少女が愛した世界
彼女がベルベットルームを訪れたのは、いつもより少し遅い時間だった。
「ようこそ。ベルベットルームへ」
「あ、うん。こんばんは!」
扉をくぐり慌ただしく駆けてきた少女に深く一礼すれば、それに応えるように元気な声で返される。いま外の世界は夜なのか、と発された挨拶で推測した。
ペルソナ全書を携えすいと前に進み出るも、しかし彼女はいつも座る席を素通りしこちらに近寄ってくる。はし、と手首を捕らえられる。焦ったようにこの部屋の主を振り仰ぐ。
「イゴールさん! テオ、借りていってもいいですか?」
「あの、それはどういう、」
「よろしいですとも」
「即答ですね、主」
「ありがとうございます! すぐ返しますから!」
私は物ですか、とツッコむ間も無く、頭を下げた彼女に手を引かれ、二人して走りだした。
追いかけるように届いたごゆっくりとの主の声に見送られ、見慣れた青い扉の外に出る。途端、吹き込んできた生あたたかい外気が頬を絡め取るように撫ぜ、そして掻き消えた。
──やはり夜なのですね
以前探訪した時のような、昼間の賑わいの断片を残したポロニアンモールを縦断し、さらに駆ける。
「あの。どこに向かわれているのですか」
「ん、内緒っ」
息を弾ませ、楽しそうにそう口にした彼女にそれ以上疑問を投げることが出来ず、口を閉ざした。
彼女の足は疲れを知らないかのように、足取り軽く目的地を目指す。
もちろんこの少女の目指す場所など到底図りようもないが、自身の心も、同様に浮き足立っていた。恋い焦がれる外の世界を駆け抜けているからか、それとも彼女と共に過ごしているからか。そのどちらかは判別し難いが。
ふと動きが止んだ。勢いを削がれた身体が前のめりになるのを何とか堪える。
顔を上げ、見えた石段に首を傾げた。
「ここは…、先日案内していただいた、長鳴神社でしょうか」
「ぴんぽーん」
ついこの間訪れた地名を口にすれば、楽しげな声が返ってくる。
再び連れ立って歩きだし、意外と長い階段を難なく登り切った。
賽銭箱に井戸にそれから遊具に、と。先日目にしたばかりのそれらだが、時間帯が変わればまた違った風に見えてくるから不思議だ。
しばし視線を取られている内に、彼女は一つの遊具に向かっていく。あれは確かジャングルジム、と言っただろうか。
位置を確認するように何度か触れ、それからおもむろに上りだす。
「危険ですよ!」
「へーきだって、っと。ほら、テオも早く」
こちらの心配も何のその、難なく頂上に辿りついた彼女はそこに腰かけ、にこりと笑いかけてくる。
なんてずるいお方だ。
内心でため息をつきながら、しかし呼ばれたからにはと少々たどたどしい手つきでそれに足を掛ける。子供用の遊具だからか、それとも自分が長身だからか。ほんの二、三回動くだけで頂上に到達した。
促されるまま、隣に腰を下ろす。
「ほら、見て」
彼女が指したのは、空。漆黒の闇に輝く、満天の星空だった。
「星、ですね。確か、自らが光り輝いているのだとか」
「そうだよ」
改めて夜空を仰ぐ。
本や主からの話でその存在は知っていたが、実際にこの目で見るのは初めてだった。
自らの命を燃やし、輝いている様は、何と美しく、そして何と儚げなものなのか。
ああ、と洩れる感嘆の息。自然、重ねていた手に思わず力を込めてしまう。
「やっぱり初めてなんだね、見るの」
「ええ、実物は初めてです」
「ええとね。あれがシリウスっていう星。で、これがプロキオン、それからペテルギウス」
彼女は少し得意げな様子で、一際明るい三つの星を指し示し説明する。
「この三つが、夏の大三角形って言うんだよ」
「…あの。失礼ながら、それは冬の大三角形ではないかと」
「え」
「正しくはこと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブの三つです」
「…知ってるんじゃん」
記憶を辿り、正しいであろう知識を口にすれば、横目でじろりと見つめられる。
大仰にため息をつき、羞恥からかむくれているからか、夜目で僅かに目視できる程度に頬を染める。
「うー…、ずっとこれが夏の大三角形だと思ってたのに…」
「そ、そう気を落とさないでください」
「うん…がんばる…」
「そ、それで。何故、私をここへ」
何を頑張るのか。疑問はとりあえず置いておき、代わりに当初からのそれを尋ねてみた。
うーん、と。考えるように唸り、足をぶらぶらと揺らす。空を仰ぎ、それからこちらを見つめ。えへへ、と彼女は笑った。
「テオに見てもらいたかったから」
──わたしが大好きな世界を、少しでも知ってほしかったから
何かに似ていると、ふと思った。
先ほどまでの落ち込み様はどこへやら、花が咲くように笑い、鈴の音のような声で言葉を紡ぎ。
そう、まるで星のように。どこまでも輝く星のように、自らが知らず知らずの内に輝いているようで。
そっと、目を眇めた。釣られて微笑み、そうですか、と返す。
「ん、どしたの」
「いえ。ただ、この世界が羨ましくて」
貴女にこんなにも愛された世界が、少し憎らしくて。
それでも、彼女が愛した世界を少しでもこの目に焼き付けておこうと。彼女に倣い空を見上げ、まぶたを閉じた。
(いっそこの世界そのものになってしまえれば、と)
女主の世界のあいしかたがすき。
2011.4.19