曖昧な感情論

 例えば重なった視線だとか、ほんの少し触れた指先だとか、紡ぐ音だとか。彼に関連するすべてから、何もかもを読み取られてしまうようで。 「どうかされたんですか、先輩」 「─…いや、続きを」  ふいに見つめられ、一瞬息が詰まる。ひとたび深海色に映されてしまえば、眸の中の私は彼の象徴たるべき色に染まってしまう。そうして真逆の色に染まった自分を見るたび、ざわりと胸が波立つ。もうとっくに侵食されているのではないか、そんな錯覚に襲われて。  わずかに動揺した心中を察される前に、視線を戻す。卓上には、彼がまとめた資料が山積していた。  急速に増えつつある影人間の動向、ストレガが広めている新興宗教──そういったことを独自に調査し、一週間に二、三回のペースでこうして報告してくれるのだ。思わず舌を巻いてしまうほどのそれは、今後のS.E.E.Sの方針決定に非常に役立っている。  新興宗教の浸透具合を一通り説明し終えたところで、彼はふと息をつく。片手で眉間を揉む姿は普段より少し、疲れているようだ。 「疲れているのに、すまない」 「いいえ、これは僕が好きでやってることですから」  先輩は気にしないでください、そう言って微笑みを浮かべる。  いつもそうだ。謝罪を口にすれば、やんわりとかわされてしまう。学業の片手間に行っているのだから疲れていないはずはないのに、心配をさせてもくれない。一歩引かれているような、どこか壁があるような距離に、私はいつも、もどかしくなる。  だからといって近付けたところで、彼の何を知っているわけでもない私がどうこうできるわけでもないが。それでも彼の深くに触れたいと思う自分は純粋に後輩の心配をしているのか、それとも別の想いがあるのか。  そこでいつも、思考は堂々巡りを始める。 「報告は以上です」  終えたと同時、夜一時を告げる鐘が鳴る。資料を一纏めにして、こんこんと揃えた。 「ありがとう。助かるよ、本当に」 「お役に立てているなら光栄です」  立っているなんてものじゃない、そう言おうとした口を閉ざす。きっとまた、同じ会話の繰り返しになってしまうから。  彼が指を重ね合わせく、と伸びをする。何度か報告会を重ねていくうちに、いつしかこの動作が、終了の合図となっていた。  普段ならば各々の部屋に戻っていくのだが、しかし脱力した彼はだらりと空いた机に突っ伏した。 「いつもより疲れているみたいだな」 「ちょっと張り切りすぎちゃいまして、部活」 「確か、剣道部…だったか」 「はい。タルタロス探索にも活かせればと思ってるんですけど、なかなかうまくいきませんね」  いつも先陣を切っている彼に限ってそんなことはあろうはずもないのに、苦笑交じりに謙遜する。  彼が、シャドウとの戦いの鍛錬も兼ねて部活動を行っていることは知っている。遅くまで稽古をしている姿を何度も見かけたことがあるのだ。  真っ直ぐ前を見据えるその姿勢が、凛と揺るぎのない心持ちが、まるで一人で戦おうとしているように見えて。もちろん、頼られていないとまでは思わない。誰よりも皆を信頼していることくらい、見ていれば分かる。けれど彼は、すべてを一人で背負い込んでしまうきらいがあるから。胸の内に閉じ込めて、誰にも開こうとしないから。  だからこそ、やはり私は、もどかしいのだと思う。 「その、だな」  そんな想いが先行してか、つい言葉が口から滑り出た。 「君はもう少し、甘えてもいいんじゃないか」 「……え、」  ふいと、顔を上げた彼と視線が重なる。  ああ、まただ。また、深海色に映される。言葉を詰まらせ、ただただどこまでも深い青の底にいる私は、我ながら間抜けに見えた。 「言葉が適当ではなかったな。…ええと、」 「それは、先輩に甘えてもいいってこと、ですか」  自分から発したくせに戸惑う私に、彼はくすくすと笑いを零す。感情をあまり表に出さない彼にしては珍しく、はっきりとしたそれ。  悪戯を見つけられた子供みたいになぜだかバツが悪くなって、とりあえずそっぽを向いてみせる。これではまさしく子供みたいじゃないか、とは思うものの、逸らしてしまってからではもう遅い。  じゃあお言葉に甘えて、と。ふいに立ち上がった彼はぐるりと机を一周回り、私の隣にすとんと腰を下ろす。 「肩を、貸してもらえませんか。少しだけ」 「な、」  なぜ、と尋ねる間もなく、肩にかかる軽い重力。すぐ傍に顔があることくらい、視線を巡らせなくったって分かる。  暖房の送風に揺られたのか、眸と同色の髪がふわりと流れる。羨ましいほどに透き通ったそれに、状況も忘れてしばし、見惚れた。 「やっぱり。思った通りだ」  私の思考を引き戻すように、ぽつりと言葉が落ちる。独り言の延長線上である声に、思わずびくりと身体を震わせてしまった。  思っていた以上に近いのだ、声が。そうであるはずがないのに、甘い密事を囁かれたような気分に陥ってしまう。  ふ、と笑う気配が一つ。 「先輩の肩はとても、寝心地がいいです」 「そ、そうか。不安定で寝辛いと思うのだが…私は、膝の方が」  言いかけて、慌てて口を紡ぐ。私は今、何と言おうとしたのか。  はしたない女だと思われはしなかっただろうかと、頭をもたげた心配を軽くすべく、ちらりと隣に視線を移す。彼はといえば、私を映していた深海色を閉ざし、浅い寝息を立てていた。こんな体勢で眠れるということは、よほど疲労が溜まっていたのだろう。  行き場を失ってしまった羞恥心をとりあえず押し込み、呼吸を一つ。図らずも彼の寝息と重なり、鼓動がまた、跳ねる。 「─…君はきっと、知っているのだろうな」  私が抱えているこの、曖昧な感情を。そうして私を映した彼はきっとふわりと笑って、すぐに答えを与えてくれるのだ。  けれどこれは、自分で導き出さなければならない問いなのだろう。 「難題、だな」  うつらうつらと近付いてくる眠気をたぐり寄せ、視界を閉ざす。瞼の裏に残った深海色に一つ、笑みを零す。  いつ見つかるかわからない、見つかるかさえも分からない。けれどそのいつかまでは、この曖昧な関係に浸っていてもいいのだと思う、きっと。 (それでもやはり、この体勢はつらいな)
 美鶴先輩誕2013。  2013.5.25