はんぶんもことばにならなくて
今日。今日こそ、言わなければならない。
一階へと続く階段の踊り場で彼女の姿を見止めた少年は、ぐ、とこぶしを握りしめ、心の中で固く決心する。
一段、踏み出す。階下の彼女はといえば、少し高い位置にある窓を開けようと背伸びをしている。細く白い足首が、薄水色のロングスカートから覗く。
ぷるぷると危なっかしげに伸ばされた手が、ようやくクレセント錠を捉える。かちり。軽い音とともに鍵が開けられ、その勢いのまま扉を開け放つ。その時の彼女の表情といったら、大そうな仕事でもやり終えたかのような、清々しい笑顔を浮かべていた。
そんな素直な彼女にしばし見惚れ。しかしぶるぶると頭を振り、少年は再び目的を思い出す。
今日こそ彼女に、自身の想いを伝えなければならない──少年がそう決心したのは、つい昨晩のことだった。
「風花さんは、彼氏…とか、いないんですか」
きっかけは何だっただろうか、ゆかりちゃんとよく恋のお話してるの、へえそうなんですか、そんな流れだった気がする。
とにもかくにも、そろそろと少年が尋ねれば、瞬間音を立てて彼女の頬から蒸気が上がった。
「かか、彼氏、なんていないよ、わたしにはっ」
「あ、すみません、変なこと聞いて!」
勢い込んで否定されたものだから、同様に頬を染めた少年も慌てて返した。
両頬に手を添えそっぽを向いた風花は、恥ずかしそうにぼそぼそとつぶやく。
「だって…わたしは、ゆかりちゃんみたいにかわいいわけでも、なにか取り柄があるわけでも、ないから」
なに話してるんだろうね、わたし。
はにかんだ彼女は、少年が返答に困っている間にそそくさと立ち上がり、そのまま自室へと引っ込んでしまった。
この気持ちを伝えたら、と。一人きりになってしまったラウンジで少年は考える。彼女がいかに素晴らしい女性か伝えれば、もっと自信を持ってもらえるのではないか。
そうして少しばかりでも自分のことを想ってくれるのではないか、そんな小さな下心も芽生えて。
満足げに微笑んでいる階下の彼女を見て、決意は固まった。
リビングに向かおうとする背中を追いかけ、階段を一つ飛ばしで駆け下りる。
「風花さん!」
「あれ、天田くん。どうしたの、そんなに急いで」
「ぼ、僕。そのっ」
昨晩も、さっきだって。あれほど大それた決意をしたはずなのに、声が震えてしまう。目の前に彼女がいるだけで、視線も合わすことができず、ただただ、不明瞭な言葉を繰り返してしまう。
そんな少年の様子に、彼女は不安そうに顔を覗き込んでくる。
──ええい、がんばれ僕!
「風花さんが、す、好きですっ!」
飛び出した言葉の大きさに、風花だけでなく少年も驚く。ぽかんと口を開け目を丸めた彼女の表情は、きっと少年をそのまま映しているのだろう。しかしここで引くわけにはいかない。まだ、伝えたいことがあるのだから。
首に力をこめ、顔を上げる。先ほどまで薄水色が占めていた視界に、彼女だけが映る。
「風花さんはやさしいし、いつも自分より人を優先するし、機械に詳しいって、聞きましたし」
それに、
「それに。どんな風花さんでも、僕は好き、です」
だから、かわいくないとか取り柄がないとか、言わないでください。
言い終えて、少年は大きく息をつく。まだすべてを伝えきれてはいないけれど、今はまだこれだけで十分だった。
動きを止めてしまっていた風花は、しばらくしてわずかに微笑んだ。
「もしかして、気にしてくれてたの。昨日のこと」
ごめんね、と。叱られた犬のように、眉を下げて彼女は言う。
「あ、僕は別に、そんな」
「でもね。すごく、うれしい。そんなこと言われちゃったら、自惚れちゃうよ、わたし」
「自惚れても、いいんですよ。風花さんは十分、魅力的です」
「ふふ、ありがと」
気恥ずかしそうに頬を染めた彼女は、口元に手を当てくすくすと笑う。釣られて、へへ、と少年も年相応な笑みをこぼす。
本気にされなかった、受け取ってもらえなかった。そんなことは、子供の少年でも分かることだ。それでも。それでも、気持ちを伝えられぬままもやもやと日々を過ごすよりは幾分良い気がする。
卑怯な下心など、とっくの昔に消えていた。
「あ。そろそろコロちゃんのお散歩の時間だ」
「僕も行きたいです」
「じゃあ、一緒に行こうか」
微笑んだ彼女はくるりと背を向け、階段を下っていく。そんな背中を追いかけている少年に、ふと、思い出したように振り返った彼女は言った。
「わたしも好きだよ、天田くんのこと」
返されたのは変わらない笑顔と予想外の言葉。
再び歩き始めた彼女は、聞いた覚えのある鼻唄を口ずさみながら足取り軽く階段を下りていく。
ぱたぱた、と。遠ざかっていくスリッパの音を聞きながら、少年は力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「……そんなの、」
ずるいや。
(そんなに簡単に、すき、だなんて)
僕は口にするのにすごく悩んだっていうのに。
2012.6.25