あなたが作ったお味噌汁がいいの、巴マミ。
今のこの状況は、『私』からしてみれば奇跡にも近いものだった。
ぱちり。まぶたを開く。暗がりの中、夜目が捉えたのは覚えのない天井、巴マミの家の天井だ。
何とか寝ようと努力してはみたものの、もともと夜行性なのか、まぶたを閉じても羊を数えても睡魔は一向にやって来る気配がなかった。
ため息を一つ。ごろりと身体を左へ反転させる。
視界に飛び込んできたのは、暗闇でもはっきりそれと分かる金色の髪。金糸のようなそれが、二人で共有している枕に広がっていた。
鼻孔をくすぐる匂い。これは彼女の香り。柑橘系のような、ほんのりと甘いそれ。
寝苦しいだろうかと、顔にかかった前髪を掻き分ける。見えた彼女は、普段の大人びた表情はどこへやら、あどけない幼子のような寝顔を浮かべていた。
心臓が跳ねる。改めて、脳が距離を実感する。近い、近すぎるのだ。
気持ちを落ち着けるために、深呼吸を一つ。彼女の匂いが身体中に行き渡り、化学反応を起こした心臓がまた、跳ねた。
「ん、…あけみ、さん?」
小さな声が、静かな部屋の空気に溶け込むように落ちた。
見れば巴マミが、目を擦りながらこちらを見つめている。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら」
「ううん。わたしもちょっと、起きてた」
謝罪を口にすれば、彼女はそんなことを言った。あくびをしながら言われても、あまり説得力はない。
「嘘」
「ほんとよ」
若干舌足らずな口調で、ぷくりと頬をふくらませる。そんな仕草が、言葉が、私の知っている巴マミとは大分異なっていて。
口から洩れたのは小さな笑み。
「む。なに笑ってるの」
「いいえ、何だかあなたらしくないなって」
「わたしらしいって」
「冷静沈着、才色兼備、温厚篤実。それが、私が持ってるあなたのイメージ」
「わたしはそんな完璧な人間じゃないわ」
私が知っている──つまり、まどかが魔法少女のシステムを作り替える前の世界での巴マミのイメージは、まさにそれだった。
私とまどかが憧れた巴マミ。後輩の手本として、師匠として、最前線に立ち続けた魔法少女。
魔女を倒し続けたその銃口が私に向けられた時に、そのイメージが崩れたこともあったが、それでも芯はぶれることがなかった。それだけ、彼女の存在は大きなものだったのだ。
そのことをまだ、彼女には詳しく話していない。
「…今日、すごく楽しかったわ」
巴マミが、夕方からの記憶を反芻するかのようにまぶたを閉じ、嬉しそうにつぶやく。
いろんな暁美さんが見られたもの。彼女はそう続けた。
「あまり料理が得意じゃないこと、猫舌なこと、夜に強いこと。…全然、知らなかったわ」
付き合い、結構長いと思ってたのだけど。
彼女が言うには、美樹さやかが消滅したと同時、この世界の暁美ほむらが消え、今ここにいる『私』が現れた、らしい。
消えたというよりも、別の世界の私の記憶が、この世界の私に上書きされた、という方が正しいだろう。悪く言えば、身体を乗っ取ったという体なのかもしれない。
この世界の記憶をすべて失くした私に、彼女はいろいろ教えてくれた。
それは魔法少女の仕組みだったりとか、私と彼女の関係だったりとか、そんなものだ。
この世界ではどうやら、半年ほど前から師弟関係だったらしい。
何がおかしいのか、彼女はくすくすと笑う。
「不思議ね」
「何が」
「今のあなたとは会って間もないはずなのに、前のあなたよりも親近感が湧くの」
どうしてかしら。彼女は首を傾げる。
どうしてかしらね。私もつられるように首を傾げる。
或いは、と仮定する。
別の世界の記憶が、断片が、彼女の中にも残っているのだろうか。
そうだとして、あまりいい記憶がないかもしれないけれど。
「…私も、楽しかったわ」
今日が終わってほしくないくらい、楽しかったわ。
捻くれ者の私にしては珍しく、素直な言葉が出てきた。暗闇の中だから、きっと口に出来たのだろう。
くすくすと、また笑い声。
「今日が終わっても、また明日があるわ」
多くの時間軸を繰り返す中で、私は何度も巴マミと対立した。共闘していたことは、片手で数えるほどしかない。
ましてや、こんなに近くで、子供のように笑う彼女を見たことなんて、一度も。
『わたしの家に泊まりに来ない?』
誘い文句は確かそれだった。
学校からの帰り道、追いかけてきた彼女は私にそう言ったのだ。
あなたはよくわたしの家に来ていたから、なにか思い出すかもしれないし──そんな風に。
それからを思い出すと、自然笑みがこみ上げた。
彼女の淹れた紅茶はやっぱり美味しくて、湯船は足を伸ばしてもまだ余りあるほど広くて、料理はけちのつけようがないほど絶品で。
そう、特にお味噌汁。シンプルなのに、一言では言い表せないほど美味しかった。
「あなたの料理、すごく美味しかった」
「お口にあってよかったわ。ちなみに一番おいしかったのって」
「お味噌汁」
「あんなの、簡単よ」
彼女が苦笑した。どこの家庭も同じような味でしょ、と。
そんなことはないと、否定した。
「あなたが作ったお味噌汁だから、美味しいの」
毎日でも作ってほしいくらいよ。
「じゃあ、一緒に暮らしましょうか」
可愛らしいあくびを一つ、長いまつげを伏せ、私の胸に顔を摺り寄せるように身を近づけ、彼女はそんなことを言った。
言葉を飲み込むのに十秒。反芻して、理解するのに更に十秒。
「……え」
「だから、一緒に暮らしましょう」
もしかしたら、記憶を取り戻せるかもしれないし。
「それに、」
「それに?」
「お味噌汁も、作ってあげられるもの。毎日」
その言葉を最後に、彼女はすやすやと規則正しい寝息を立て始めてしまった。
「ちょ、ちょっと」
動揺する私を置いて、彼女は早々と眠りにつく。
私はといえば、先ほど彼女が口にしたことが、果たして本気なのかどうかひたすら審議していた。
「…でも、」
ふいに、口元が綻ぶ。
お味噌汁を毎日食べさせるために一緒に暮らそう、だなんて。何とも彼女らしい気がして。
それもいいかもしれないと、思ってしまった。
深呼吸を、一つ。
柑橘系の匂いが、今度こそ私を落ち着かせてくれた。
「本気にするわよ、私」
(それが、私と彼女の第一歩)
マミさんが好きすぎるむっつりほむほむと、ほむほむ目に入れても痛くない状態のマミさんの同棲物語。
2012.3.24