主を失った名を口にするには遅すぎて、
まるで羽でも生えているみたいだった。
まさか持ち上がるだなんて思わなかったから、誰よりもあたし自身が驚きを隠せなかった。いつの間に腕力が上がったのかしら、そんなことを考えるはずもない。問題はあたしではなく、抱え上げている姉その人なのだから。
七歳か八歳くらいの女の子に高い高いをしてあげているような、そんな感覚。腕の先にいるのは間違いなく、とっくに成人の儀を終えた姉であるはずなのに。
つ、と。こちらを見下ろしてきた姉の氷色の眸が細められる。
姉の眸に映っているのは紛れもなくあたしなのに、あたしの眸にとける姉は姉でないような気がして。そもそも本当に像は存在しているのか、と。どこからか投げられた疑問を振り払うには、いまのあたしは揺れ動き過ぎていた。
「ねえ、アナ、私はしあわせものね」
眸が悲しみに染められていく。もっとぬくもりを持っているはずの氷色が段々と凍っていく錯覚に襲われて思わずまたたいた、色が戻るはずもないとどこかで知っていながら。
「だってもう、会えないと諦めていたのに、」
眉を下げる姉が見るからに幼さを帯びていく。退行、と。名前を見つけるのは簡単でも、だからといってすぐに理解できるわけがなかった。
あたしはただ、肘を目一杯伸ばした格好のまま、落ちてくる言葉を受け止めきれず端からこぼしていくことしかできなくて。
「もう、ごめんなさいの一言も伝えられないと思っていたのに、」
面影を残しながら、姉はどんどん少女へと姿を戻していく。それはきっと、あたしが見ることのできなかった少女の姿。扉の向こうで膝を抱え力に怯えていた頃の、姉そのもの。
そうして少女は重さ相応の年齢へと落ち着いて。あたしが一番記憶に残していたその姿に、縫い止められたままのくちびるを開いて、だけど乗せるべき言葉はどこにも見当たらなくて。
「だけどまた、こうして出逢えた。謝ることもできた。それに、」
それにね、
「愛を伝えられたわ、あなたに」
氷色の小さな眸からぽろぽろ、ぽろぽろ、雫がこぼれていく。まるで眸をそのまま取り出したみたいなそれは生まれた瞬間に丸い氷となって、床に軽やかな音を残す。
「─…あいしてるの、アナ。あいしているのよ」
その身には大きすぎるほどの愛が、降ってきた。これまで送られてきたたくさんの言葉よりもあたたかな想いに包まれたというのに、あたしの心は反して嫌な予感に冷めていくばかりで。
頬に向かって伸ばされた指先はけれど、幼い腕には遠すぎた。
「これまでも、これからも、あいしているわ、」
「、まって、」
ようやく動いてくれた腕を、胸にかき抱いて、──ぬくもりは、なかった。
立っていられなくなってその場に座り込む。おそるおそる、腕を広げて。舞い上がった雪の結晶は、どこかで見た色をしていた。
あたしはまだになにも伝えていないのに。ごめんなさいも、ありがとうも、姉が最期まで口にしていた想いも、なにも。
止まっていた心が動き出す、悲しみへと。ぼろぼろこぼれていく雫に視界が奪われ、結晶たちがかたちを失っていく。
耳にはまだ、いとおしそうに呼ばれた名前が反響しているというのに。姉の姿は見当たらなかった、もう、どこにも。
(あたしはまだ、姉さんの名前さえ呼んでいないのに、)
想いは届けられなかった。
2016.3.20