あなたと同じベッドがいいの、巴マミ。

 ぱちり。物音を聞きつけふいに、目が覚めた。  といっても、いつも熟睡できているわけではない。昔の──時間を繰り返し、魔女と戦っていた頃は、小さな物音にもすぐ反応し、目を覚ましていた。その当時の癖が、まだ残っているのだ。  ソファから上半身だけを起こし、物音の元凶を探るべくきょろきょろと周囲を見渡す。卓上の夜光時計は、今が夜中だということを示していた。  見慣れない家具の配置。つい一週間ほど前から居候し始めた彼女の家には、いまだに慣れない。  けれど、私が寝床としているこの高級そうなソファの寝心地は覚えてしまっていた。もう自宅の──これに比べればささやかなソファには眠れないな、と。横になるたびに、そんなことを思う。 『暁美さんをソファなんかに眠らせるわけにはいかないわ』  ふと、この部屋の主のいつかの言葉を思い出す。  暁美さん専用のベッドを買いましょう。そんなことを言い出した彼女に、私はぶんぶんと首を横に振った。私なんか寝袋で十分なのよ、そう言い返しても、彼女は聞く耳を持たない。  なにせ、ベッドというものは高い、高いのだ。一人暮らしのためか、貧乏性が身についてしまった私には、買おうという気すら起こらない代物なのに。  ならばせめてソファで、と妥協案を提示すると、数十分の討論の末、ようやく彼女が折れて今に至る。  先ほどの物音は気のせいだったのだろうか、部屋は何事もなかったかのように静まりかえっている。夜中だから、それも当然だ。  ふ、と息を一つはき出し、再び身体を横たえる。私をやさしく受け止めるように、ソファが軽く沈み込む。  ふと。聞こえた苦しそうな息遣いが、眠りの世界へ没入しようとしていた私の頭を引き戻した。  くるりと視線をベッドが位置するであろう場所に向ける。人よりも夜目が利く私の目はすぐにそれを捉えることができた。 「く……ん、」  ああやっぱり。どこかでそう思った私は、物音の正体を始めから知っていたのかもしれない。それでも、今日は違うはずと思い込みたかった。  とすん。ソファから下りると、カーペットが足音を吸収する。そのまま忍び足でベッドへと近付けば、巴マミがこちらに背を向けるように横になっているのが見えた。  ベッドサイドに静かに腰を下ろす。きしりと小さく音を立てるスプリング。  彼女の顔を覆っている髪をそっと掻き分ける。眉を寄せ、なにかに耐えているかのような表情が露わになる。 「…ごめん、なさい…」  つ、と伝う雫。そうして彼女は謝り続ける。なにかに対し、しきりに謝罪を続けるのだ。ごめんなさい、ごめんなさいと。  どんな夢を見ているのか、なにに謝っているのか、そんなことは私に分かるはずもない。彼女が一人で戦ってきた年月を思うと、分かってはいけない気が、した。 「…ねえ、」  呼びかけても彼女は気付かない。それはいつものこと。私の声はいつも、届かない。  そう思っていたのに。 「…あけみ、さん?」  二人しかいないはずの部屋に、私を呼ぶ声が小さく浮かんで消えた。ふと顔を覗けば、眠たそうなまぶたが、ぱちりと瞬きを一つ。暗闇の中でも映える目が、うっすらと細められる。  ごめんなさい、起こしてしまったかしら。掠れた私の声は届いたのか否か。返事がないまま、彼女が上体を起こす。 「あけみさん、どうしたの? まだ、夜中だけれど」  寝起きだからか、若干舌足らずな口調で私の名前を呼ぶ。ちらりと窓に視線を向け、陽がまだ昇っていないことを確認している。  ええそうね、あなたが変な寝言を言ってるものだから目が覚めてしまったわ──常なら浮かぶはずの憎まれ口が、喉から顔を出そうとしなかった。  言うことを利かない喉が代わりに嗚咽を洩らそうとするのを必死に堪える。  彼女の表情が、不安そうなそれに変わる。 「どうしたの」  つい先ほどまで幼子のような口調だったくせに、などと思うけれど、言葉にならない。 「ほら、おいで」  広げられた両手に飛び込むのは私じゃなく、本当は目の前のあなたのはずなのに。気付けば柔軟剤の匂いがする彼女のパジャマに包まれていた。  憎らしいほど大きい胸は、ソファよりもやわらかく私を迎え入れる。 「ねえ、暁美さん。またこわい夢、見たの」  問いかける彼女の言葉尻は、質問というよりは断定に近かった。 「また、って」 「いつもうなされてるのよ、暁美さん」 「そんなこと、」 「わたしが頭を撫でたら、少し治まるみたいだけど」  知ってたかしら、とやさしく笑う彼女に、返答することができなかった。  彼女は私が知っている限りでは毎晩、夢にうなされていた。  どんな夢を見ているのかは知らない、尋ねたこともない。けれど毎晩、涙を流し、誰かに謝罪していた。  私はそんな彼女に声をかけるのだけれど、返答はなく。ただただ彼女が何事もなく目覚めることができますようにと、手を握ることしかできなかった。  だから今日は、私の声で、呼びかけで、彼女を悪夢から少しでも救うことができたと。そう安堵していたのに。 「一体どんな夢を見ていたのかしら」  映画のあらすじでも尋ねるように、朗らかに口にされた言葉に目頭が熱くなる。  こんな私でも彼女の力になれると思っていたのに。非力な私は気付かないうちに、彼女に助けられていただなんて。  別の世界で見放した彼女の助けにならなければと、思っていたのに。 「ねえ、暁美さん」  抱きしめてくる彼女の声が、身体を伝って深く、静かに響く。いつもより低いそれに、私は顔を上げて見つめることしかできない。 「不安なときは、いつでも頼ってくれていいのよ」  わたしじゃ頼りないかもしれないけど、 「だからもう少し、」  もう少しこのままでいいかな。  そう言って私の肩に顔を埋めた彼女は少し、震えていた。 「…ねえ、巴マミ。今日はここで寝てもいいかしら」  ソファに戻るのは面倒なの。  ようやく自由に動くようになった喉から出たのはいつもの憎まれ口。それでも一人きりのソファに戻る気はしなくて。  肩の上で、彼女は微笑んだようだ。 「いいわよ。二人の方があたたかいもの」 「同感ね」  ぎゅ、と。初めて彼女を抱きしめ返し、身体を横たえた。  彼女のベッドは、パジャマと同じ匂いがした。 (人肌が恋しいだけ、よ)
 なだめつつなだめられつつ。  2012.11.18