狡獪の君

 手が、触れた。  髪の間に静かに潜り込み、直接頭を撫でてくる。愛おしむように、優しく、ゆっくりと。  ゆるり、僅かに力をこめられ、離れていた距離が一気に縮まる。やがてぼふりと顔が軟着陸した位置は彼の胸元だった。  大きく吸いこんで、息を止めた。鼻孔に、肺に、身体に、彼の匂いが染み渡る。やさしくて大好きな、彼の匂い。私は彼に抱きとめられているのだとようやく実感する。 「先輩、先輩」 「ん。何だ」  耳元で囁かれた言葉が甘く響く。  夢見心地のまま応えれば、彼がくすりと微笑んだ気がした。何だか眠そうですね、声にまで笑みがにじんでいるようで。  この場所があまりにも居心地よくてな。そう返せば、光栄ですと一言。  私を受け止める胸が好きだ。  私を抱きとめる大きな腕も好きだ、私の髪をもてあそぶ繊細な指も好きだ、私の視線を縫いとめて離さない目も好きだ、私に微笑みをくれる顔も好きだ──ゆるりと侵食してくる睡魔に任せ、ここが好きだあそこも好きだと、幼子のように繰り返す。  好きな箇所を言いつくしふいと顔を上げれば、照れてこそいるが、しかしなぜだか不満げな表情をにじませ私を見つめていた。 「どうした。不満そうだが」 「別に不満ってわけじゃないですけど。いろんなところを好きだって言われて正直、やばい先輩可愛すぎる今すぐ結婚したいむしろさせてくださいって思ってるところですけど」 「早急だな」 「可愛さって、罪ですよね」 「しみじみと言われても」  さらりと可愛いなどと言われ、火照る頬を隠すためにそっぽを向く。  そんな私に、でも、と彼は言葉を続けた。 「僕はまだ、好きだと言われていません」  僕自身をまだ、好きだと言われていません。  意味を図りかねて、ちらりと視線だけを向ければ、幾分真剣な表情でなおもこちらを見つめ続けていた。  ああ、そうか。ようやく理解した。胸が、腕が、指が、目が、顔が。彼のあらゆる部位が好きだと言ったが、彼自身のことを好きだとは言っていない──彼はそう言っているのだ。  くすり。思わず笑ってしまっていた。 「…笑わないでくださいよ。結構真剣なんですから、僕」 「ああ、すまない。何だか珍しく、君が幼子のように思えてな」  だが、そんな君が好きだ。  むっと眉をしかめ反論してこようとした彼に、何気ない風にそうこぼした。普段なら赤面物の言葉が、なぜだか今はすらりと口から飛び出していた。  ぽかんと口を開けたまま、彼が停止した。そんな彼の頬に、素早く口づけを落とす。口がさらに開いた。  ──さすがにこれは恥ずかしい  自身の行動に我知らず赤面し、これもすべて睡魔のせいだと、とっくの昔に過ぎ去ったそれに罪をなすりつけてみた。 「お、おいっ」 「はいっ」  明後日の方に顔を向け、彼に呼びかける。思っていた以上に大きかった声は、さまよっていた彼の意識を取り戻すには十分だったようだ。  瞬きを一つ。返事をした彼をじとりと横目で睥睨する。 「わ、私はまだ、言われていないが」 「何をですか」 「す、すすす好きだと、言われていない。君に」  先ほどまで幾度となく口にした言葉が拗ねてしまったかのように、すんなりと出てこなくなってしまった。  そんな私の様子を見て、彼は苦笑した。なぜだかひどく、寂しげに見えた。 「…言えません、よ」  意外な応えに思わず真正面から顔を見合わせる。彼は笑う、笑う。  たまに言った方が、嬉しさが倍増しますし。彼は笑う、先ほどの寂しさなど微塵も見せず、笑う。  どういうことだ、それは──そう尋ねようとして、  気付けば、見慣れた天井があった。 「…夢、か」  それは過去の記憶。彼と過ごした、つい最近の出来事。  結局彼は、私に『好きだ』とは言わなかった。こちらに言わせるだけ言わせて、自分はそれに見合う言葉を返してこなかった。私の中に自分の残像を留めさせ、そうして、いなくなった。 「…本当に、」 (ずるいやつだ、君は)
 未練が残らないようにと、優しい君が最後にだけ、ずるくなった。  2011.11.13