太陽も月も空もなにもいらないから、

 いい思い出なんてあまりなかった。夢の中での話なのに思い出、と呼ぶのもおかしな感覚だけれど。唯一安息できる時間であるはずなのに、私にはいつだって安らぎは与えられない。  バリエーションはそんなに豊富ではない。雪の中でただひとり佇んでいるか、制御できないほど強大になりすぎた力がすべてを呑み込んでいくか、それとも過去の回想か、そればかり。もう何度傷付けてしまっただろうか、数えるのはもうやめた、自身を、夢でしか出会えない大切な妹を。  夢の届かない深くまで沈もうとするのに、それはしつこいほど追いかけてくる。晒されたくもない浅い場所に引き上げられて、無理に悪夢に連れられ、そうして今夜もひとり、降りしきる雪の只中に立ち尽くしていた。一面銀世界であるはずなのに、ともすれば薄黒く汚れたそれらが私を覆ってしまうような錯覚に襲われるのはいつものこと。  寒さを感じないのは現実でないからか、それとも感度さえ死んでしまったのか。答えなんてとっくに知っていた。いまはただ、早く覚めてしまえと眸を閉ざして。 「エールサっ」  ぐん、と。手を引っ張られた。勢いのままに身体が傾いでいき、次いでやわらかな感触に包まれる。息ができなくて顔を上げ視界をオンにすれば、まず鮮やかな白が飛び込んで、そうして声につられるまま隣を仰いで見えたひまわりのような笑顔にまたたきを一つ。  悪戯が成功した子供みたいな表情を向けてきているのは間違いなく、私の妹だった。どうして、なんて問いは言葉にならない。どうしてこの世界にいるのか、こんな殺風景な場所にはいつだって私しか存在していなかったのに、なんて。夢の中の内容に疑問を抱いたって仕方がないというのに。  きっと間抜けにも呆けた顔であろう私に、えへへ、と。真っ赤に染まった鼻頭をそのままに妹は笑った。 「もう。探したのよ」 「探した、って」 「今日は特別な日なんだから一緒に過ごそうって、前から言ってたじゃない」  特別な日、とは。検索をかけてみるけれど該当するものは一つも──いいえ、ただ一つだけ。この世界とは違う、たしか現実での話。目の前で雪にまみれたその人が繰り返し私に向かって告げていた言葉だった。毎年やって来る、なんてことない日だというのに、特別な日にするのだと楽しそうに話していて。  そうだ、今日は、 「だって今日は、」  ***  陽射しに促され、世界を開いた。天井を見上げたそのままの体勢でまたたきを一つ、二つ、その間に脳を覚醒させようという試みは無事成功して、ようやくここが現実であることを認識できた。  肌寒い感覚に身体を震わせる。雪でも降っているみたいな、きんと張り詰めた寒さだった。  相変わらず自分で生み出したものに冷たさを感じることはないけれど、自然が作ったそれらに鳥肌を立たせるようになったのは最近のこと。あまり覚えのない感覚は心地良い。心地良いのだけれど、だからといって子供の頃のように寝間着のままはしゃぎ回ることはできなかった。なにしろ寒い、寒いのだ。それだけで、ベッドから出るのが億劫になる言い訳に十分成り得る。  昨日のうちに仕事はすべて片付けたし、今日はもう少しだけ惰眠を貪っていても誰かが起こしにくるなんて無粋なことはしないだろう。そうひとり結論付けて毛布を引き上げようとするも、なにかの重みでそれが叶わなかった。早くも閉じていたまぶたを無理に押し上げ、ごろりと寝返りを打ったところで出会った誰かに思わず声が飛び出しそうになる。 「っ、…アナ?」  くちびるに手を当て、けれどそれだけ発しても、名前の持ち主である彼女が薄氷色の眸を覗かせることはなく。規則的に聞こえる安らかな音は、妹が無事眠りの世界に落ちていることを示していた。昔とちっとも変わらない寝顔に、けれどどうしてここへと。つい先ほどもどこかで抱いたような疑問が胸に湧くのも仕方がない。  私たちの親友である陽気な雪だるまの愛する季節は移ろい、それに伴って妹が暖を取りに来る回数が増えた。雪と氷しか生み出せない私の下へ来たってあたたかくなるわけでもないのに、気にしない気にしない、などと誤魔化しながら主よりも先にベッドに侵入、ほらエルサも早くおいで、だなんて隣をぽんぽんと叩いて誘い、そうして潜り込んだ私を思いきり抱きしめて眠る、というのが普段の流れ。だから件の妹の顔が寝覚めに見えたからといって別に驚くべきことではないのかもしれない。  けれどそれなら寝間着のままであるはずなのに、毛布もかけず私を抱きしめている妹はいつだったか誕生日にプレゼントした服装である。それに髪だってきちんと結い上げられているのだから、一度自身の部屋で起きて、身支度を整えここを訪れたと考えるのが妥当だろう。  納得し終えて、息を一つ。筋道を立ててしまえば、妹の描いたその先も簡単に見通せた。特別な日にするのだと、彼女の誕生日に贈った歌をそのまま声に乗せる妹の言葉に期待するのであれば。  ゆるり、綻んでいく頬を止められない。妹と同じ体温を持たないわたしの心にこんなにもぬくもりを与えられたというのに、抜け出せない悪夢から拾い上げてくれたというのに、どうしたって妹の想いが嬉しいはずなのに。にじんでいく視界を止められなかった。  ひとりきりだった、私はただ、誰もいない場所で、最初から孤独だったのだと言い聞かせるしかなかった。そうして身に余る力を持ち過ぎたばけものを抱きかかえて、感じもしない寒さに怯えるしかなかったのに、彼女は、妹は、そんな私の手を引っ張ってくれた。忌むべき力の塊に飛び込んで、震えるほど冷たいだろうにそれでも笑顔を絶やすことはなくて。本人に伝えたところできっと、でも夢の話じゃない、だなんて笑われてしまいそうだけれど。けれど絶望しか運んでこなかった夢さえ彩ってしまえるのは誰であろう、はにかむ彼女しかいなかったから。  下敷きになった毛布を引きずり出し、かわいそうなほど冷え切った身体にかけようとしたところでぱちり、薄氷色と視線が合った。またたきを一つ、二つ、三つ目でようやく寝惚け眼を追いやって、それから窺うように口を開く。 「…もしかして、もしかしなくてもあたし、寝ちゃってた?」 「それはもうぐっすりと」 「もうっあたしのばか!」  勢いよく上体を起こした妹は、せっかくの計画が台無しだわ、だとか、サプライズがまさか最初から失敗するだなんて、などと眉をひそめて思いきり自身を恨んでいるようだった。事前に口にしていた時点でサプライズもなにもあったものじゃないと教えてあげるのはまた今度にしよう。  そうしてひとしきり後悔を終えた彼女は、毛布から出したままだった私の手首を掴んで思いきり引き寄せた。勢いにつられて同じように上体を起こせば、間近に迫った薄氷色がきらきらと輝いていた、これから起こることを予感させるように。 「さあ起きてエルサ! 今日はエルサにとって、特別な日になるんだから!」  歌うように告げられた言葉に、流れたそれをそのままに微笑んだ。もうたくさん貰っていたから、プレゼントを、受け止めたってまだあふれていってしまうほどの愛を。  もう十分しあわせよ、アナ。舌で転がした声は、宛先である彼女が奏で始めた歌に紛れていった。 (だってあなたがいてくれるだけでこんなにもしあわせなんだもの)
 我らが女王陛下のご生誕を祝って。  2015.12.22