あと五分だけ君と、

 巴マミの朝はゆるやかにやって来る。 「マミ。そろそろ起きないと、学校に遅刻してしまうよ」  そう思っているのは彼女だけであって、実際はそうではない。時間とは不変なもの、誰に対しても常に一定に流れている。だから彼女の周辺の時間だけが沈滞するということはないのだ、絶対に。  僕がそう言うと、彼女はいつも呆れたように息をつく。  時間が遅くなってるのではなくて、そう感じるって言ってるの。  それでも言い返そうとすれば、もう、などと小動物のように頬をふくらまし、いいわよ、とそっぽを向いて拗ねてしまう。まるで幼子のようだねと言いたい気持ちをぐっと堪え、僕は意味もなく伸びをする。 「ん……、あと五分…」  毛布から覗く肩をゆさゆさと揺すると、薄目を開いた彼女は往生際悪くそんなことを口にする。次いでふわあ、と小さなあくびを一つ。ようやくまみえた色素の薄い瞳はすぐにまぶたの裏に隠れてしまった。  枕に広がる髪を踏まないよう気を付けながら、顔の横に移動する。  髪を下ろした姿は年不相応に大人びて見えるのだが、布団に潜り込み一晩明けた途端にこの有様なのだから、人間とは不思議なものだ。  いや、人間というよりも、彼女自身が不思議なのかもしれない。  そんな仕様の無い思考を追い払い、彼女の頬をぺしぺしと叩く。 「僕の記憶が正しければ、五分前も十分前も君は同じことを言っていた気がするんだけど」 「気のせいよ、キュゥべえ。気のせい」  気のせいだと連呼する声が徐々に小さくなり、早くも寝息を立て始める。  ぺしぺし。何度かはたくと、むう、と唸り声。苦しそうに眉間にしわが寄り、比較的端正な顔がわずかに歪む。 「キュゥべえ、いたい」 「痛くないと起きないだろう、君は」 「痛くなくても起きるもの、わたし」 「じゃあ起きてくれないか。いい加減僕も疲れてきたよ」 「じゃあやめればいいじゃない」  望み通り手を止めてみた。  痛みから少しだけ目を開いていた彼女は、十秒も経たないうちに視界を閉ざしてしまう。早速夢でも見ているのだろうか、聞き取れない程度の音量で寝言をつぶやいている。  ほら、思った通りじゃないか  嘆息しながら、ぺたんと腰を落ち着け再びはたく。ぺしぺし。寝言が不意に止む。  ぐるりと視界が突然動いた。  僕自身の意思とは関係なくみるみる彼女に近付いていき、あっという間にゼロ距離になる。あたたかい感触に包まれ、僕は思わずくすくすと声を立てる彼女を見上げた。 「キュゥべえ、つーかまえた」 「僕は捕まえられるつもりはなかったんだけど」 「わたしが捕まえたかったの」  だってたたくんですもの、あなた。 「君がいつまで経っても起きてくれないからだよ」 「仕方ないわ。重力のせいよ」 「まぶたにだけ二倍の重力でもかかってるのかい」 「そうよ」 「淀みない返事だね」  彼女は依然まぶたを閉じたまま、何が可笑しいのか、くすくすと笑い続ける。  彼女は楽しいことがあると、口元に手を当て控えめに笑う。まなじりを下げ、本当に嬉しそうに目を細めて。そんな笑い方が、嫌いではなかった。  大仰にため息をこぼす。どうやら彼女の癖がうつってしまったようだ。ため息というものは感染力が強いのかもしれない。 「じゃあ、あと五分だけだよ」 「本当?」  僕がそう言うと、彼女はふわりと微笑んだ。声を立てずに笑う、これも、嫌いではなかった。  ぎゅ、と。抱きしめてくる力が強くなる。やわらかな感触に押し付けられ、少し苦しい。拘束から抜け出そうと身をよじると、耳に小さなあたたかさが降ってきた。  一瞬近付いていた彼女がまた離れていく。ふわり、笑う。 「あと五分だけ、ね」  巴マミの朝はゆるやかにやって来る。  もちろん、時間の流れが滞るのではない。彼女曰く、体感時間が遅くなるのだという。  その意味が、僕にも少し、少しだけ理解できたかもしれない。  彼女の腕に抱かれ、まぶたを閉じている五分間は、とてもゆるやかだったのだから。 (もうっ、なんで起こしてくれなかったのよ!) (なんて理不尽な怒りなんだ、わけがわからないよ)
 平和なキュゥマミがすき。  2012.2.22