勿忘草はいらない。
「まだ起きていたのか」
ふいと。背後からかけられた声に振り向けば、階段を下りてきたばかりであろう寝間着姿の桐条先輩が、目を丸めてこちらを見ていた。まるで日陰の猫のようだと、ふと思う。
珍しいこともあるものだな、つぶやきながら、彼女がソファに近付いてくる。
「こんな時間に起きているなんて、私だけだと思っていたのだが」
言われて、腕の時計に目をやる。今日になってから、もう三時間も過ぎてしまっていた。
──きっと癖が抜けていないんだろうな
一人、苦笑する。きっと彼女には分からないだろうけれど。
「なんだか目が冴えてしまって」
「そうか」
席を譲ろうと腰を浮かせた僕を片手で制し、僕の隣に音もなく座る。彼女が肩に羽織った白いガウンが、ふわり、舞う。
彼女とこんな距離にまで近付くのは久しぶりだった。以前は肩と肩とが触れ合うまでの位置に座ってきてくれていた彼女が、今は少し離れた位置に、どことなく所在なさげに腰を下ろしている。その距離がとても寂しくて。
彼女の左手がおもむろに上がり、前髪をくしゃりとかき上げる。困っている時の彼女の癖。思えば僕といる時の彼女は、前髪をかき上げてばかりいた気がする。それが僕の前だけだということが少し、嬉しくもあって。
不思議だな、先輩がほのかに笑う。ガラス机越しの彼女が、僕に向かって微笑みかける。
「君と、以前もこうして話した気がするんだ」
「夜中にですか」
「夜中にだ」
目を、閉じる。動揺を悟られないように、思い出がこぼれてしまわないように。僕は記憶に蓋をする。
そうして僕は、滑稽にも忘れたふりをする。
「残念ながら、先輩と夜を過ごした覚えはないのですが」
「おかしな言い方をするな」
「じゃあ、ベッドで語らった覚えも」
「同じだ、それは」
僕の普段通りの反応に、彼女はくすくすと口元を綻ばせる。君には困ったものだ、そんな声が聞こえてくる気がする。
思い出さなければいい、ただそれだけのことだ。目を閉じれば、彼女を映さなければ、忘れたふりができる。このままの日々を続けることができる。
そうすれば、
「少し、冷えるな」
「冬ですからね」
「…鈍感だな。こっちに寄れと言っているんだ」
唇を尖らせた彼女は、誘うようにガウンを広げる。白いそれの裾が、僕の肩に触れる。
──そうすれば、僕だけが覚えているという孤独感に苛まれずにすむのに
それなのに彼女は、以前と同じように─忘れているのだからこの表現は不適切だが─僕に触れてくる。同じように、僕に好意を向けてくる。もしかして思い出したのではないか、そんな淡い期待を抱かせようとする。
僅かに近付いた僕の肩に、ふわりとガウンがかけられる。彼女と二人で、ガウンを共有する。
「あたたかいな」
こつり、肩に乗せられた頭。見慣れた紅から、甘い香りがする。
ああ、ルドルフ。僕は遠い昔の騎士に語りかける。僕はあなたのように、勿忘草を投げることはできない。覚えているというのはこんなにも苦しいことなのに。忘れられるというのはこんなにも切ないことなのに。それを彼女に背負わせるなんてこと、僕にはできそうにない。
だから僕はただ、願う。
「…あたたかいですね」
(どうか、僕の勿忘草を手折ってください)
たぶん2月中旬あたり。
2012.8.6