ころしあい

 彼女の口元に浮かぶ笑みを捉えた時、初めて力の差というものを感じた。  柄を握っていたはずの指が虚空を掴む。  愛用の剣は弾き飛ばされ、空気を裂く音が遅れてやってきた。軽やかなそれは鼓膜に届き、残音となる。  音よりもはるかに素早い彼女をようやく視界が捉えたのと同時、腹部に感じた圧迫感。ふわ、と重力に反して身体が宙に浮き、しかしそれは持続することなく固い地面に叩き落とされる。  背中から全身へと広がっていく鈍痛に思わず呻き声を上げれば、それとともに口から生温かい液体が吐き出された。先ほどまで体内にあったとは思えないほど赤黒いそれは、制服に落ち自らの領域を広げ始める。  背中を強打したせいか呼吸がしづらい。肺が酸素を渇望するたび、ひゅーひゅーと何かが抜けていくような情けない音を繰り返す。 「──もう、終わりなのかしら」  彼女が織り成す足音すら動きと遅れて聞こえるような錯覚に陥る。  片肘を突き何とか頭を起こすと、青いパンプスが視界の隅に入り、立ち止まった。彼女も相当なダメージを喰らっているはずなのだが、その足取りは実に優雅で、全く疲労を感じさせない。  自身の周囲を舞っているペルソナカードの一枚を引き取った彼女は、ぴっと音を立ててこちらに突き付けた。一メートルと離れているはずのそれからは殺気しか感じられず、まるで眼前に剣先を突き付けられているかのようで。  知らず知らずの内に身体が委縮し、それ以上動くことが出来なかった。  ふ、と。彼女の表情が陰る。 「貴方は、怖くないの」  緊張感も殺気も緩めることなく、彼女は問い掛けてくる。自分が怖くないのか、と。おもむろにしゃがみ込んだかと思えば、ゼロ距離から顔を覗き込まれる。  喉元に件のカードを突き付け、耳元で囁いた。 「私は、貴方を殺すことが出来るのよ。何の躊躇いもなく」  つ、とカードが動いた。途端、喉が焼けるように痛む。その部分に心臓が移動したかと思うほどどくどくと打ち鳴らされるそこから、静かに体液が流れ出していく。  彼女が差し出した手が頬に触れる。扇情的に冷たいそれが慈しむように撫でる。絡まった視線は見たこともないほどに揺れ、ともすれば泣き出してしまいそうなほど潤んでいた。  瞼を閉じ、呼吸を一つ。 「怖くないですよ」 「…何故」  この時、俺は一体何と答えれば良かったのだろうか。正直に怖いと言えば良かったのか。感じたことのない死への恐怖に身体が震え出すのを抑えるのに精一杯だと白状すれば良かったのか。  だが、俺はまったく別の答えを出していた。そうすることが彼女への誠意でもあるし、それが俺の愛情表現だからだ。 「俺だって、」  震える腕を叱咤し、懐からペルソナカードを取り出す。  彼女の眼前に突き付けると、端が掠ったのだろうか、頬に一線の朱が浮かんだ。つ、と。まるで血の涙のように流れたそれを眺め、 「殺す覚悟で来たんですから。貴女を」  やはり俺たちは、傷つけあうことしか出来ないのだと実感した。傷つけあうことで、殺しあうことで、お互いの存在を確認し合わなければ生きていけないのだと、改めて認識した。  それだけで十分だった。  彼女が瞼を閉じ、再び開いた時には、すでに迷いは消え。代わりに覗いたのは、本気で戦いを楽しむ女のそれだった。  彼女が背を向け立ち退いたのに合わせ、身体に力を入れて立ち上がる。不思議と震えは消えていた。 「なら、試合再開としましょうか」 「お手合わせ願います」 「ふふっ」  楽しそうに笑った彼女のペルソナ全書が勝手にページをめくり、宙に舞う。 「──倒れちゃだめよ」 (さあ、殺し愛ましょうか)
 ふたりの手にかかればペルソナカードさえ狂気と化す。  2011.4.7