夜半の淡碧

 少し低めのヒールが床を乱暴に打ち鳴らし、高い天井に反響する。夜中の旅館にその音は何とも不釣り合いで、彼女は思わず顔をしかめた。  静かに歩くよう努めるものの、急ぐ足はどうしても抑えることができず。  諦めのため息を一つ。ようやく一階に辿りつき、シャッターが下りた土産屋の前を早足で通り過ぎた。 「ったく。何で私が江古田のお酌なんかしなきゃいけないのよ」  ぶつぶつと呟くのは先ほどのこと。  夜中の巡回までの間、教師たちは修学旅行最後の晩ということもあり、一室に集まり宴会じみたことをしていた。もちろんそれ自体に文句は無いし、酒が飲めるのなら何でもよかった。  だが、一癖も二癖もある教師陣と静かに杯を交わせるはずもなく。古文の江古田にはやれ酌をしろだの、倫理の叶には女性的な部分で嫌味を言われたりと散々だった。終いには、そんな性格だから結婚相手が見つからないのだとプライベートにまでケチをつけられる始末。  鳥海は、お前だって結婚してねえだろと反論したいのをぐっと堪え、どうにか理由をつけて逃げ出してきたのだ。  思い出したら沸々と怒りが湧いてくる。  そんな頭を少しでも冷やそうと、彼女は旅館の扉を開けて外に出た。 「あら、先客」  と、近くの石垣に座り込んでいる少年に気付き、小さく声を上げる。どこかで見た覚えのあるそれは、夜闇に溶けるような青だった。 「え。と、鳥海先生!」  声が届いたのだろうか、それまで中空を眺めていた青が振り向き、同じく青みがかった目が彼女を捉え、丸みを帯びる。  思った通り、彼は鳥海が担任を務めるクラスの生徒だった。一見すれば制服姿のようだが、よく見れば浴衣の上から上着を羽織っているだけのようだ。 「すみません、あの、」  いつも対して表情が変わらない彼にしては珍しく焦っているようで、立ち上がり必死に弁明しようとしている。その様子が何故だかおかしく、彼女は思わずくすりと笑いを洩らした。 「いいわよ。今日は特別」 「…え?」 「生憎と私、いま怒る気力無いの」  うーんと伸びを一つ、彼から少し離れた場所に腰を下ろす。夜半の風は火照った頬に心地よく、もう冬なのかと過ぎ行く季節をおぼろげに実感した。  しばらく呆気に取られていた彼だったが、やがて苦笑を浮かべ再び石段に座る。 「で。貴方は何でここにいるの」 「理由、ですか」 「咎めるつもりはないけど。一応よ、一応」 「同じ部屋のヤツのイビキがうるさくて」 「ああ、伊織ね。確かにうるさそうだわ」 「綾時だとは思わないんですか」 「あんな美形の子がイビキなんてかくわけないじゃない」 「それもそうですね」  さも当然のように放った言葉に、二人してくすくすと笑う。  それで、と続けた彼は、横目でちらりとこちらを伺いつつ尋ねてきた。 「先生は何故ここへ」 「…ちょっと、ね」 「また江古田先生ですか」 「正解。…って、また?」  微笑み、しかし当てられたことに疑問が浮かぶ。隣を見れば、思いっきり目を逸らされてしまった。教室でも愚痴を吐いていたのだろうか、と記憶を辿れば、思い当たることばかりで少し気が滅入る。  はあ、とため息をつき。頭を押さえた鳥海は肩を落とした。 「僕でよければ聞きますよ」  愚痴、と。かけられた言葉に視線を移せば、真正面から顔を捉えにこりと笑う。初めて見たはずのその表情に、何故か懐かしさを覚えたのは気のせいだろうか。  ──どこで見たのかしら  口を僅かに開き、閉じ。もう一つため息。首を傾げる彼の額にデコピンを一発当てた。 「私にそんなこと言うなんて、十年早いのよ」  口ではそう言うものの、彼の心遣いは嬉しかった。だが、ここで吐き出してしまったら、また以前の──毎日を怠惰に過ごしていた自分に戻ってしまうようで。  自分への戒めと、それから少しの照れ隠しも含めて、軽いデコピンをもう一発。 「はい。じゃあ、十年後にまた聞きますよ」  特に気分を害した様子もなく、素直に頷き夜空を見上げる。月光を浴びた横顔に影が落ちる。  不思議な子、と改めて思う。  不思議と簡単な言葉でまとめるにはあまりにも謎が多いが、しかしそれが一番しっくりくるようで。  淡く光を放つ青を、彼女はしばし魅入られたように見つめていた。 「じゃあ、そろそろ部屋に戻ります。他の先生に見つかるとマズいですし」 「そう。もしまだ伊織がうるさかったら、鼻でもつまんでやりなさい」 「分かりました」  苦笑した彼は立ち上がり、未だ煌々と灯りがともった旅館へと足を向ける。その背に向かって、鳥海はもう一度声をかけた。 「その、」 「何ですか」 「あの、…ありがとう」  珍しく素直に出た言葉に、振り向いた彼は首を傾げる。  前髪が揺れ、普段は隠れているはずの青が覗く。やっぱり青いのね、と当然のことを小さく口にしていた。 「僕は何もしてませんよ」 「それもそうね」  それでも、言っておきたかったの 「何故かは分からないけど」  その言葉に応えることはなく。一つ笑みを浮かべた彼は、踵を返し再び歩き出す。  静かに戻っていった彼を見送り、よし、と一声。立ち上がり、同様に旅館へ向かう。 「さて、と。見回りに行ってきますか」  何故だか数十分前より幾分軽くなった足取りに合わせ、小さく鼻唄を口ずさんでみる。  静かな旅館内に響いたそれは耳に心地よく、彼女は一人微笑んでいた。 (それにしても十年は長すぎるわね)
 鳥海先生がすき。  2011.4.9