それはきっと、
上の空、なんて言葉があるが、それを実際に目の当たりにしたのは初めてだった。
開いた本のページがめくられたのは、一体いつだっただろうか。視線が向いてはいるが、内容なんてきっと頭に入ってない。
ふう、と。こぼれたため息が、肩から流れる巻き毛を揺らす。
机に置いたカップには手をつけないまま。立ち上っていた湯気はとうの昔に掻き消えて、紅茶の匂いばかりが残っている。
まさかこれが、世に言う無気力症か。いやしかし美鶴に限って、というかペルソナ使いである俺たちに限って罹るはずがない。だがこんな美鶴が、例えば本が逆さまであるというお決まりな状態の美鶴が正常だと、どうして言えようか。
「なあ、明彦」
本気で罹患しているのかどうか疑っているところでふ、と。思いついたみたいに声をかけられる。
さっきからずっと見つめていたことに気付いているのかいないのか─きっと気付いていないだろうが─顔を上げて、それでも焦点は俺と机の間を漂っていて。
「…たこ焼き、とは、美味しいものなんだな」
「…は?」
小さく呟く様は、まるで寝起きの子供のようだ。そのまま言葉も寝言なのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。
言葉はそれきり、特に続くわけでもなく。読んでいるわけでもない本に再び視線が戻る。一方的に投げられただけの俺は、その真意も分からずしばらく動きを止めていた。
「…食べたのか、たこ焼き」
「食べた」
「誰と」
「それは、」
唐突に作られた静寂。思案するように口元に手を当て、しかし結局閉ざされてしまった。
まず一番に浮かんだのは岳羽だった。
妙に仲が良くなった二人は最近、よくお泊り会をするという。パジャマパーティーなるものをしたんだ、と嬉しそうに話していた美鶴は記憶に新しい。
だが岳羽なら、たこ焼きではなくパフェだとかクレープだとか、女子受けのいい食べ物をチョイスする気がする。たこ焼きイコール岳羽には、どうも繋がらなかった。
となると、残る心当たりは一つだけだが、それもどうにも納得しがたい結論であった。
生徒会に入っているからか、学校内ではよく会話している場面を見かけるが、私生活となると一向に思い至らない。同じ寮生、部員、生死を共にした仲間。そんな間柄なのだと思っていた。思っていたのだが、
美鶴がまた息をはき出す。無意識だろうため息はこれで何度目か。
美鶴、と。唇に乗せてみた。気付くだろうか、あるいは顔を上げるだろうかと、少しの願望を込めて。視線は動かない。ページはめくられない。
「桐条先輩」
もう一度名前を呼ぼうかと口を開いたところで、別の呼称が届いた。
それまで指先でブックカバーを撫でていた美鶴が、弾かれたように顔を上げ、階段の方向を見やる。釣られて首を巡らせてみれば、つい今しがた俺が描いていた男が、二階から降りてきたところだった。
近付いてから、俺を見て申し訳なさそうに顔を曇らせる。
「すみません、お話し中でしたか」
「あ、ああいや、話していない、何も」
動揺している風の美鶴の態度が面白くない。確かに会話は途切れてしまっていたが、そこまで全力で否定しなくともいいじゃないか。
子供みたいにへそを曲げた俺の内心を察することはもちろんなく。じゃあ、と話を切り出す。
「タルタロス探索の進度について、少し相談したいんですけど、今からいいですか」
「ああ。私もちょうど、その話を持ちかけようか思案していたところだ」
心ここに在らずで本を逆さまに持っていたヤツがよく言うな。
「なら、二階に」
そこで初めて、美鶴に向かって口元をゆるめる。コイツの笑顔を、俺はまだ、数えるほどしか見たことがなかった。
頷きを一つ、促されるまま立ち上がった美鶴の頬が心なしか赤く見えるのは、効きすぎた暖房のせいばかりではない気がした。
本と紅茶を置き去りに、二人は連れ立って二階へと向かう。何事か会話をしながら歩いているようだが、音ばかりで内容は聞き取ることが出来なかった。ただただ、弾む会話に頬を綻ばせている美鶴に視線が留まるばかりで。
「…まさか、あいつ、」
浮かんだ可能性は、俺にとって信じがたいものだった。
いくら鈍感やら無神経やらと言われている俺でも、あの美鶴の態度を見て気付かないはずがない。
紅茶の匂いが今更鼻をくすぐる。
あれは、きっと、
(そんなお前を、俺は知らない)
こいわずらい。
2013.12.10