定例電話は夜の九時
先ほどまでは数分に一度ほどしか開いていなかった携帯電話は、既にフルオープン状態だった。右隅に表示された時計を凝視する。普段通りならばあと、一分。この一分がいつも長く感じる。
こんな時は、どんな表情をしようかと考えるのが常だ。無論彼には表情が見えるはずもないのだが、表情は声のトーンに影響すると以前ゆかりが言っていた気がする。
少し怒った風を装ってみようか、それとも満面の笑顔を浮かべてみようかと。選択肢はいつもそれくらい。
真っ暗な液晶画面ににこり、微笑んでみる。けれど笑顔などというものは生憎と不慣れなようで、暗闇の向こう側にいる彼女の口の端は可哀想なほど引きつっていた。
ため息を一つ。
ふいに、振動とともに画面が明るさを取り戻した。表示されているのは、待ちわびていた名前。
慌てて通話ボタンに伸ばした指をふと、止める。待っていたと思われるのは少し、癪だ。
一回、二回とコールを待つ。途中で切られるのではとひやひやしたが、三回目のコールは無事に届いた。
通話ボタンを押し、耳に当てる。
「…もしもし」
可愛げのない声で応じてしまった自分が憎らしい。
練習していた笑顔も結局浮かべることができず、気難しい表情を張り付けてしまう。鏡はないが、きっとそうに違いない。
『もしもし、僕です』
一拍置いて、夕方ぶりの彼の声が耳を伝わって頭に響く。電話越しだと、彼の声は少し低く聞こえる。自分だけが知っている、声。それがなぜだか少し、嬉しい。
ふふ、と。向こう側から小さな笑い声が一つ。
『先輩、待ってたでしょう、電話』
「べ、別に。そんなことは、ない」
図星だと言わんばかりに詰まった否定文句に、くすくすと笑い声がもう一つ。
『急用だと困るから目に届くところに置いてるんだって。前に言ってたじゃないですか、先輩』
「だから三回コールで出ただろう」
『墓穴ですね』
その言葉に思い返してみれば、なるほど確かに、電話を待っていたと言っているようなものだった。
一回で出たら待っていたと思われて癪だから、とかそんなところでしょう。彼が続ける。彼にはすべてお見通しのようだ。それだけ自分のことを理解してもらえているようで嬉しくもあり、読まれていたことが悔しくもあり。
君こそ、と。咳払いを一つ、反撃に出る。
「毎夜飽きもせず、九時に電話してくるだろう。君の方が待ち遠しかったんじゃないのか」
早く私と話したかったが、待ち遠しいのかと思われるのが癪だから、とかそんなところだろう──そんな自惚れが口に出せるのはきっと、電話越しだからであって。実際の自分はといえば、かっかと火照った表情をどうにか悟られないようにと声を低く保つのに必死だった。
幸いにも彼は気付かなかったのか、ぐ、と珍しく言葉に詰まる。
『別に。そんなことありませんし』
拗ねたように聞こえた言葉が数秒前の自分と同じだったことが少し、おかしくて。
『む。何を笑ってるんですか。先輩に電話するのがたまたま九時なだけですよ』
「分かってる分かってる」
『適当に流したでしょう、今』
「さあ、どうだか」
じとりとした目で、らしくもなく子供のように頬をふくらませる彼がありありと浮かんで、ひっそり笑う。そうして思ったのは、練習などしなくとも笑顔が浮かぶということ。
『…あの。先輩』
笑い声がふと途切れ、代わりに妙に神妙な声が伝わってきた。探るような、窺うような声色に自然、自身の表情も何事かと曇る。上目遣いで見上げてくる彼の姿がちらり、浮かぶ。
『部屋、お邪魔してもいいですか。今から』
しかし予想とは大分離れたその言葉に、思わずは、と間の抜けた返答をしてしまった。
「今から、か。なぜ急に」
『声聞いてたら、会いたくなったんです』
シンプルな文句に頬がゆるむ。会いたくなったんです、彼の言葉を頭で反復する。
答えはもう、決まっていた。けれど二つ返事はやっぱり癪で、
「さて、どうしようか」
『…今夜の先輩は意地が悪いですね』
「いつもの君を真似てみただけだ」
ええー、と不満を洩らす彼に笑みを返し。答えを一つ、口にした。
(これ以上は私が焦れてしまいそうだ)
つまりはバカップル。
2012.10.26