまで開放さを主張するのであれば、私は少年をセクハラで訴えるしかないな」 「話がとんでもない方向へ飛躍しましたね」 「彼氏なしと言われれば、通報するしかないかと」 「思わないでください。理由が単純すぎます」 「妄想家の少年にはいい薬だと思ったんだが」 「ひどい言われ様だ」 「ところで。本当に妄想家なのか?」 「ノー」 「何だ、つまらん」  真面目な表情でさらりと言うものだから、果たして冗談なのか本気なのか判断がつかない。この担任のことだから、もちろん後者だろうが。  肩を落とすと、疲労が後からのしかかってきた。普段は冗談を言う側の人間が突っ込みに回ると余計に体力を消耗するという、いい例だ。  これ以上担任が何か言い出す前に話題を逸らそうと、机に置かれた参考書の山に視線を向ける。 「それにしても。いつ使うんですか、これ」 「ん。いつか」 「未定なんですか」 「予定とは常に未定なものなのだよ、少年」 「それじゃあ予定とは言えないですよ、先生」 「そんな些細なことは気にするな、男の子だろう」 「女の子でも気にすると思いますが」  そんな適当加減がまるで部長のようで、僕は何となく既視感を覚えた。  いつか使うわよ、いつか。そういえば部長も以前、同じようなことを言っていた。 *** 「部室を掃除しましょう」  部長はある日、思いつきをそのまま口にした。顔を窺いながら、それでいて断定口調で言うものだから、僕にはもはや提案というよりも決定事項にしか聞こえない。決定事項なら、部員である僕が反対できるわけもなく。 「はいはい」 「返事は一回」  怒られながらも、差しだされたほうきとちりとりを受け取った。  掃除好きの部長が何度かしていたらしいのだが、それでも本格的なものは久々なのだろう、クッションやロッカー周辺は、近付くだけでもわもわと埃が立った。埃アレルギーの僕には堪ったものじゃない。  くしゃみを連発し、涙を堪えながらも何とか掃除している僕に追い打ちをかけるように、たまたま開けたロッカーから紙の束が大量に降ってきた。 「ああ。それ、わたしが書いた台本よ」  紙の束、もとい台本の山に埋もれた僕を救出しながら、部長はこともなげにそう言った。膝の上に落ちてきた一つを手に取りめくってみれば、確かに手書きの台本であるようだった。茶色く変色した紙に、丸みを帯びた文字がずらりと並んでいる。  表紙に記されている掠れた題名を読み取るべく頭上にかざすと、きちんと製本されていなかったのか、紙が数枚降ってきた。 「これ全部、ですか」 「全部」  数十冊はあろうかという台本を、入部した当時の部長は一人で書いていたらしい。本人は書き終えて満足したのか、いつか使おうとロッカーにしまい、そのまま忘れてしまっていたようだ。  恥ずかしいから、と台本を奪おうとする部長から逃れ、一冊一冊丹念に読んでいく。ぴょんぴょんと跳ねる部長の指が、台本の端を掠める。  恋愛物からミステリー、果ては時代劇と様々だが、どれもハッピーエンドだということは共通していた。  ──わたしの辞書に『バッド』の三文字はないの  そんなことを部長が言っていた気がする。  その話の締めくくり方と、見慣れた文字のせいで、初めて読んだにも関わらず親近感が湧き。僕は知らず笑みをこぼしていた。 「い、いくら下手くそだからって、笑わなくたっていいじゃないの」 「いえ、そういう意味じゃなくて」 「じゃあ、どういう意味よ」 「何だか、部長らしいなと」  読んでいて、心があたたかくなります。  珍しく僕が正直な感想を伝えたからだろうか、ふくれっ面から一転、嬉しそうに顔を輝かせる。両手は腰に、そうでしょうとでも言いたげに胸を張る。親に褒められた幼子のようだと、僕はまた笑った。 「無い胸を張っても仕方ないですよ、部長」 「失礼な。少しくらいあるもの」 「見当たりません」 「どうやら君のその眼鏡は伊達だったようね」 「ちゃんと度は入ってますけど」 「末期だわ。救いようがないわ」 「部長の胸が」 「君の視力が、よ」  文句を言いつつも、彼女もつられて微笑みを一つ。先ほどまで僕が読んでいた台本を受け取り、懐かしそうに目を細め、めくっていく。  その日は確か、剣道部のかけ声が聞こえていたはずだ。威勢の良いそれと部長の鼻唄が妙に合っていたことを、なぜかはっきりと覚えている。  わたしね。鼻唄が終わってしばらく、頬杖を突いた部長は窓の外に視線を移した。まぶしさからか、わずかに目を細めている。その姿勢が、角度が、この教室に初めて足を踏み入れた時そのままのようで。  瞬きを、一つ。 「二つ上の先輩たちが、大好きだったの。一つ上の先輩がいなくて、わたしの学年も一人だけだったから、余計に可愛がってもらって」 「分かります。いじりがいがありますもんね、部長」 「いじられてたんじゃなくて、可愛がってもらってたの」 「そうなんですか」 「なんでそこで驚くのよ」  いじることと可愛がることの違いが僕にはよく分からないが、部長がいじられていなかったとは驚きだ。こんなに面白い反応をする人をいじらないなんて、人生の半分を損してますね、先輩方。そう言うと、部長は頬をふくらませた。そんなこと言うの、君だけだよ。そんなことはないと僕は思う。  ふふ、と。口元に手を当て、部長が微かに笑った。 「どうかされたんですか」 「ううん。先輩たちともよく、こんな感じに話してたなって」  満面の笑みを一つ、僕を見つめてくる。その嬉しそうな表情から、弾む声音から、本当に先輩方が大好きだったのであろうことが窺えた。残念ながらその人たちに会ったことはないが、思い出だけで部長を笑顔にできる先輩に少し、嫉妬した。  だからね。微笑んだまま、部長は続ける。 「後輩が入ってきたら、わたしもそんな先輩になろうって思ったの」  大好きになってもらえる先輩になろうって思ったの。  その言葉に、僕は小さく頷いた。窓の外を見つめている部長がそれに気付いたかは分からない。  部長の話によれば、部員不足のために、顧問から何度も廃部を持ちかけられていたらしい。次年度の入部希望者がいなければ廃部にしますと、そのたびに部長は答えていたようだ。 「そんな中で、君が入ってくれた」  すごくすごく、嬉しくて。  部長は笑う。僕が演劇部に入る予定ではなかったことも、入部理由が部長にあることも知らず、無邪気に笑う。  もし僕が入部していなければ。ふと、思いを馳せる。あの時、部室に迷い込んでいなければ。顧問の言うように、演劇部は廃部になっていたのだろうか。そうして部長でなくなってしまった彼女はどうしていたのだろうか、と。  挙げ連ねても仕方のないことだと分かってはいるが、どうしても僕は仮定してしまう。もし、もし、と。誰に尋ねることもできない問答を繰り返してしまう。もし、僕がもう少し早く部長と出会っていたのならば。もし、部長が── 「ねえ」  気付けば部長は、僕の顔を覗き込んでいた。頬にかかる髪から、あの香りがする。刺激された僕の胸の中のどこかがざわめく。やっぱり、慣れることはない。 「君はどうして、ここに入部してきてくれたの」  疑問が落ちる。小さな呼吸を一つ。 「僕は、」  言葉を継いだのと同時、下校のチャイムが鳴り響いた。どうやら耳には届いたらしく、微笑んだ部長は一言、そう、とだけつぶやいた。  その時のことをきっと、彼女は覚えていない。 *** 「少年」  ふいに呼び止められ、僕は床に置いていた鞄を肩にかけながら振り向いた。担任は相変わらず腕組みをしている。ただその表情が、豪快な性格に似合わず沈うつで。  前にもこんな顔を見た気がする。ふと、思い出した。 「部長の卒業と同時に、演劇部は廃部にする」  それでいいんだな。再三の問いに、迷うことなく首を縦に振った。  これは僕自身が望んだこと。部長の卒業後、演劇部を廃部にしてほしい、そう頼み込んだ際、元顧問である担任は眉をひそめた。それでいいのか。先ほどと同じように尋ねてきた気がする。そうして僕も同じように首を振ったのだ。部長のいない演劇部が存在する意味はないのだと。今も、その思いは変わっていない。  弱気だった顔が、苦笑に変わる。 「相変わらず献身的だな、少年は」 「ただの自己満足ですよ」  自分がしたいように、見たくないものから目を背けるままに。それを自己満足と言わずして、何と呼ぶのか。適当な名前を、僕はまだ知らない。 「そう自分を卑下するな」 「これが僕ですから」 「たまには尊大になってみてもいいんじゃないのか」 「先生のようにですか」 「物理的にもな」  僕の頭に手を置きながら、くつくつと可笑しそうに笑う。 「子供扱いしないでください」 「少年はまだ子供だろう」 「精神的には先生よりはるかに大人かと」 「すぐ背伸びをしたがる。典型的な子供の例だ」 「背伸びなんてしていません」 「物理的には、な」  担任と話していると、会話の主導権を握られているようでどうもやり辛い。  ため息を一つ、失礼しますと軽く会釈をし、きびすを返した。連絡橋のある二階を目指し、歩を進める。先ほどまで響いていた快活な笑い声が消える。  部長はもう部室にいるはずだ。いつものように一人きりで、窓際の席に座り頬杖を突いて、鼻唄まじりに台本をめくっているはずだ。  そんな僕の背中に、担任が声をかけてきた。 「無理だけはするなよ、少年」  ただ、一言。僕の中にずしりとのしかかったそれを、稚拙にも聞こえないふりをした。 そのはずなのに、階段までの道のりが異様に遠い気がしてならなかった。足がもつれかける。  無理などしていない、辛いことなど何もない。選択したのはすべて僕自身なのだ。何て見当違いなんだ、うちの担任は──  そうやってすべてを担任のせいにしてみても、後に残るのは虚しさだけだった。  ようやく階段に辿りついたころには、早足から駆け足へと変化していた。その勢いのまま、タイルの床を力いっぱい踏み込む。靴がきゅ、と一声上げる。両ひざをバネに、両腕を振り上げ、踊り場を目指して高く、高く飛んだ。  ひゅう、一瞬遅れて鼓膜に届く音。風を切る音か、それとも僕の呼吸音か。そのどちらかは判別がつかない。  宙に浮いたのも束の間、素直に重力に従った身体は急降下していく。  部長ならきっと難なく成功していたのだろう。しかし僕は、部長よりも助走をつけたにも関わらず着地に失敗してしまった。磨き上げられた床に足を取られ、見事に転ぶ。嫌な音を立ててひねった左足首をさすり、重い身体を起こした。占いが最下位だったからだ、きっとそのせいだと、性懲りもなく責任転嫁してしまう自分がいた。  ずきずきと鈍く痛む足首をかばいながら、一段ずつ階段を下りていく。  途中の踊り場で、女子生徒が壁に貼られた数枚のポスターをはがしていた。どうやら先月開催された文化祭のポスターのようで、僕は立ち止まってしばし彼女の作業を眺めていた。  講堂での催し物を紹介したそれらを順々に読んでいく。演舞に書道にラジオドラマにと、文化系クラブの演目がずらりと並び、最後に演劇のお知らせが貼られていた。  今年の文化祭に、演劇部は参加しなかった。密かに楽しみにしていたのだが、やはり二人だけでは無理があると元顧問である担任が判断したのだ。その代わりに、一昨年の演劇のビデオが流された。部長と、僕の二つ年上である先輩方が演じたものだ。  当時高校一年生だった部長は家政婦役を演じていた。残念ながら内容は忘れてしまったが、それもまた部長が書いた台本だった気がする。  ビデオの中の部長は輝いていた、そう一言で済ませてしまえば何とも陳腐な表現になってしまうが、しかしそれ以外に画面内の少女を形容できる言葉を、僕は持ち合わせていなかった。少女は、先輩たちが大好きなのだと語った部長と同じ表情をしていたのだから。今この時が幸せで仕方がないのだと、全身で表現していたのだから。  僕ではあんな表情をさせることはできない──痛いほど、思い知った。  結局、女子生徒がすべてのポスターをはがし終えるまで居座ってしまった。  ようやく僕に気付いた彼女が不審そうに見つめてきたので、足早にその場を後にする。部室に行かなくては、と本来の目的を思い出し、先ほどよりは痛みが引いてきた足を叱咤した。  連絡橋を渡り、一番奥に位置する教室を目指す。閉め忘れられた窓から、十月にしては肌寒い風が容赦なく吹き込んできていた。  随分と時間を食ってしまったが、部長はまだ部室にいるだろうか。部長のことだから、スナック菓子でも食べながら時間を忘れて猫のようにまったりと過ごしているかもしれない。何と言おうか、太りますよと率直に言うか、それとも、 「あら」  ──妖精が、いた。  窓際の席に座り、頬杖を突き、扉を開けたそのままの格好の僕を見つめ、目をみはっていた。  僕がここに迷い込んだあの日と同じ席に、同じ体勢で、妖精が僕を見ていた。それは時間が逆戻りしたのではないかと錯覚するほどあの日と酷似していて。過剰に反応した僕の身体は、その場に縫い止められてしまったかのように動きを止めた。八月で時が止まったカレンダーが、なぜか視界に止まった。  君は。数秒の間があり、ようやく彼女が発した言葉。静寂に溶け込んでしまうほど小さな、しかしはっきりと僕の耳朶に届く声音だった。一瞬の思案の後、彼女は立ち上がる。  もしかしてと、考えたくもない予感が脳を占拠する。しかしその予感が間違いなく外れてはいないことを、誰よりも僕自身が無意識のうちに自覚していた。  必死に言葉を探し当てても、上下の唇が離れようとしない。心臓が耳元までせり上がってくる。立っているのもやっとの状態のはずなのに、座り込むことさえ、今の僕にはままならない。  きゅ、と上履きがタイルの床を擦り、一足分先で彼女が立ち止まった。僕を見上げる彼女の目が、眠たそうに細められる。もしかして。あごに指を当て、彼女はつぶやく。  思い知ったのではない、最初から知っていたのだ。僕ではあんなに幸せそうな表情をさせることはできないのだと。 「入部希望者ね、君」  少しずつ、少しずつ、部長との関係が巻き戻されていく僕には不可能なのだと。
【4】 「今日はお一人なんですね。珍しく」  突然声をかけられ、我に返った僕は目の前にコップを置いた主を顧みた。よく足を運ぶお好み焼き屋で、やはりいつも注文を取りに来る女性店員だった。彼女は苦笑を浮かべ、どうされたんですか、と屈んで僕の顔を覗き込んでくる。長いポニーテールが、動きに合わせて左に落ちる。 「ええ。ちょっと」  ようやくそれだけを答え、運ばれてきたばかりの水を飲み干した。  ご注文を伺うのは、もう少し後の方がよろしいでしょうか。席に来た彼女の、最初の言葉はいつもそれだ。メニューとにらめっこしている部長を微笑ましく見つめる彼女は、まるで部長の本当の姉のようで。そんな二人を見て、僕もこっそりと微笑むのだ。  彼女が水を注ぐと、コップが再び満たされる。 「喧嘩でもされたんですか」 「そういうわけでは」  苦笑とともに否定して、ただ、と。続けるつもりはなかったのに、勝手に口走っていた。 「ただ。何でしょう」 「…ただ。もう、あの人と来ることは、ないかと」  言うはずも、その必要もなかったことを、仕舞いきれずにぽつりとこぼす。何でもないことのように笑ったつもりだったが、頬が引きつっているあたり、相当ひどい顔になっているのは自分でも分かった。  ことり。コップが目の前に返ってくる。揺れた水面が、いるはずのない対面を映した気がした。 「相席、よろしいでしょうか」  降ってきた言葉に顔を上げれば、店員が頭に巻いている白い三角巾を外しながら、にこりと笑いかけてきた。彼女が照明と重なり、まぶしさから僕は思わずまぶたを閉じる。 「お仕事は」 「もう終業時間ですので」  僕の返事を待たずに向かいの席に腰を下ろす。髪を解いた彼女はまるで別人のようで。部長のくせ毛では、彼女と同じほど伸ばしてもこんなにはまっすぐにならないだろうと、すとんと落ちたきれいな黒髪を見てふと思った。  注文を取りに来た男性店員が、呆れた表情で彼女を見つめる。ため息でもつきそうな勢いの彼に、両手を膝の上で揃えた彼女はふわりと笑いかけた。 「そば肉玉一枚」 「僕も同じものを」  注文を復唱した後、男性店員は奥へと下がっていった。  見渡してみれば、客は僕以外に数人のようだ。閑散とした店内には、お好み焼きの焼ける香ばしい音しかしていなかった。 「今日はかけなくていいんですか」  きょろきょろと周りを窺っている僕に、彼女が尋ねてくる。 「何を」 「ねぎ」  さも当然のように告げられた言葉に、首を傾げしばし黙考。行き着いた答えの代わりに、苦笑を返した。コップを手に、水を飲み干す。今日はどうものどが渇いて仕方がない。  そんな僕を、彼女は急かすこともせずじっと見つめてくる。  呼吸を、一つ。冷えたのどがひゅうと小さく声を上げた。 「…部長はとても、純粋な人なんです」  熱を持ったヘラが、僕の手の平をじりじりと焦がした。 *** 「──さて、少年よ。君にいくつか質問があるのだ」  それが、入部初日に初めて部長が口にした言葉だった。  机を挟んで向かい側に座った部長は片肘を突き、何やら珍妙な表情で窓の外を見つめていた。たとえるならそう、老年の刑事だろうか。横顔に夕陽を浴びながら、どこぞのドラマの刑事のように眉間にしわを寄せる。  よく分からない貫禄を無駄に放つ部長、もとい刑事もどきをただ見つめる僕をよそに、彼女は右手で作ったチョキを口元に当て、すぱーと息をはき出した。  ちらり。険しく、しかしどこか穏やかな視線を向けられる。状況についていけず呆然とする僕に気付いたのか、にはは、と途端に破顔した。まるで百面相をしているようだ、そう思いつつも、部長の笑顔に心が躍った自分がいたことは否定できない。 「なーんて、探偵の真似してみたりね」  いえ、取り調べをする刑事のようかと。とは言えるはずもなく。  さて誰でしょう、と司会者さながらに問題を出してくる彼女につられ、僕もクイズ番組の回答者のように、あごに手を当てしばし思案する。探偵と言われても、僕が知っている有名な探偵は一人しかいない。回答ボタンを押す真似をすると、部長がぴんぽーんとセルフ効果音をつけた。 「あの。もしかして、シャーロック・ホームズですか」 「ご名答、ワトソン君!」  よほど嬉しかったのか、ずいと顔を近付けてきた部長は僕をワトソンと呼んだ。喜びのあまり指をぱちんと鳴らそうとするも、失敗して指の擦れる音しかしなかった。 「みんななかなか分かってくれないのよね」  そりゃあ分からないだろう。どう見たって定年間近の刑事にしか見えないのだから。 「で、口を揃えるの。探偵じゃなくて刑事みたいだ、って」  指摘されていたなら改善すべきだと僕は思う。 「だから、君も分からないだろうなって思ってて」  それともポアロやデュパンの方が好みかしら。部長が悪戯っぽく微笑む。 「…僕も好きですから。ホームズ」 「やっぱり」  何がやっぱりなのか、同士を見つけたような反応の部長は、ふむふむと頷く。だって好きそうな顔してるもの、君。ホームズが好きそうな顔とは一体どういうものか、家で鏡を見ても、きっと部長にしか分からないのだろう。 「それで。質問とは」 「あ。そうだった」  自分から切り出しておきながらそのことをすっかり忘れていたのか、両手を鳴らし、そうねえと真新しい手帳を取り出す。可愛らしい部長にそぐわず、何ともシンプルな手帳だった。  仕切り直すように姿勢を正した部長は、背筋をぴんと伸ばし、僕を見据えてくる。 「じゃあ、第一問」 「質問のはずなのになぜ問題形式」 「君の血液型は、A、B、Cのどれでしょう」 「完全に選択記号と血液型が一緒くたになってますね」 「答え、C」 「新種の血液型すぎます」 「第二問」 「自分のボケを回収することなく次へ行きますか」 「それがわたしスタイルよ」  何て自由奔放な人なんだ。ふんすと胸を張る部長を前に、最初に抱いた印象がそれだった。大体合っていると、僕は思う。  白い手帳を開いた部長は、一ページ目に『血液型:C』と書き込む。だから違うと言っているというのに。もう突っ込むことにも疲れた。そんな僕の心情も知らず、次の質問は何にしようかと、シャーペンの背をこめかみに当て楽しそうに考えている部長。 「あとね。演歌、好き?」 「まあ、聞きはしますけど」  シャーペンを当てた姿勢のまま、ちらりと窺うような視線を向け、そう尋ねてきた。 「水戸黄門は」 「再放送日までチェック済みです」 「じゃあ、わたしと一緒ね」  答えを聞いた部長はぱあっと目を輝かせた。しかし直後に、神妙な面持ちでちょいちょいと手招きされる。促されるまま顔を近付ければ、彼女が耳元でささやいた。 「君とわたしは、実は年の離れた双子なのよ」  なんと。本人さえも知らない出生の事実を、まさか出会って間もない部長から明かされるとは思ってもいなかった。  と、そんなはずもなく。 「年が離れていたら双子ではないのでは」  至極まともな突っ込みを入れれば、部長はちっちっちと指を振る。ゆったりとした動作で腕を組み、したり顔で頷く。その姿が、小さい頃に夢中で読んでいたホームズその人と重なる。この演技の方が探偵っぽいではないかと思ったのは秘密だ。 「いわゆる、魂の双子なのだよ」  意味が分かりませんと一言で切り捨てようとも思ったが、小さな胸を精一杯張り、満足そうにふむと息をはき出す部長にそんなことが言えるはずもなく。 「たとえ魂だけであっても、双子にはなりたくありません」 「ひどい言われ様ね」  僕としては言葉をオブラートに包んで投げたつもりだったが、どうやら豪速球で突っ込んでしまったらしく、受け止めきれなかった部長は涙目で嘆いた。そもそもオブラートは早く溶けてしまうのだから、包んでも仕方なかったのかもしれない。  涙をこらえた部長がそっぽを向く。そんな彼女の機嫌を直すべく、僕は机に開いて置かれたままの手帳に視線を移した。沈みかけた太陽の光を受けて、わずかに発光しているようにも見えるそれに、僕はつと目をすがめる。 「その手帳、買ったばかりなんですか」 「そうよ」  書き込まれた文字を覗きながら尋ねると、部長は待ってましたとばかりに手帳を目の前にかざした。先ほど彼女が書いた文字の横の予定表も、手帳と同じく真っ白だった。 「これは、君専用の手帳なの」 「僕の」 「そう。君の」  自身を指差し首を傾げる僕に、にこりと笑いかけてきた。内緒だよと言いながらとっておきの秘密を打ち明ける子供のように、誇らしげに手帳を撫でる。  僕はただ、ゆるりと動く部長の手を追っていた。折れてしまいそうなほど細い指が、やがてぴたりと止まる。 「この手帳に、たくさん書くの。君のこと」  君の性格、君の言葉、君との日々、君に関連することは全部書くの。 「そうして、この手帳に君を、たくさん残すの」  子供みたいですね、と。捻くれた性格の僕なら必ず口にしていただろう言葉を、この時ばかりは思いつきもしなかった。  ただ素直に、純粋な人だと思った。澄んだ目で僕を見つめる彼女は、無邪気に笑う彼女は、なんてまっすぐなのだろうかと。そんなことを思っていた。 「とても、まっすぐな人ですね。部長は」  僕にしては珍しく、思いがそのまま言葉になった。独り言のつもりだったのだが、聞き咎めた部長は拍子抜けしたように黒目を丸め、ふふ、と気恥ずかしそうに少し頬を染める。そうして肩を竦めて僕に笑ってみせた。 「部長、だって」 「どうかしましたか」 「ううん、」  初めて呼んでくれたな、って。 「部長、って」  ほんとに後輩ができたんだね、わたし。つぶやいてまた、笑った。 *** 「いつも部長さんですよね、お会計」  きっと面白くも何もなかっただろう昔話を、口を挟むことなく聞き終えてくれた彼女が、鉄板の火力を調節しながら言った。その問いに、僕は一つ頷く。 『支払いは先輩に任せなさい!』  ぽんと自分の胸を叩きながら得意顔でそう言う部長の顔が浮かぶ。  お好み焼き屋に来ると、やたらと部長が会計を済ませたがっていた。もちろん後から僕の分の代金を渡しているので、先にまとめて払っているだけなのだが。 『無い胸を張っても仕方ないですよ、でしょう?』 『まだ何も言ってません。というか、自覚有りですか』 『ふふ、君の思っていることは、このポアロ部長がまるっとお見通しよ!』 『テレビに感化されすぎたポアロですね』 『時代の流れには逆らえないの』  やれやれとため息をついた部長が、じゃあ先に外に出ててねと僕を追い出すのがいつもの流れだ。邪魔者扱いされたようで、少し不満でもあった。 「邪魔者なんかじゃないですよ」  僕の心情を読んだかのように、女性店員は笑いながら言った。彼女が火力を調節してくれたおかげで、再びお好み焼きがあたたまり始める。湯気が立ち、僕の眼鏡を白く濁らせる。 「あなたまで読心術の心得があるとは思いませんでした」 「私も知りませんでした」 「まさか肯定されるとは」  口元に手を当ておしとやかに笑う彼女はきっと相当な狸なのだろう。  それで、と僕は続きを促す。原型を留めている僕のお好み焼きに対し、彼女のそれは半分以上が胃の中へと消えていってしまっていた。 「そう。支払いの時、いつも部長さんとお話しているんです」 「何の話でしょうか」 「いつも一緒にいる男の子の話を」 「いつも一緒にいる男の子」  分かっているくせに思わず聞き返すと、彼女はふわりと微笑む。そうして懐かしむように中空に視線を漂わせ、ふとまぶたを閉じた。 「気まぐれで皮肉屋で変人で。そのくせ何でも付き合ってくれる、ホームズが好きな子だって」  今日は彼とこんなことを話したとか、こんな演目をしただとか、楽しそうに。  まるで自分のことのように言うものだから、僕もつられて微笑んでしまった。 「誰ですかね、そのあまのじゃくは」  嬉しさとともに、小さな痛みが四方八方から襲ってくる。いつかのあまのじゃくが、今はとても妬ましく感じた。  お好み焼きを切り分ける。いつもは目に痛い緑が見えないことが、少し寂しい。  彼女も僕にならってヘラを持った。かちゃかちゃと、二人分のヘラの音が響く。彼女は決して先を促すようなこともせず、あくまで僕のペースに合わせているかのように思えた。  口を開けば、当たり前のようにひゅ、と鳴るのど。事実を拒むかのように、言葉がなかなか顔を出してこない。  息を一つ。 「…部長は、」  彼女の目に映るあまのじゃくが、泣くのを堪えているかのような表情をしてこちらを見ていた。 ***  初めは小さなずれだった。 「もうすぐ入学式ね」  感慨深くつぶやかれた部長の言葉に、僕ははてと首を傾げた。部長はというと、窓際の席に腰かけ、開け放した窓から見える遅咲きの桜を眺めていた。舞い込んでくる花弁を掴むかのように、時折右腕が揺れる。右腕を見つめる僕も、思わず揺れに合わせる。  黒板の横に掲示されたカレンダーに視線を移す。茶色くすすけた三月のカレンダーは、とうの昔にはがしてしまっている。代わりに、真新しい四月のそれが壁の一角を占領していた。  やれやれと首を振る。部長はたまに、素なのかボケなのか分からない発言をする時があるのだ。大体は前者なのだが、今回も例によって素なのだろう。 「もう痴呆が始まったんですか」 「誰が痴呆よ」 「日付を間違えるようになったら痴呆の始まりだと、どこかの誰かが」 「言ってないと思う」  きっぱりと断言するも、部長は僕の差し出した携帯電話の画面を見て、同様に首を傾げた。画面は、四月の半ばであることを示している。  ちなみに部長は、高校生にもなって携帯電話を持っていない。わたしは束縛されない人間なのよ、と声高に言っていたが、不便なことこの上ないのは本人も認めていた。 「四月、二十日」 「間違いなく」 「この携帯、壊れてるわね」 「通常機能中です」 「ふ、デジタルごときに騙されるわたしではないわ!」 「アナログな部長よりは信用できると思うのですが」  そう軽口を叩くものの、日付を間違えていたことをようやく認めたように、むう、と唸り声。腕を組み、無意識のうちに下唇を噛む。その癖を見るたびに、傷がつかないだろうかとひやひやするのだ。  そんな僕の心配をよそに、しばらく黙考した部長ははふう、と息をついた。 「じゃあ結局、新入部員は一人もいなかったってことね」 「そういうことです。部長だって、一緒に勧誘したじゃないですか」  入学式当日から、僕たちは勧誘を始めた。何しろ部員を一人でも増やさなければ、演劇部存続の危機なのだ。こういうことは苦手とする僕ですら、本気にならざるを得ない。ある時は一年生の教室に押しかけ、ある時は部長の容姿を前面に押し出してアピールしたりと、様々な手段を使ってきた。  が、結果として、部長と二人でいつも通りの漫才を繰り広げている有様だ。  恐らく僕が卒業すれば、演劇部は廃部となるだろう。だが、それでもよかった。部長と過ごすこの空間が、僕がこの学校からいなくなるまで存在していればそれでいいと、そう思っていた。部長には口が裂けても言えないことの一つでもある。  立ち上がった部長は、窓の桟にもたれるように身を乗り出す。 「ま、いいか」  僕よりも熱心に勧誘していたはずの部長は、こともなげにつぶやいた。 「部長らしくない言葉ですね」 「そうね」  だって、 「君がいるから」  君がいるから、寂しくないもの。  隣に立った僕に無邪気な笑顔を向け、そんなことを言う。僕なら赤面して数分迷った挙句、皮肉に変わりそうな言葉を、日常的な会話のように言ってのける。そんな部長が眩しくて、思わず視線を逸らした。 「やたらめったらそんなことを言わないでください。勘違いされますよ」 「勘違いって」 「先輩を付け狙ってる男が、その気になったり」 「君が、もしかしたら部長は僕のことが好きなんじゃないかと舞い上がったり」 「それしきで舞い上がる僕ではありません」 「そうね。人類が簡単に空を飛べたら、苦労はしないわ」 「物理的な方向へ飛躍させないでください」 「飛躍。『舞い上がる』だけに」  部長の発言に思わず閉口する。今わたし上手いこと言ったわ、とでも言いたげな目線を向けられることがこれほどうざったいと思ったことはなかった。それでなくても、いつもは言い負かされている僕を丸め込んだと思い、内心で大いに胸を張っていることだろう。丸め込まれたわけではなく、親父のような発想に呆れているだけだが。  くつくつとのどを鳴らして笑っている部長を横目に、僕はため息を一つ。 「ため息ついたら、幸せが逃げるわよ」 「逃げるほどの幸せを持っていません」 「あら、わたしといる時は幸せじゃないって言うの」  逃げちゃうわよ、と部長は意地悪く微笑む。どこからそんな自信が湧き出てくるのか、さも当然のことのように投げられた質問に、僕はこっそりと首を横に振った。  例えばそれは、空腹時に菓子を恵んでもらったような、冬の日に小さな陽だまりを見つけたような、そんな小さな幸せ。部室と呼ぶにはあまりにも寂れた教室と、窓際の席と、僕と部長。それだけで事足りる、幸せだった。  或いは彼女も同様に幸せだと感じてくれているなら、と僕は思う。たった二人だけの部員でも、僕といるだけでほんの少しでも幸せを感じてくれているなら、と。こればかりは、自惚れになってしまいそうだが。  お茶を淹れますね。部長の質問には答えず、教室の隅に置かれた給湯器に向かう。お茶好きの部長が、家から無断で持ち出してきたものだ。 「緑茶と麦茶、どちらがいいですか?」 「麦茶。あ、氷は」 「三つですね」 「分かってるじゃない」  彼女が満足そうに笑んだことが、声色から分かる。  確かに僕は、幸せを噛みしめていた。そうして自惚れてもいいのなら、恐らく部長も、幸せを実感していたはずだった。  だが、小さなずれは修正されることなく広がり始めてしまった。 「ん、なにこれ」  五月の初めのことだ。 部室に遅れてやって来た部長が、いつもの机の上に置かれた台本を手に取り、僕にかざした。 「何これ、と言われましても、台本としか答えようが」 「でも、こんな台本書いた覚えないわよ」  ぱらぱらと流し読みしながら、部長はなおも疑問符を浮かべる。  覚えがないと言われても、事実部長が書いたものなのだから、それ以上言い様がなかった。昨日その台本を書き終えた部長が、わたし頑張ったほんと頑張った、と自画自賛していたのは記憶に新しい。  そのことを伝えると、彼女は眉根を寄せた。思案しているような、怒っているような表情。 「昨日、書いたの。わたしが」 「褒めて褒めてと僕にすり寄ってきたじゃないですか」  もう忘れたんですかと、茶化すように言ってみるものの、部長は一向に笑う気配がない。それどころかますます眉間にしわを作り、腕を組み、下唇を噛む。  おもむろに、肩から提げていた鞄を開いた。取り出したのは見覚えのある白い手帳、部長がいつも携帯しているそれ。初めて目にした時よりも、僅かに黒ずんでいるようだ。  しばらくページをめくっていた部長の手が、ふと止まる。文字を追っているのだろうか、眠たげに細められた黒目が、ゆるりと辿っていく。そうして無言を貫いていた彼女が、顔を上げることなく唐突に疑問を口にした。 「昨日、お好み焼きを食べに行ったの。君と」  尋ねているようでもあり、自身に確認しているようでもあるその問いに、僕は首を縦に振って見せた。  わけが分からない。なぜ彼女がそんなことを確認するのか、なぜ確認する必要があるのかが。  部長は顔を上げない。去年よりも伸びたくせ毛が、重力に釣られて肩を滑った。 「…わたし、ね。今、三月だと思ってたの」  部長がぽつりとつぶやいた。 「今は、」 「五月、でしょう。手帳に書いてある」  手が、震えていた。泣いた後のように、声にビブラートがかかる。そんな状態のくせに、それとね、と彼女はなおも続けようとする。その手を、思わず掴んでいた。支えを失った手帳が床に落ち、小さく音を立てた。  続く言葉を、僕はきっと予測していたのかもしれない。だからこそ聞きたくなくて、事実を受け入れたくなくて、彼女の手首を捉えていたのかもしれない。  しかし彼女は、無情にも真実を告げた。いつもより二度高くなった声で、それでもはっきりと、僕の耳朶に届く声音で。 「昨日のこと、まったく覚えてないの」  どうやら彼女の脳は、記憶の上書きを拒んでしまったらしい。  どれだけ日数を経ようと、三月から進もうとしない記憶。塗り替えられることもなく、時間は進んでいく。一日が終わるたび、ストップウォッチは停止し、部室で出会う部長のそれは既にリセットされ、ゼロに戻っている。  そうして打ち止めされた脳は、とうとう保つことを諦めてしまった。  少しずつ、少しずつ、部長の記憶は失われていった。何とかすくい上げようと、拾い集めようとするのに、器にした両手の隙間から、ほろほろとこぼれ落ちていってしまう。それはどことなく、テープが巻き戻されていく感覚にも似ていて。  部長のテープが巻き戻されていくたび、僕は消えてしまった記憶たちの後処理をする。カレンダーを古いものに取り換え、記憶を綴った手帳のページを切り取り、部長と接する際は思い出話に触れず。  そうすることで、僕は何とか平静を保っていた。部長とともにテープを巻き戻している間は、平静を保っていようとした。日記を切り取れば、僕の記憶ごと切り取れる気がした。  それなのに、 *** 「部長はもう、僕のことさえ忘れてしまったんです」  お好み焼きをヘラで切り分ける。ヘラで触れた部分が熱され、じゅうと音を立てた。 『入部希望者ね、君』  数日前の部長の声が反響する。  この間までは去年の文化祭で保たれていた記憶が、突然去年の四月にまでジャンプしてしまったようだ。僕が入学した、その日に。日々猫のようにまったりと過ごしている彼女には珍しく、急ぎ足で過去へと遡ってしまったらしい。 「アムネジア」  すでに食べ終えた女性店員は、両手で包み込んだコップに視線を落としつぶやいた。コップの表面を流れていた水滴が、彼女の肌を伝っていく。 「部長さんとはどうなったんですか」 「何も。それ以降、部室に行っていませんから」  今まで毎日通っていたことが嘘のように、僕は部室へ行くことを止めた。止めてしまえば、校内で部長に会うことはなくなり、忘れ去られた事実を受け入れる必要もなくなった。 「…僕は、逃げているんです」 「そんなこと」 「あります。忘れられたという事実を受け入れたくなくて、信じたくなくて」  そうして逃げている理由をすべて部長に押し付けている、弱い自分からも逃げている。逃避場所を作ってくれた担任に責任を擦りつけた時のように。  そう言うと、しかし彼女はくすりと笑った。間違った答えを発表した生徒を諭す教師のように、いいえ、と首を振る。 「逃げていたら、ここには来ませんよ」  部長さんとの思い出が溢れている場所には来ませんよ。ふわり、微笑む。向き合うために、受け入れるために、ここに来たんでしょう。彼女はそう続けた。 「あなたは、どうしたいんですか」 「僕、ですか」 「そう、あなた。選択肢はたくさんあります」  このまま事実を受け入れることなく過ごすのか、部長さんのことを忘れるのか、それとも、 「選択しなくても、もう取るべき道は決まっているはずですし」  おそらくは答えを察しているであろう彼女は、思わせぶりな目配せをした。そんな、どこか手の平の上で弄ばれているような感覚に、思わず笑みがこみ上げてくる。  いつもと同じ席に、いつもより広い鉄板に、と部長の残り香を辿っていくうちに、いつの間にか取るべき道は決めていたのかもしれない。彼女の言う通り、確かに。  それに、と。頭に白い三角巾を着けた彼女は、口元に人差し指を持っていき、にっと悪戯に笑った。 「こうして、誰かに背中を押してほしかったんでしょう?」 「…本当に読心術の心得があるんじゃないですか」 「さあ、どうでしょう」 「狸でしょうか」 「いいえ、狐です」  こん、と狐の鳴き真似をしてみせた彼女が立ち上がったのと同時、最後の一口を頬張った。  やはりねぎがなければ物足りない。今度ここに来る時は、黄色のお好み焼きも引き連れなければいけないな、と。鉄板の半分以上を占領するお好み焼きを思い出しながら、湯気でくもった眼鏡を外した。ぼやけた鉄板の上に、お好み焼きはなかった。  レジに行くと、先ほどの女性店員が早くもスタンバイしていた。慣れた手つきでレジを打ち、差しだした代金を受け取る。 「思い出を記憶しているのは、何も脳だけではないですよ」  それがきっと、彼女が本当に伝えたかった言葉なのだろうと思った。頷く代わりに笑い返した僕は、お釣りを受け取り出口を目指す。 「ありがとうございました」  店員の声が背中を追いかけてきた。
【5】  ──好き、かもしれません。あなたが  聞き覚えのある台詞が耳に飛び込んできた気がした。扉に伸ばしていた手を思わず引っ込めてしまう。涼やかに、軽やかに紡がれた声を、僕の鼓膜が聞き逃すはずがなかった。  その声に背中を押された気がして。震える手を振り切るように、軋む音も構わず扉を開ける。  ここからちょうど一直線上、窓際の席に、少女は座っていた。よほど読書に没頭しているのか、扉が開いたことにも気付いていないようだ。  開け放されている窓から、野球部だかサッカー部だかのかけ声が風に乗って流れてきていた。  一歩、踏み出す。途端、覚えのあるあの匂いに包まれた気がした。僕には形容することのできない、部長の香り。息を吸い込むと、条件反射のように心臓が跳ねる。ひねられた蛇口から全身へと、淡い香りが伝わっていく。  頬杖をつき、横顔だけを覗かせた少女は瞬きを一つ落とす。ゆるりと上がった左腕が、指が、髪を耳にかける。やわらかそうな耳がほんのりと色付いている。そんな仕草の中でただ一つ違うことは、教室に響くページをめくる音のみ。  もう一歩踏み出してみた。上履きがタイルに擦れ、きゅ、と音を立てる。 そこでようやく僕の存在に気付いたのか、緩慢な動作で少女が振り向いた。僕を見止めた目が、猫のように細められる。  君は。数秒の間があり、ようやく彼女が発した言葉。静寂に溶け込んでしまうほど小さな、しかしはっきりと僕の耳朶に届く声音。窺うように、確認するように、そっと問いかけを含んだ単語。  いつもならばここで席を立ち、僕の方へ近付いてくるはずの少女は、しかし瞬きを一つ、二つ。ふわり、慈しむように笑んだ表情は、部長その人だった。 「君は、『君』だね」  そうして投げかけられた、確信にも似た問いに、僕は思わず首を傾げていた。 「…部長」 「部長って。呼んでくれる子がいるんだ」  そっかそっかと、部長は頷く。どうやら記憶を取り戻したわけではないらしい。僕の呼びかけに、部長は嬉しそうな、それでいてどこか辛そうな表情を浮かべた。  それではなぜ、とさらに首を傾ければ、机に置かれたそれを手に取り、かざすように振る。本だと思っていたものは、いつか隠した手帳とその切れ端だった。切り取ったはいいものの、捨ててしまうのも憚られ、結局部長が開けることのないだろうロッカーに隠したのだ。 「掃除でもしようかと思ってロッカー開けたら、これが」  この手帳に、僕のことをたくさん書くのだと、部長は言った。僕を残すのだと、彼女は言った。そんな僕で溢れた手帳は、部長が僕のことを忘れてしまった時点で役目を終えてしまっていたのだ。僕を忘れた彼女の元に、僕がいる必要はなくなっていた。  部長はふと、目を閉じる。 「この手帳に、たくさん書いてあったの。君のこと」  気まぐれで皮肉屋で変人で、人一倍わたしのことを想ってくれてる、あまのじゃくな子だって。 「君といると、すごくすごく毎日が楽しいって」  他人事のように言ってしまう部長がどこか寂しげで。入口で立ち止まったままの僕はただ、きつく手を握りしめることしかできなくて。  部長は昨日見た夢の話でもするように、僅かに微笑まで浮かべてみせて語り始める。  曰く、君と一緒に食べるお好み焼きが楽しみなの。  曰く、君と二人でいる部室が好きなの。  君と向かい合って座る窓際の席が好きなの、部活に来る君を待っている時間が好きなの──そんな風に。 「そこまで読んで、ね。すごく、わたしが羨ましくなっちゃった」 「それも全部、部長ですよ」 「ううん、わたしじゃない。そのわたしはもう、どこかへ行っちゃったもの」  いつの間にか窓の外を眺めていた部長が、ぽつりとこぼした。僕からは彼女の表情を窺い知ることができないが、それでも華奢な背中が小さく震えていることくらい分かった。  そんなことないです。僕はまた一歩踏み出し、もどかしい距離を詰めていく。一歩一歩近付いていくたび、部長がふるりと震える。 「部長はどこへも行ってませんよ」 「…違うの」 「僕の目の前にいる人は、確かに部長です」 「違うの」 「だから、」 「違うの!」  窓際の席に到達したと同時、部長が弾かれたように立ち上がった。ばっと振り返り、頭一つ分ほど下から見上げてくる目は、真っ赤に充血していた。僕に二の句を継がせようとせず、違うのと、そればかりを叫ぶ。  目尻からこぼれたしずくが、不健康なほど白い頬を伝った。 「だってわたし、君の名前だって知らないのよ!」  手帳の中のわたしはたくさんの君を知っているのに、ここにいるわたしは君の名前すら知らないのだと。君の言葉も、思い出も、存在も。何もかも知らないのだと訴える。  堰を切ったように溢れ出す言葉と涙を止める術を、僕はまだ持ち合わせていなかった。一人きりの教室で、忘れ去った記憶を辿る部長はどんな表情をしていたのか、それすらも推し量ることができない。  記憶が巻き戻されたことを知った部長がこうなることを、おそらく僕は知っていた。だから手帳を隠したはずなのに、どこかで発見して、思い出してくれることを期待していた僕もいて。  いつかのずるい自分が、心底憎かった。  まともに呼吸を整えることもせず、肩で息をしている部長は、やがて疲れたように窓ガラスに身を預ける。自嘲じみた笑みが、ガラスに映る。 「ごめんね。君は悪くないのに。悪いのは全部、わたしなのに」  痛々しいその姿に、そんなことはないという言葉があまりにも空虚なように思え、のど元まで出かかったそれを押し止めた。それに、僕が伝えるべき言葉はそれではない。  呼吸を、一つ。自然と笑みが浮かんだ。 「僕は、部長を覚えています」  僕の言葉に、部長は顔を上げた。見当違いな応答をどうにか理解しようとしているのか、ただただ僕を見つめ続けている。そっと下唇を噛む、その思案する時の癖も、僕の中の部長と寸分の違いもなくて。 「純粋で子供のような部長も、自由気ままな部長も、今目の前にいる部長だって、すべて」  すべて覚えているのだと繰り返す。  目を閉じてみれば、部長はいつだってそこにいた。小動物のように頬をふくらませる部長も、お好み焼きが食べたいとねだる部長も、ホームズ気取りの部長も。全部が全部、リセットされていたわけではなかった。僕が、彼女が、盲目になっていただけで、目の前の少女は部長でしかないのだ。  だから、と。先ほどはさえぎられた言葉の続きを口にする。 「僕が、教えてあげます。何度忘れようと」  何度も何度も、彼女が自分を見失うたび、教えるのだ。部長と、それから僕のことを。僕が覚えている限り、部長が見えている限り、何度も。それが僕の、選び取った道。  しばらく呆気に取られたような表情をしていた部長の口元が、ふいにほころぶ。また泣き出すのかと思ったが、予想に反して彼女はふふ、と声を上げた。 「思ってたより素直だね、君」 「何を言いますか。僕ほど素直で正直な人間はいません」 「嘘ついちゃって。日記には皮肉屋だって、書いてあったわよ」 「それこそ部長の皮肉ですよ」 「あら。皮肉屋さんだったのね、わたし」 「そうですね。主に僕の影響で」 「やっぱり君が原因なんじゃない」  顔を見合わせた後、二人してくすくすと笑い合う。いつも通りのやり取りが、心底嬉しいと感じた。  ふう、と息をついた部長の表情は、もう明るさを取り戻していた。切り替えの早さは相変わらずだと、内心嘆息する。それでこそ部長なのだが。  あのね、と。僕を見据えたまま、彼女は口を開く。 「窓際の席に座って、外を見てて。何かが足りないなって、思ったの」 「何か」 「そう。気まぐれで皮肉屋で変人で、ホームズが好きな誰かが、目の前にいないなって」 「誰ですかね、そのあまのじゃくは」 「さあ、誰かしらね」  わざととぼけてみせると、部長は意味深な目配せをしながら悪戯に微笑んだ。  窓ガラスから背を離した彼女は、窓際の席に腰を下ろす。それに同調するように、対面に置かれた椅子に座った。一年半ほど座ってきた椅子は、妙に身体に馴染んだ。 「そう、これ。これが足りなかったのよ」 「人をこれ呼ばわりですか」 「じゃあ、君」  真正面に座る部長がふふ、と笑う。吐息が鼻にかかり、くすぐったさから頬がゆるむ。そうしていつもの距離に自然、安堵する。  当たり前ですよ。僕はつぶやいた。 「無駄に一年半も部長と過ごしていたわけじゃないですから」  思い出を記憶しているのは何も脳だけではないのだと、誰かが言っていたことを思い出す。  たとえ脳が記憶を失くしていても、この教室の香りが、窓際の席が、僕と部長を思い出させる。覚えていなくても、視界が、鼓膜が、しっかりと記憶している。それだけで十分だった。  まいったなあ、と部長が照れくさそうに頭を掻く。頬が健康的な橙に染まっているのは、何も差し込んでくる夕日のせいだけではない気がした。 「好きになってしまったみたい、君のこと」  そうして目の前の彼女は、歌うように口にした。臆面なく、僕を見つめて。  今度は僕が呆気に取られる番だった。理解できずただ視線を合わせる僕に向かって、彼女はふわり、微笑む。  開け放したままの窓からは、依然どこかの運動部のかけ声が微かに届いてきていた。  部長は返答を期待している風でもなく、ただただ笑顔で。ようやく僕も笑い返した。口にすべき言葉は、すでに決まっている。あまのじゃくな自分が、今だけは素直に気持ちをはき出せる気がした。  君は。やがて部長がつぶやくと、瞬きを一つ、二つ。整ったまつげが、部長の目を一瞬だけ隠してしまう。その目を追いかけるように、僕も瞬きを一つ、二つ。一瞬だけ、彼女が視界から姿を消した。  明日になればまた、部長は忘れてしまうのだろう。僕のことも、手帳のことも。記憶を忘れたことすら忘れて、教室にやって来た僕に向かって、入部希望者なのかと問うのだろう。  それでもいいと、今なら思える。僕は何度でも、部長に伝えるのだから。台本に書かれた台詞ではなく、僕の本当の言葉を。  僕は。発した声はもう、掠れてなどいなかった。 「好きみたいです。部長のことが」 (きっと僕は何度でも、あなたに恋をする)
 たぶん高校生のころに書いてなにがしかに応募したオリジナル。  ちょっと頼りない女の子にため息つきつつも支える男の子の図がすき。  2014.9.15