月下桜花

「先輩、もういいですよ」 「っ…。これは、」  閉じていた瞼を上げたのと同時、目に飛び込んできた淡い桃色にそれ以上言葉が浮かんでこず、代わりに感嘆の息を洩らした。  ***  影時間が明けて少し経ったころだろうか。  自室で一人本を読み耽っていた美鶴だったが、こんこんと控えめに鳴らされた音でつと顔を上げた。ソファから立ち上がると部屋を横断し、訝しみながらも扉を開ける。 「すみません、こんな夜中に」  申し訳なさそうに頭を下げた青を捉えてすぐ、ああ彼かと記憶していた色と合致する。 「あの。いま、大丈夫ですか?」 「ああ。急用なのか」 「ええと、そんな感じです」  適当に濁された言葉に僅かに眉をひそめる。そんな感じとは一体どんな感じなんだ。  しかし彼はさほど気にした様子もなく。それなら、と一言。窺うように、慎重に言葉を選んで尋ねてきた。 「外。出ませんか。先輩に見せたいものがあるんです」 「こんな時間にか」 「こんな時間じゃないと駄目なんです」  彼にしては珍しく─と言っては失礼かもしれないが─僅かに詰め寄り、確固たる意志を持ってそう断言した。そこまで言われれば、行かないわけにもいかず。  ちらと時計を確認し、一つ息をつく。 「そこまで君が言うんだ。見せてもらおうか」 「ありがとうございます」  笑んだ彼の顔を、初めて見る気がした。  弾んでいるようにも見えた足が止まったのは裏口の扉の前だった。  三歩ほど前を歩いていた彼がくるりと振り向き、あの、と口を開く。 「少しの間だけ、閉じていてもらえませんか。目」  どうせなら驚かせたいので。  何故だと問うような無粋な真似はせず、素直に瞼を閉じる。途端、目の前に闇が広がった。  これでは前に進めないな──喉元まで到達した言葉は、しかしそろりと手首に触れた温度に反応して解けていく。 「前に進めないかと思って。…すみません、勝手に」 「いや、いい」  離れかけた手を呼び戻すように首を横に振る。  彼は安堵の吐息を一つ。そろりと戻ってきた体温は、まだ僅かにぬくもりが残っている手首を通過し、冷えた指先に辿りついて、止まった。  瞼を閉じた今、世界とのつながりを感じさせるのは、そのぬくもり一つ。まだ躊躇しているのか、少しばかり震えているそれはひどく頼りなく、同時にひどく力強くもあり。胸に内に広がり始めたものを感じ、心地良さから息をついた。  あたたかいとはつまりこういう感じなのだろう。どういう感じなのかはうまく答えられないけれど。 「すみません。僕じゃ頼りないですね」 「大丈夫だ」  今日の君は謝ってばかりだな。そう言うと、かすかに笑う気配がした。  がちゃりと重苦しい音が響き、ついでぎいと小さな音が聞こえる。めったに使われることのないこの扉はへそを曲げているのか、何度も小さな音を立てては夜のラウンジに消えていく。  急に音が止み、指先をゆるく握っていた手が控えめに引っ張ってきた。促されるまま歩を進める。  外に出たのだろう、五月とはいえまだ少しだけ肌寒い風が頬を撫で、去っていく。まだ季節ではないだろうに、虫たちは急いでいるかのように鳴いては夜闇の中へと混ざっていった。  数歩ほど足を進めたところで、ゆっくりと進行が止まる。  もういいですよと。耳元で囁かれたのかと錯覚するほど近くで聴こえた声を合図に、まだ閉じていたいと重力に従う瞼を押し上げた。  そうして眼前に広がる、鮮やかな桃色。  *** 「これは、…桜か」 「はい」  ようやく探し当てた名は、ついこの間まではそこかしこで見られた花のものだった。  笑んだ少年は頷きを一つ、桜に近付き、恐らく相当長いであろう樹齢を感じさせる太い幹に触れる。 「随分と遅咲きな桜だな」 「ええ。こいつだけ出遅れたみたいで」 「しかし、こんなところで咲いているとは知らなかった」 「僕もこの前見つけたんです」  一番最初に先輩に見せたくて。 「何故、私に」  彼と同様に幹に触れつつ、首を傾げ尋ねてみる。  寮内には岳羽や伊織、それから真田もいるだろうに、何故いの一番に自分を連れて来たのか──言外の意図を汲んだのか、だって、と一言。瞼が下り、どこか響く声だけが、彼の存在を示すものだった。 「今日は、特別な日ですから」 「今日…五月八日が、か」 「五月八日が、です」 「…何かあっただろうか。これといって何かあるわけでは、」  そうは言ったが、一つだけ。ただ一つだけ、可能性があった。つい先ほどまで彼女自身も忘れていた、その日の存在。 「誕生日でしょう。先輩の」  ああやはりそうかと納得する美鶴の前で、少年はにこりと彼なりの笑みを向ける。 「お誕生日、おめでとうございます」 「…ありがとう」  素直に言葉が出るのと同時、彼に釣られて頬がゆるむ。自然と浮かんだそれはやはり、嬉しさから。  ──今日はいい日になりそうだ  何故かそう確信し、彼女は再び桜を振り仰いだ。遅咲きの桜花が、風に吹かれてゆらゆらと花弁を揺らした。 (こんな素敵な贈り物ははじめてだよ)
 美鶴先輩のお誕生日でした。  2011.5.9