あなたにふれていたいの、暁美さん。

「何の真似かしら、巴マミ」  呆れたような口調にふと顔を上げれば、じ、とこちらを見つめてくる夜色の眸とかち合った。思っていたよりも至近距離だったからだろうか、視線はすぐに逸らされてしまった。  暁美さんの膝に手を置き、ほんの少し身体を乗り出す。  夜色のそれを見つめているとなんだか落ち着くのだけれど、持ち主である彼女はそっぽを向くばかり。わたしの顔なんて見飽きてしまったのか、それとも恥ずかしいからなのか。わたしは勝手に後者であると決めつけているけれど。その方が嬉しいし、暁美さんらしい気がするから。  やがて疲れたように息を一つ、ようやく暁美さんが視線を合わせてくれた。細められた目は猫みたい。 「二つ。質問があるのだけれど」 「二つと言わず、いくらでもしてくれていいのよ」 「二つでいいわ、とりあえず」  彼女が姿勢を正したものだから、つられて正座してしまった。  太陽がいなくなってから随分と経ってしまったこの時間に、二人しかいない部屋で正座して向き合っているという状況がなんだかシュールで、思わず笑ってしまいそうになるのをなんとかこらえる。 「笑わないで。あなたの言いたいことは分かるから」  それでも表情に出てしまっていたようで、まつげを伏せた暁美さんはまたため息をつく。むう、そんなに顔に出てたのかしら。ポーカーフェイスには少し自信があったのに。  仕切り直しと、膝の上に丁寧に手をそろえる。 「それで、質問って」 「まず一つ。あなた、どうして私と目を合わせたがるの」 「そうね…、安心するから、かしら」  さっき暁美さんの眸を覗き込んだ時の気持ちをそのまま口にすれば、途端にばつが悪そうに俯いてしまった。なにかまずいことでも言っちゃったかしら、わたし。  でも、と。彼女にしてみれば歯切れ悪く、否定の言葉を向けてくる。 「私の目、黒いわ」 「ええ。きれいな夜色よね」 「そう、夜色」  そういえば前にも彼女の目について話したことがあった気がする。暁美さんの目ってきれいな夜色で素敵よね、そんな風に。  そうしてその時も、彼女は微笑むでも呆れるでもなく、そう、とだけつぶやいたのだ。  その表情がとても、寂しそうで、傷つけてしまったようで。 「でも。あなたは夜が嫌いでしょう」  おずおずといった風に切り出されたのは確信だった。その言葉に少し、身じろぐ。一緒に生活してもう何か月かになるのだから、気付かれていても不思議はないけれど。  けれど暁美さんの前では、もう少し『巴マミ』という先輩でありたかった。  息を一つ、吸う。 「そうね」  肯定すると、ぴくり、暁美さんが震えた。 「夜はきらい。まっくらな夜は、きらいなの」  そ、と。彼女の両頬に手を添え、視線を合わせる。夜色の眸はゆうらりと揺れ。そうしてゆっくりと閉ざされてしまった。手の平から小さな震えが伝わってくる。  かわいそうだけれど、でもこれだけは知っていてほしいから。 「でも暁美さんの眸は、まっくらな夜色じゃないわ」 「──え、」  わけがわからない、とでも言うように見つめてくる。再び顔を出した夜色は、やっぱりまっくらなんかじゃない。  夜はきらい。すべてを飲み込んでしまう暗い色は、わたしにはなにもないのだと思い知らせる。いつもはあたたかな光でわたしを慰めてくれる太陽を隠して、わたしを一人ぼっちにする。  けれど暁美さんの眸は、ちゃんとあたたかさがある。夜が明けるほんの少し前のような、そんな色だから。  夜は暗いばかりではないのだと、光がないわけではないのだと、わたしに教えてくれるような。そんな、夜色。 「だから、わたしは好きよ。暁美さんの眸」  今まで言えなかったこと──以前の『暁美さん』には伝えられなかったこと。  今、目の前にいる『暁美さん』は、このことにきっと罪悪感を抱いていたのだ。わたしがきらいな夜をまとった自分が傍にいることを。それが彼女にはどうしようもないことだとしても、なんとも暁美さんらしい。  揺れていた夜色に涙がにじむ。それも一瞬のことで、まぶたを閉じて開けば、いつもの暁美さん色だった。 「私としては、あなたの眸の方が好きだけれど」  首を傾げて、ほんの少しだけ微笑んで。 「月夜みたいな色。暗闇で彷徨っている私を導いてくれる、あたたかい光」 「…面と向かって言われると恥ずかしいわ」 「さっきのお返しよ」  なるほど、恥ずかしい。耳まで熱くなってしまっているのがわかる。氷水を頭からかぶりたい気分だった。 「それともう一つ」 「え、なにが」 「質問よ、巴マミ」  ああ、そうだった。質問を受けている途中だったことを思い出し、居住まいを正す。名残惜しいから、頬に添えた手はそのまま。 「これよ、」  手。 「どうしてことあるごとに触れたがるのか、ずっと訊きたかったの」  そっと手を離される。暁美さんのいじわる、と洩らせば、何が、と素知らぬ顔で返された。むう、もっと触っていたかったのに。  この答えは単純明快、実感したいから、だった。暁美さんが傍にいるんだということを、わたしはひとりじゃないんだということを。当たり前なのに、見えているはずなのに、触れなければ気が済まなくなる。  一息にそう言えば、くすりと、なぜか笑われてしまった。 「ごめんなさい。なんだかとても、あなたらしいなって」 「むう。なんだか馬鹿にされている気分だわ」 「そんなつもりはないのだけれど」 「なら触らせて」 「嫌」  一言だった。ばっさりだった。乙女の切実な願いをたった二文字で断られてしまった。悲しくて泣いてしまいそうだわ、そう言うと、どうぞと一言。 「…暁美さんが冷たい」 「いつも通りよ」  そう言われればその通りなのだけれど、ちょっとくらいわたしに優しくなってくれてもいいじゃない。拗ねてみせれば、子供みたいねと呆れられる。 「いいわよ、わたしまだ子供だもの」 「こういう時だけ子供ぶるんだから」  ぷいとそっぽを向く。これではまるで、さっきの暁美さんみたいだわ。そう思うけれど、意地っ張りなわたしはなかなか顔を戻すことができない。だって悔しいんだもの。  けれど暁美さんは、そんなわたしのちんけな意地さえ簡単に壊してしまう。 「ごめんなさい」  くすくすと笑いながら、そ、と頬に手が添えられる。冷たい言葉に反して、手の平はあたたかかった。暁美さんの熱が頬を通して、じんわりと全身に伝わっていく。  ば、と顔を上げれば、微笑んだ彼女と視線が合った。夜色の眸がゆるり、細められる。私、と彼女がつぶやく。 「好きよ、触られるの」  あたたかいし、それに安心するの。 「あの巴マミが──私がずっと憧れていた、傍にいることができなかった『巴マミ』が、ここにいるんだなって」  傍にいてもいいんだって、錯覚してしまうの。ぽつり、彼女が言葉をこぼす。  『暁美さん』の過去を──何度も世界を繰り返していたという話を詳しく訊いたことはない。無理に訊き出すことでもないし、いずれ話してくれると思っているから。  だから今のわたしには、彼女の心情を想像することしかできない。一体どれだけの時間を、どれだけの苦労を、ひとりで背負ってきたのかということを。  どうしてわたしは、彼女の知っているわたしは、彼女の助けになることができなかったのだろうか。傍にいてあげることができなかったのだろうか。  わたしと彼女がどんな関係だったのかなんて知らない。もしかしたら相対する存在だったのかもしれない。  けれど、細くか弱い身体を抱きしめてあげることくらい、できたはずなのに。傍にいてもいいのだと言ってあげることくらい、できたはずなのに。 「ねえ、暁美さん」  するり、彼女の手をほどき、抱きしめる。わたしなんかよりずっと華奢な身体は、突然のことにびくりと震えた。 「錯覚なんかじゃないのよ」  傍にいてほしいの。 「暁美さんに、傍にいてほしいの」  抱きしめているから、暁美さんの表情は残念ながら見えない。その代わりとばかり、そろそろと抱きしめ返された。壊れ物でも扱うかのように、消えてしまうと思っているかのように、ゆっくりと。  どうして、とつぶやいた彼女の声は、にじんでいた。 「どうしてあなたは、私が欲しい言葉をくれるんですか…っ」  彼女の過去を詳しくは知らない。どんな経緯で今に至ったのか、わたしには推し量ることすらできない。  だけどわたしには、今の暁美さんの方が大切だから。  答えの代わりに、もう一度、ぎゅっと抱きしめた。 (彼女に手を差し伸べなかった別の世界のわたしをこれほど憎む日がくるだなんて思わなかった)
 ボディタッチが多いマミさん。  2013.1.25