せめてこの恋を閉じ込めたまま笑っていたかった。
「姉さんは、さ、」
なんとも歯切れの悪い滑り出しに思わず書類から目を離す。こうして顔を上げたのは久しぶりかもしれない。ずっと同じ体勢でいたためか、首の後ろが突っ張ったように軋む。
ひとり分の距離を置いた先、執務机の対面には背を向けた椅子が一つ。その背に腕を預けた妹は支えた顔を傾け、ちらとこちらを窺ってくる。その眸がどうにも揺れているように見えて、これまた持ちっぱなしだった筆を手離した。
「結婚。しちゃうのよね、いつか」
寂しそうにこぼされた言葉はひどく、心に吹き抜けていく。
きっといつか他にも愛する人ができるかもしれない、この国を継ぐべき子供も育てなくちゃいけない、姉さんはもっとしあわせにならなくちゃいけないのよ、と。妹が言い訳みたいに挙げ連ねる言葉たちはまるで、知らないそれのようだった。目の前で言い募る彼女以上に愛を捧ぐ人など、心を奪われる人など現れようがないというのに。あなたがいればそれだけで私は、この世界中の誰よりもしあわせだというのに。
息を、一つ。ため息を微笑みに変える術はもう、持っていた。
「いいえ、そんなつもりはないわ」
「でも、」
「お見合いの話ならとうにお断りしたの」
「…ほんと?」
ぱあと、見るからに輝いた顔に、予想は当たっていたのだと確信する。
小国といえども豊かな資源を目当てに婚約を求む書状が跡を絶たないことは、妹の耳にも入っていたのだろう。だからこそ恐らく、結婚、なんて単語が出てきたわけで。
筆を手にして、再び書類と向き合う。普段通りに、淡々と業務をこなす女王を纏って。
「ああよかった! てっきりあのたくさんの人からもう誰か選んでるんじゃないかと思って!」
「会いにも来ない殿方なんてお断りよ」
「その基準で言えば、あたしはしあわせ者ね、だって、」
ひたと、一瞬、眸を閉ざす、まるで恋でもしているみたいな妹の表情から目を逸らすために。
「毎日クリストフが会いに来てくれるんだもの!」
筆先が、止まる。
できれば彼女が目の前から去っていくその時まで閉ざしていたいのだけれど、いい加減開いて平静を装わなければ勘付かれてしまう、心優しい妹に要らぬ心配をかけてしまう。
息を、吸って、色が戻る、眩しい白。
「─…あなたたちがいれば、世継ぎの心配もないわね」
「もう、エルサってば、気が早いわよ」
ああ、どうかそんなに声を弾ませないで、あなたの表情が容易に想像できてしまうから。きっと頬をかわいらしく染めて、うれしそうに眉尻を下げて。それは私に向けてくれるものと似ていて、けれどもう、私ひとりのものではなくて。
わかっていた、はじめから、この想いが報われることはないのだと。なによりも彼女のしあわせを願わねばならないことくらい。わかっているのよ。
文字が震える。気付かないまま、妹の話は続く。彼がソリで遠出しようって誘ってくれたの、これってつまりデートってことよね、なに着ていこう、たまにはうんとかわいらしくしてみようかしら──耳を、いっそ切り落としてしまえたら、これ以上心が締め付けられることもないのに。
顔を上げる、首の後ろがきりきりと痛む、まるで視線を上げたくないのだと叫ぶように。
それでも私は微笑んだ、心を隠す術はもう、知っていたから。
「──アナがしあわせなら、私もしあわせよ」
(気付かないで、どうか、私だけの想いにさせていて)
なによりもこの距離を壊したくはなかったから。
2016.4.28