たとえばそんな昼下がり。
がらりと。後方で勢いよく響いた音に、またかと痛み出した頭を抱えた。
「せーんせっ」
「帰りなさい」
「いま来たばっかりですけど!」
振り向かなくとも、弾んだ声で呼びかけられただけで誰だか想像がつく。おそらく彼はいつものようにうなだれ、向かいに置いてある丸椅子に座るのだ。そりゃないっすよ先生、などとつぶやきながら、机の上のシャーペンを勝手に取り、くるくると回すのもいつものこと。
「せっかく先生に会いに来たってのに」
「ここは病人が来る場所よ。元気なら教室に戻りなさい」
「じゃあ熱があるってことで一つ」
「家へ帰りなさい」
「最終手段!?」
じゃあ、などと言っている時点で、仮病だということは明らかだ。前々から思っていたが、この少年はバカなんじゃないだろうか。浮かんだ疑惑に全力で肯定を示した。そりゃそうだろうと。
せめて振り向いてくれてもいいじゃん。少年がふてくされたように言うものだから、仕方なく椅子を回転させた。
思った通り、いつもの少年が目の前に座っていた。目が合った途端、ぱあっと笑顔になる。犬の尻尾でもついていれば、ぶんぶん振っているに違いない。
少年が保健室へ通うようになったのはつい一か月前からだった。
何もない廊下で派手に転んだ少年がここへ運ばれた時、手当てをしてあげたのがきっかけらしい。彼いわく、傷口にどばどばと消毒液をかける鬼畜な姿に惚れたんすよ!とのこと。
本人を目の前にして鬼畜とは何という言い草だろうか。今度少年が怪我をした際は、傷口にばんそうこうの粘着部分を貼って、思いきりはがしてやろうと密かに思っている。
そんな経緯で、昼休憩になると必ず少年はやって来る。保健室の常連である数人の先生は、私たちは応援してるからね、などと口々に言いながら、この時間になるとそろって退室していく。ありがた迷惑もいいところだ。ありがたさの欠片もないから、この言葉は不適当だけれど。
先生たちに怨念をぶつけまくっている心情など露知らず、少年はへへへと口元をだらしなく緩めて笑う。
「風邪引いてるのは本当っすけどね。若干」
「うそ。いつも何かしらのウイルスを振りまいてるくせに、これ以上何の病原菌を持ち込んでくるつもりよ」
「ひどい言い草だ! てか、いつもは持ってないっすよ!」
「少年の存在自体が病原体だから」
「新事実だ!」
自身の存在を初めて知った少年は、頭を抱えてうずくまった。そんな彼を少しだけ哀れに思いつつ、感染しないようマスクをかけ…ようとしたら、少年に全力で止められてしまった。オレ本気で傷つくから、と涙目で言われてしまっては仕方がない。
ようやく顔を上げた少年は、先ほどのうざったいくらいの元気はどこへやら、しょんぼりと肩を落としてしまっていた。
「うう…。先生は、オレのこと好きじゃないんすか?」
突然何だ。
「そうね、少年が人類なら好きだったんだけど」
「オレは人類じゃないと」
「人類なの?」
「聞かないで!」
「安心しなさい。あと二百年も経てば、少年も晴れて人類の仲間入りよ」
「何を安心しろと!? オレそれまで生きてないし! オレじゃなくても生きてないし!」
「二百年も生きられないなんて…やわな生命体ね」
「あんたは何者だよ!」
「人類」
「人類すげえ!!」
やっぱ人類じゃなくていいです、オレ。諦めがついたのか、少年はあからさまにため息をついて言った。ため息をつきたいのはこっちだ。本当に、少年の相手をすると肩がこる。
とは言っても、笑ったり泣いたり落ち込んだりと一人百面相をしてのける少年が嫌いではなかった。見ていて飽きないし、疲れはするが会話が楽しくないこともない。
などと言おうものなら、少年が聞き逃すはずもない。もう、先生ってばツンデレっすねえ、と気持ち悪い言葉をはきながら、途端に元気になることだろう。だから言うつもりはない。
「…気持ち悪」
「何に対して!?」
少年がまた落ち込んでしまった。むう、落ち込みっぱなしなのもつまらない。
「そんなに落ち込まないで。お葬式には行ってあげるから」
「どういう展開!?」
「夕方の教室。一人で待つ少年の元に、二人の女性がやって来る」
「急な語り部口調!」
「一人は少年と同級生の女生徒。そしてもう一人は、学校一の美女であり生徒から絶大な支持を受けているこの私こと養護教諭」
「美女って自分で言いやがった!」
「『あなた、二股かけてたのね!』女生徒が興奮気味にわめく。しかし彼女は誤解していた。養護教諭は、少年に対して何の感情も抱いていなかったのだ」
「悲しい事実!」
「だが興奮状態の女生徒に言葉が届くはずもなく。どこからともなくナイフを取り出した少女は、奇声を上げながら養護教諭に襲いかかってきた」
「女生徒こわっ!」
「養護教諭は少年を盾にして攻撃をかわす。そんな少年の亡骸を踏みつけ、少女を抱きしめた」
「え、オレ死んだの!? てか死亡原因先生じゃん!」
「『あなたは何も悪くない。悪いのは全部、この男』そして分かり合う二人。ハッピーエンド」
「全然ハッピーじゃねえ! オレ無駄死にじゃないっすか!」
「そうね」
「認めた!」
元気づけようと頭をひねって考えたストーリーなのに、少年はしくしくと泣き始めてしまった。なぜ。
ふと。少年の薬指の小さな傷に、ふと目が留まった。
「少年、これ」
「ん、ああ。シャーペン刺さっちゃって」
「手。貸しなさい」
いいっすよこれくらい、と変に遠慮しようとする少年の手を無理やり取り、消毒液を噴きかける。こんな傷でも、放っておいたら緑に化膿して、目も当てられなくなるのだ。気持ち悪いので、想像するのをやめた。
ふと顔を上げれば、少年が少々照れくさそうに頬を染め、ぽりぽりと頭を掻いていた。
「どうしたの。トイレにでも行きたいの?」
「なぜ! …じゃなくて、その」
「何」
「なんか、優しいっすね」
少年にしては珍しく、はにかむように笑う。何言ってんすかね、オレ。自分でツッコミを入れながら、へへ、と笑う。
「…今頃気付いたの」
「ん、照れてんすか、先生。いわゆるツンデレってやつ?」
「ツンデレなんて、そんなことあるわけないじゃない」
「うわー素晴らしく棒読みなツンデレだあ」
「少年が怪我してると放っておけないとか、そんなこと思ってないからね」
「ちょ、無表情で消毒液ふりかけないで! むしろ放っておいて!」
「はい、完了」
叫ぶ少年をよそに、ふいと顔をそらし、ばんそうこうを巻きつけた。本当は思いきりはがしてやろうと思っていたけれど、やめた。また次の機会にしよう。
「あの、」
歯切れ悪く、少年が言う。視線を上げると、意外と近かった少年と目が合う。今まで何度も顔を合わせてきたが、こんなに至近距離で見つめ合ったのは初めてかもしれないと、ふと思う。
少年はぐ、とこぶしを握り。小さく息を吸い込み。意を決したように目を見つめ、オレは、とつぶやく。
「オレは、先生のこと、」
タイミング悪く鳴り響くチャイム。どうやら昼休憩が終わってしまったようだ。
「うわ、やべっ! 移動教室じゃん!」
我に返った少年は鞄を背負い、あたふたと立ち上がる。がらりと扉を開け、それから何かを思い出したように、くるりと振り向いた。浮かべたのはいつもの元気な笑顔。
「じゃ、また明日も来るっす!」
元気に宣言をして、来た時と同じように勢いよく駆けて行った。
保健室に一人取り残されると、昼休憩前と同じ静寂が戻ってくる。その無音がどこか、居心地悪かった。
「…もう、来なくていいわよ」
つぶやきつつも、自然とゆるむ頬は隠しきれない。
明日またやって来た少年から、果たして先ほどの言葉の続きが聞けるのだろうか。密かに楽しみに思いながら、再び雑務に戻った。
(嫌いじゃないわよ、もちろん生徒、として)
随分昔に書いたやつ。
不憫系男子生徒と養護教諭の関係がすき。
2014.9.22