笑ってほしいとお前が言うから、
路地裏にはなんとも不釣り合いな声が響いた。
「あーらがーきせーんぱいっ」
妙に間延びした名前を叫びつつ、下の方から顔が覗き込んでくる。突然のことに、思わずのけ反ってしまっていた。頭一つ分ほど離れた場所にある顔が、にひひと悪戯に笑う。並びの良い歯が覗いた。
寮内で飽きるほど顔を合わせているというのに、どうしてこう行く先々で出会わなければいけないのか。もちろん、それで悪い気がするわけでもないが。
「…っんだよ、お前。こんなところに」
「あ、ひっどい言い草ですね。あんまり冷たいとわたし、泣いちゃいますよ」
「ホラー見ても泣かないくせにか」
「純愛系では泣けます!」
胸を張って言うことか。こいつのホラーに対しての順応性というか、耐久性が半端でないことは、以前の寮内ホラー鑑賞会にて実証済みだった。青白い子供が現れようが、テレビから女が這い出ようが、はたまた目の中の鍵を取り出そうが、ものともせずに凝視しているのだ。
というよりこの女は、画面内の物語よりも自分にしがみつく女たちを見て楽しんでいた気がする。アイギスを除く女子全員にしがみつかれる様は、なんて羨まし、じゃない。何を考えているんだ俺は。
言わずもがな、そのホラー鑑賞会の発起人は目の前で無い胸を張っているこいつである。
「じゃなくてだな。危ねえから、もうここには来るなって言っただろ」
思わず本題から逸れてしまったのを、軌道修正する。
随分と前のような気もするが、以前岳羽たちとともに路地裏を訪れた際、こいつらはたむろっていた柄の悪い奴らに絡まれていた。助け舟なんか出すつもりはなかったのに、無駄に突っかかっていくこいつを見たらつい、出張って事無きを得たが、やはりここは安全ではない。
「先輩が入ってくの見えたから、つい」
「俺が入ってったら、来るのかよ」
つい、強い口調になってしまった。別に怒ってるつもりはないのだが、どうしても語気を荒げてしまう。
別にこいつがどこに行こうが、俺の口出しすることじゃないくらい、分かっている。けれどこいつをあまり危険な目に遭わせたくないと。なぜかそう、思ってしまう。危険の塊のようなタルタロスに毎晩向かっている奴に言えたことではないことも、分かっている。
「ここはですね、」
そんな俺の心情など露ほども知らずに、俺を追い越してゆっくりと歩を進める。
かつり、かつり。靴底がコンクリートを打ち鳴らす。背が低いことを気にしているのか、いつも少しだけヒールの高い靴を履いているらしいことに気付いたのは最近のこと。足音は吸い込まれる前に俺の耳朶に、妙に生々しく届く。確かにここにいるのだという証を残していく。
そうして数歩分だけ離れて、くるりと振り向いた。いつもと変わらない笑顔に、少しだけ思い出を滲ませて。
「わたしの、大切な場所なんです」
「大切な、場所」
「荒垣先輩に助けてもらった、忘れられない場所なんです」
両腕を広げて、こんな狭い路地裏すべてを抱きこむように、ぎゅ、と。自分自身を、抱きしめて。
だからですね、と。何も言えないでいる俺に、目の前の少女は続ける。
「大好きなんです、わたし。先輩との思い出がある、この場所が」
きっとこいつは、何もかもを知っているんじゃないだろうか。ふと、そんな考えが頭を過ぎる。ここで昔、何があったのかを。俺がこの場所にどんな想いを抱いていて、どんな気持ちでこの場所を訪れているのかも、すべて。
もちろんそれは俺の推測であり、そんなことは絶対に分かりはしないはずなのだが。
少なくとも俺がここに対して良い想いを持っていないことに勘付いていている。勘付いていながら、それをひっくるめて、ここが好きなのだと言っているのだ。だから俺にも好きになれと、そう暗に含んで。
「ううん、好きになれだなんて、思ってないです」
心を読んだかのように、首を振る。
「ただ、そんな寂しい顔をしないでほしいなってだけなんです」
ここにいる時でも、笑っていてほしいなって思うのは、わがままですか。
窺うように、言葉が告げられる。
恐らく俺は何もかも見透かされているのだ。強い心であろうとしている時に限ってこいつは、俺の弱い部分を包みこもうとするのだ。
今だって、いつだってそうだ。
そうして俺は知らず知らずのうちに救われていた。この小さな女が、俺の過去を含めてすべてを許してくれるような、そんな気がしたから。
へへ、と。ふと口元を綻ばせたのに女に釣られて、笑ってしまった。
「助けてもらった、って。自力でなんとかできてた奴が、よく言うな」
「そんなことありませんよ、めっちゃくちゃ怖かったんですから! 足がくがくだったんですからあっ!」
「その足でとどめさしてたのは、どこのどいつだよ」
「ゆかりですよ、きっと」
「馬鹿言え。岳羽が手を出したら流血沙汰だ」
「それもそうですね」
数歩先の顔を視線を合わせて、また、笑い合う。岳羽が聞いたら俺が流血沙汰だな、なんてことを思いながら。
また俺を追い越して、駅前広場に出る手前でくるりと振り返る。眩しいのはきっと、夕陽を背にしているからだ。
「せんぱーい、早く帰って、夕ご飯作りましょうよーっ」
「作るのはお前じゃなくて俺、だろ」
「さっすが先輩、分かってらっしゃいますねえ」
「材料は」
「チンジャオロースでーす」
提げていたエコバッグを目の前にかざしてみせる。楽しそうに、笑って。
俺はようやく一歩、踏み出した。
(うめえもの、作ってやるよ)
がっきー先輩の心の支えはハム子だといい。
2013.10.18