あるところにしあわせな王女さまがいました。
あたしはいつも笑顔でなければならない。
城内を元気に駆け回り、天高く歌声を響かせ、誰に対しても慈しみの心を忘れずに。そんなお転婆王女に、城仕えも国民も口を揃えてこう言った、毎日楽しく過ごす王女さまに我々は元気を与えられているのです、と。きっといつだって、おしあわせなのでしょう、と。
だからあたしはいつも、しあわせでなければならない。
「アナ、」
ふ、と。かけられた声に、意識を引き戻される。視線を上げてみれば、いつの間に部屋に入ってきていたのか、顔を覗き込んできていたお母さまが細い眉をひそめていた。
「ごめんなさい、ノックしたのだけれど返事がなくて」
「ああいいのいいの、あたしこそごめんなさい、気付かなくて」
どうやら思考を飛ばしてしまっていたらしい。心配そうなその表情を和らげたくて、すっかり引きこもってしまった笑顔を取り出し貼り付けた。口を大きく横に結んだ、とっておきの笑顔。これを見た人たちは決まって、楽しそうですねとあたしと同じそれを浮かべてくれる。だからお母さまだっていまにきっと優雅に微笑んでくれるはず。
そう思っていたのに、お母さまの表情はますます曇っていくばかり。眉が困ったように寄っていく。
どこかで覚えのある表情だけどそれが、姉さんがよく浮かべているものに酷似していることに気付くのに随分とかかってしまった。だって姉さんとは、しばらくまともに顔を合わせていないから。
正式に王の座を退いたお父さまから日々、女王としての教育を受けて、その上公務にまで取りかかっている姉さんに会えるのは、廊下か食事のときくらい。夕食だって忙しなく食べてまた仕事に戻ってしまうし、前者にいたっては偶然ばったり顔を突き合わせたなんて表現した方が正しかった。
とにもかくにも、実の姉の表情一つ思い出すのに時間がかかるほど、あたしは姉さんに会えていなかった。不満はない、だって仕方ないもの、気ままなあたしと違って姉さんはこの国を統治する女王なんだから。
だからあたしは、いつだって難しい表情を浮かべる姉さんに、ひととき顔を合わせたときでも笑ってほしくて、笑みを取り出す。無邪気と元気で飾ったそれを。
そんなあたしにつられて姉さんも、そうしてお母さまもお父さまも、楽しそうに笑ってくれるのに。
「ねえ、アナ、あなたはいま、しあわせなのかしら」
「…なに、」
表情を崩さないまま、かけられた言葉に返すべきものを見失う。
しあわせかどうか、なんて、一目でわかりそうなのに。だってあたしはいつも、どんなときだって笑顔を絶やさない。快活と元気さとそれから笑顔で彩られた王女を保っている。誰が見たって、いまがしあわせで仕方がない王女であるはずなのに。
実の母は問う、しあわせなのか、と。まるで娘の表情を、娘そのものを疑っているみたいに。
「なに言ってるのよ、しあわせに決まってるでしょ」
詰まった言葉の続きをようやく取り出し、早口でまくしたてる。
嫌われていると思っていた姉と分かり合うことができた、還らぬ人となったはずの両親が元気に戻ってきてくれた、ただそれだけで、それだけの事実があるだけで、あたしはしあわせなのに。これ以上のしあわせを望んではいけないのに。
だというのにお母さまは眸を覗き込んでくる、その先にあるなにかを透かそうとしているみたいに。
あたしはいつも笑顔でなければならない。だってそうでないとみんなに心配をかけてしまうから。姉さんのことで手一杯の両親にはきっと、あたしを気にかける余裕なんてないだろうから。不安も寂しさも全部笑みで覆い隠さなければならないの。
あたしはいつもしあわせでなければならない。だってそうでないと感情に押し潰されてしまいそうになるから。しあわせなのだと信じ込まないと途端に、すべてが表に出てきてしまいそうだから。だからあたしは答えを返す、しあわせなのだと。
水面色の眸がふと、姿を隠す。一体それが誰と似た色だったのか、もう思い出せずにいて。
「だってあなた、──笑えていないじゃない」
心が、晒された気がした。
あたしはいま満面の笑みを浮かべていたはずなのに。誰も彼もつられてしまうような、そんな表情だったはずなのに。これ以上笑いたくないと軋む心を引っ張り出された感覚に背筋が凍る。早く元の表情を取り戻さければとあちらこちらを探してみるのに、そもそもどんなそれであったのかさえわからない。
水面色がくしゃり、雨が降っているみたいに揺れる。そうしてお母さまは、ベッドに腰かけたままのあたしを覆うように抱きしめてきた。
視界がじわり、じわりとにじみを広げていく、まるであたしの眸の中にも雨が降り注いでいるかのように。勢いを強めたそれの止め方を知らなくてついに、端からぽろぽろとこぼれ落ちていった。心配させてしまう、気遣わせてしまう、そう思えば思うほどたくさんの雫が流れてしまって。
「ごめんなさい、アナ、無理をさせていたわね」
やさしい声が身体を伝って染み渡っていく。あたしにだけ向けられた音が傘を差してくれる。
無理に笑わなくていいのだと、お母さまは言う。泣きたいときにはこうして抱きしめてあげるから、昔みたいに背を撫でて、ママがいるわよと。
無理にしあわせを演じなくていいのだと、ママは言う。寂しいときに陽気な歌を口ずさまなくていいし、元気に走り回らなくてもいいのだと。
ならあたしはどうすればいいのか。自然にのぼる笑顔を、知らず覚えるしあわせを忘れたあたしは一体、どうすればいいというのか。
「わがままになればいいの」
ひっそりと、まるで最初から用意していたように当然に、声が落ちてくる。
「甘えていいのよ、アナ」
かけられた言葉が、震える心をあたたかく包み込んでいく。
ひとりぼっちが寂しいときは姉さんの下へ足を運んでいいのだと、誰かのぬくもりがほしいときはお父さまに抱きしめてもらってもいいのだと、そうしてこわくて眠れない夜にはお母さまに物語を読み聞かせてもらってもいいのだと。
「だってあなたも、わたしたちの大切な娘なんですもの」
おぼつかない両腕をようやく、お母さまの背中に回す。それだけ、たったのそれだけで、それまで背負っていたなにもかもが重さをなくしていくようだった。もう無理に笑わなくてもいい、しあわせを謳わなくていいのだと、ようやく、理解できて。
ぽんぽんと、まるで昔のように背中を撫でてくれるお母さまはそうしてぎゅ、と距離を詰める。
「あなたがあんまりにも甘えてくれないから、パパとお姉ちゃん、拗ねちゃってるのよ」
くすくすとこぼされるそれにつられて扉に視線を移してみれば、歪んだ視界にたしかに、お父さまと姉さんの姿があった。公務に勉強に教育にと忙しいはずのふたりが揃って扉から顔だけを覗かせ、心配をありありと眉に乗せている。忘れていたはずの表情を目にして、雨はますます激しさを増していく。
「ね、アナ、」
まるであたしとお母さま、ふたりだけの秘密にするみたいに、落とした声で囁かれる。
「──これからみんなで、しあわせになっていきましょうね」
「─…うん」
偽りを取り去ったあたしはようやく、それだけを返した。雨はまだ、止みそうになかった。
(あたしを見てくれている人が、こんなにもいたんだって)
妹はきっと甘え下手。
2016.5.22