モラトリアムの幕引きを。

はい、どうぞ。 …あら、あなただったの。いつ来るのかしらってソワソワしてたのよ。 いえ、あなたのことだからきっと締切を過ぎることはないと思っていたけれど…。 そんなところに立ってないでいらっしゃい。 おいしいクッキーがあるの。 他の先生からのいただきものだけれど、あなたと食べようと思って取っておいたのよ。 コーヒーと紅茶、どっちがいい? ふふ、あなたは紅茶派だったわね。 前にあなたが持ってきてくれたパック、まだ残ってるのよ。 なんだかもったいなくて、ちょっとずつ飲んでいたの。 お湯を沸かすから、少し待っていてちょうだいね。 それで、どうしたの? どこかつまずく箇所でもあった? だってあなた、いつもゼミ生の誰よりも先に課題を提出するじゃない。 だから卒論もいの一番に、完璧な形で出してくると思っていたのだけれど…。 プレッシャーをかけてしまっていたらごめんなさいね。 ただ、まさか締切15分前に持ってくるとは思わなくて。 「卒論を提出するのがこわくて」…? どうして?あなたの考察はいつも素晴らしいわ、もっと自信を持ちなさい。 …そうね、これが大学生活最後の課題になるわね。 4月からは司書として働くんでしょう? 早い段階で内定もらっていたものね。 まず先生に報告したかったんです、なんて…自分のことのように嬉しかったわ。 あとは卒業を待つばかりね。 卒業、か…。 あなたと出会って、もう四年も経つのね。 最近よく思い出すのよ。そう、あなたのことを。 あなたってば、ゼミに入る前から訪ねてきてくれていたわよね。 私の論文に感銘を受けたからこの大学に決めたんです、って。 あの時のまっすぐな視線、今でも覚えてる。 私も楽しかったのよ、あなたとここで過ごした四年間が。 あなたとお菓子をつまみながら、文芸評論をしたり、小説を書いてみたり、 とりとめもなく何時間も話し込んだり…。 教師として、特定の生徒にこんな想いを抱いてはいけないんだろうけれど…、 あなたとここで共有する時間が、なによりも好きだったの。 ふふ、他の子には内緒にしていてちょうだいね。 …あら、あなたもそうだったの? それは本音?それとも単位がほしいから? ふふ、冗談よ。 最近顔を見せてくれなかったものだから、つい意地悪を言いたくなってしまったの。 ねえ。卒論、ずっと前に書き上げていたんでしょう? ギリギリまで提出しなかったのは、どうして? …「私との別れを意識したくなかったから」、ね。 ………ふふっ。ごめんなさい、あんまりにもかわいらしくて、つい。 ね、その表現の仕方、まるで私みたいよ。 ちょっと感化されすぎじゃないかしら、あなた。 とても抒情的で、魅力的な言葉で、…私まで寂しくなってしまうわ。 …私がこれを受け取らなければ、あるいは評価をあげなければ、 あなたはもう一年、ここにいてくれるのかしら。 ねえ、もう少しここで私とモラトリアムに身を委ねてみるつもり、ない? …なんてね、そんな顔しないでちょうだい。 あなたは進むことができる、いいえ、巣立たなければならないの。 この研究室は、…私は、あなたにとって単なる通過点に過ぎないんだから。 道の途中で過去を懐かしみたくなったら、いつでもここへいらっしゃい。 私はずっと、ここにいるから。 ふふ、ありがとう。 みんなそう言って、卒業して数年は遊びに来てくれるけれど…ね。 私はここで彼女たちの背中を見送るばかり。 時折どうしようもなく寂しくなるけれど、 それが私の仕事であり、ここが私の居場所だから。 …あなたも、ここ以外の居場所を見つけなさい。 …お湯、沸いたみたいね。 それじゃああなたの卒業論文を読ませていただこうかしら。 お気に入りの生徒だからって、甘い評価をつけたりはしないわよ。 あなたの最後の課題、楽しませてもらうわね。 (あなたの思い出のひとつになれれば、それでいいの)
 教授の研究室っていいですよね。  2025.1.29