ひだまりのうた。

 あなたが生まれる前のことを覚えている。  随分と大きくなったお母様のおなかに耳を澄ませると、こつんと、内側から叩いたような音。きっとお姉ちゃんに挨拶してるのよとお母様は笑う、いままで見てきたどんな表情よりも素敵なそれで。  おねえちゃん、おねえちゃん。  その響きがくすぐったくて、嬉しくて、自分で何度も転がす。そうすることで自然、実感が浮かんでくるようだった。  なまえは、尋ねると、まだ悩んでいるの、とお母様。エルサはどんな名前がいいと思うかと。逆に問われても、迷うことなく私は答えた。みんなをえがおにするような、そんななまえがいい。  あなたが生まれた日のことを覚えている。  長い長い時間の末にようやく通された部屋のベッドで、あなたはお母様にやさしく抱き止められていた。  お父様に手伝ってもらいながら―そのお父様自身も頼りない手つきだったけれど―小さな小さな妹を抱き上げた、その瞬間の喜びは、言葉をたくさん知っているいまでも言い表すことなんてできない。  まだ目も開いていない赤ん坊に顔を寄せて、はじめまして、わたしがおねえちゃんだよ、って。そう囁きながらも、初めて会った気はしなかった。だってあなたとは、おなかにいるころからもう何度もお話して、そうしてせっかちなあなたは夢の中に現れては私と遊んでくれたのだもの。  なまえは、なんて、訊かなくても最初から知っていた。響きを、紡ぎ方を。  アナよと、横になったまま眩しそうにこちらを見上げているお母様が答えをくれた。あな、アナ。耳が聞こえているかもわからないあなたに向かってそればかり、繰り返すたび、笑顔が広がった。  あなたは私たちのしあわせそのものだった。  あなたと過ごした日々を覚えている。  叱られては頬をふくらませ、転んでは顔をくしゃくしゃに歪めてと、ずっと見ていても飽きないくらいによく変わる表情だった。けれどどんな色を浮かべていたって、最終的に顔を覗かせるのはやっぱり笑顔。  きらきらと水面みたいに輝く眸が、どこまでも伸びる頬が、動きに合わせてふわふわと浮く髪が、私をおねえちゃんと呼ぶそのくちびるが、あなたのなにもかもをいとおしく思っていたなんて、きっと知らないのでしょうね。お互いにいたずらっ子で強情張りな私たちが喧嘩をしないことはなかったけれど、それでも嫌いになってしまうはずなんてなくて。  あなたと一緒にいられるだけで、ただそれだけで、私の世界は光に照らされていた。  あなたと離れていた期間だってもちろん覚えている。  忘れるはずなんてない、だってあなたのことを考えていたんだもの、毎日毎日そればかりを。制御できないほど強力になり始めた自分の魔法に心が落ちて、けれど庭で動物や木々にあの笑顔を向けているあなたを窓から見つけて、やっぱりできなければならないのだと、一日でも早くあなたと、また昔みたいに会って話してそうして笑いかけてほしいのだと。ただ、そればかりを思っていた。  あなたと再会した日を覚えている。  重く圧し掛かっていた戴冠式を終えた夜、私の気持ちはただ、あなたへと向かっていた。忌むべきそれをまだ完全に抑えられるわけではないから触れることはできないけれど、それでも近くに立っている、少し乱れた息遣いが聞こえる、昔と変わらないふわふわとした前髪が見える。これほど心が躍ることは、この十何年間あるはずもなかったから。 「とても、綺麗ね」  意を決して落とした言葉は無難すぎて。けれどようやく振り向いてくれたあなたは、僅かに緊張の色を浮かべながらも言葉を返してくれた、エルサの方がもっとずっと綺麗、と。そんなお世辞、いつの間に覚えたのかしら。  もう数えるのもやめてしまったほど久しぶりに会ったあなたは、当たり前だけれど想像していた以上に成長していて。顔つきも、仕草も、身長だって、きっといつか私を越えてしまうのね、そんな寂しさにも似た喜びさえ心をあたためて。 「チョコレートだ!」  くすくすとこぼしたそれは、変わるはずなんてなかったけれど。  あなたが冷たさに消えたあの時を覚えている。  最期の吐息をこぼしたあなたが、私の目の前で動きを止めてしまったあなたが、見ないことがなかった笑顔を忘れてただなにも映すことができなくなった眸を見開いてそこにいた。  私の心まで凍ってしまったような、そんな錯覚。いいえ、きっと錯覚なんかではなかった。幼いあなたに魔法をぶつけてしまったあの日から、私のそこはどんなものよりも冷え切ってしまっていたのだ。知っていたはずなのに気付かないふりをしていたから、ばけものである自分に目を向けようとせずただ愚かにも妹とまた一緒にいられる未来を願ってしまったから、だから罰が下されたのだ。  ようやく真正面から出逢えた妹を抱きしめる、その身体が体温を返してくれることも、抱き寄せてくれることもなくて。  どうせ赦されないのなら、こうなるのは私でなければならなかったのに、私が命を終わらせるべきであったのに。こうして妹の笑顔を消す存在でしかない私なんかが願ってはいけなかったのに。  あなたに愛をもらったその瞬間を覚えている。  姿を、あたたかさを、表情を取り戻したあなたがぎゅ、と抱きしめ返してくれて。胸の内にゆるり、ぬくもりが溢れて止まらない。あなたがいとおしくてたまらない。愛なのだと、あなたが教えてくれた。あいしているのだと、あなたが伝えてくれた。それだけ、そのたった一言だけで、忌まわしい力も凍った心も私の存在のなにもかもを赦してもらった気がして。 「できるはずって言ったでしょ」  そうして私に向けてくれたずっとずっと望んでいたそれに釣られて、口元に微笑みが上っていく。  やっぱりあなたは、昔以上に、私のしあわせそのものだったの。  昔話を終え、立ち上がる。  小高い丘に位置するこの場所からは、海に囲まれた王国がよく見えた。妹と、それにお父様もお母様も大好きだった場所。もちろん私も例には洩れないけれど、訪れたのは随分久しぶりだ。  それまで顔を覗かせていた太陽も隠れて、ただ冬の気配を感じさせる風だけが冷たく吹きすさんでいた。妹の隣で無条件に与えられていたぬくもりなんて最初から存在していなかったみたいに。けれど確かにあったことを知っている、心がどうしようもなく覚えている。  振り返ってふと微笑んだ、あなたに教えてもらった表情で。 「ここに置いていくから、しばらく預かっていてもらえないかしら」  笑顔を、思い出を、しあわせを、ぬくもりを、あなたがあいしてくれたなにもかもを。置き去りにしていくからどうか覚えていてほしい、私がずっと想っていたことを、あなたのことしか考えていなかったことを、あなただけをあいしていたことを。  花束を手向ける、昔贈った太陽の花を。 「ねえ。あいしてるわ」  そ、と。あなたが何度も向けてくれた言葉を、私のすべてをこめて返す。音にするのはこれで最後。  二度と来ることはないであろう景色を目に焼き付けて、踵を返した。あなたに再び会えるのはもう少し先のことかもしれないけれど、離れていた期間を思えばそんなに長くはないはずだ。  なにもかもを忘れても、ただあなたのことだけは覚えているから、ね、アナ。 (覚えている、あなたとの時間を、空間を、笑顔を)
 どれだけ離れていてもただ、あなただけを想っているから、  2015.10.16