落とした魔法の言葉をどうか拾って、
雪子。
「なに、千枝──、」
顔を上げ、見慣れた緑色が見えないことに思わず首を傾げてしまう。黒いこれは、なに。
ひとしきり悩んでいると、頭上から小さな笑い声が降ってきた。
「千枝って、こんなに野太い声してたっけ」
「あ、」
彼が私の一つ前の千枝の席に腰を下ろす。椅子の背に片肘を突き、目を細めて笑っている。
黒いそれは学ランだったのね──勝手に納得しながら、持っていたシャーペンを放った。からん、と小さな音を立てて転がるそれを、目で追う彼。
放課後の教室内を、沈みかけた夕陽が淡く照らしていた。いつもはうるさいくらい響いている運動部のかけ声も、試験期間中だからかまったく聞こえない。
そんな薄暗い教室で二人きり。私の心臓は、訳もなく跳ねはじめる。
「残念ながら、千枝でなく俺でした」
「ざ、残念だなんて思ってないよ、これっぽっちも」
「ありがと、雪子」
──ほら、また。
彼が笑うと、私を見ると、私の名前を呼ぶと。心臓は元の速さを忘れてしまったようにどくどくと、うるさく鳴りはじめる。ちょっとは落ち着きなさい、そう諌めてみるものの、効果なんてあるはずもない。
頭を振り、そのことから意識を逸らそうとしてみた。
「いたい、いたいよ雪子」
「あ。ご、ごめんねっ」
気付けば私の長い髪が彼の顔にビンタを喰らわせてしまっていた。何度も頭を下げながら、いっそばっさり切ってしまおうかと本気で考える。
「え、えと。それで、なにか用事でも」
「ああ、一緒に帰ろうって誘いにきた」
静けさに耐えきれなくなって口にした疑問に、彼は事もなげにそう答えた。
一緒に帰ろう。一緒に帰ろう……って、どこに。え、一緒にって、彼の家に、ってこと。つまりご両親に紹介とかいわゆるそういう、
「もう遅い時間だし、女の子一人だと危ないかなって」
「え。…あ、そう、だよね。一緒に帰る、だもんね」
「不満?」
「ううん、全然そんなのじゃ、ない」
勝手な想像をしていた自分が恥ずかしい。大体、付き合ってもいないのにそんなことあるわけないじゃない。
「えと、落ち込んでる?」
「ううん、全然そんなのじゃ、」
「それ。さっきと同じ返事」
それにしても、と。机いっぱいに広げたノートを指して、彼は言う。
「ずいぶん熱心と勉強してるな。こんな時間まで残って」
「家に帰ったら、勉強できなくなっちゃうから」
「旅館の手伝いとかで」
「ううん。試験があるから休んでいいって言われたんだけど、手伝っちゃいそうで」
「まるで職業病だ」
彼は目を細めて笑った。
勉強できなくなる、というのは本当だけれど、半分は嘘だった。
学校に残っていれば、いつか彼と二人きりで会えるかもしれない、そんなよこしまな考えも、あった。二人きりになってなにを話すだとか、そこまで考えていなかったけれど。彼が探索に出かけない日はいつも、図書室で遅くまで勉強していることを知っていたから。本当は図書室に行って、一緒に勉強しよう、なんて言えればいいのだけど、あいにくと私にそんな勇気はない。
ただ、ただ偶然が重なることを祈って、毎日勉強して。
「でも、もう七時になる」
「うそ、もうそんな時間なの」
彼が見せてくれた腕時計の長針は、確かに七を指そうとしていた。秋といえども、陽が落ちるのは遅い。
慌てる私を諭すように。ぽん、と頭に手を乗せ、わしゃわしゃと撫でる。
「だからもう帰ろう」
「…うん」
──ただ、ただ偶然が重なることを祈って、毎日勉強して、そうして彼と二人きり。
幸運に、頬を綻ばせた。
「よっこらせ」
満足したように微笑んだ彼は、おじさんのようなかけ声とともに立ち上がる。
「よっこらせって。…ぷふっ」
「む。なーに笑ってんだ、雪子」
お腹を抱えて笑いをこらえる私をじとりと見つめながら、彼が頬をふくらませた。途端、治まっていたはずの心臓がぴくりと動く。
ため息を一つ、彼はそういえば、と疑問を口にした。
「なんで、俺と千枝を間違えたんだ」
全然違うだろ、声。
不思議だというように首を傾げる彼に、最初の言葉を思い出して。
「千枝が…野太い声…ぷ、ふふ」
「あの、雪子さーん。俺の話、聞こえてます?」
「ふふ、おじさん千枝とか、似合ってるかもしれない」
「千枝にすごい失礼じゃないか、それ」
今まで私を“雪子”と呼ぶ人は、千枝しかいなかったから。彼の声で名前を呼ばれるだけで、私は魔法をかけられたみたいにうれしくなる。彼の、特別な存在になれたようで。
だからどうか、
「ねえ、」
ただ一度、もう一度。それを口にしてほしくて、彼を呼び止める。
くるりと振り返った彼は、やわらかく微笑んだ。
「なんだ、雪子」
「…ううん。なんでもない」
(なまえをよんで)
「よっこらせ、っと」「千枝。そのかけ声、いいよ」「え」
2012.6.25