ねえ、きいて、

 世界がぐらぐらと揺れている。いいえ、もしかしたら揺れているのは私自身なのかもしれない。そのどちらとも判別がつかないほど世界は不明瞭で、曖昧で、これはもしかして現実ではないのかもしれないなんて、そんな考えがふと頭をもたげてくる。果たして夢なのか、それとも覚醒しているのか。確認しようにも頭は沸騰してしまったみたいに熱を持っていて、浮かんだ思考を端からとかしていってしまう。  このままなにも考えられなくなっていって、行き着くのはきっと永遠の、 「ただの風邪ね」 「ひぁっ、」  不機嫌そうな声とともに額に冷たさが降ってきて、思わず声を上げてしまった。またたきを一つ、もう一つと繰り返していけば、徐々に視界がクリアになっていく。そうして良好になればなるほど、妹の不服そうにふくらんだ頬もはっきりと見えてくるわけで。 「よくもまあこんな高熱で公務がお出来になっていましたね、陛下」  含んだトゲごと私に向けられた言葉に返すものはなにもなくて、ただシーツを引き上げる。  アナはどうしてこんなにも怒っているのだろう。一昨日から体調が悪かったことを隠していたからなのか、夜遅くまで書類を片付けていたからなのか、無理しちゃだめよと釘を刺されていたにも関わらず遠方へ出掛けたからなのか、城へ帰ると同時に倒れたからなのか。心当たりがありすぎてどれが原因なのか見当もつかない。 「全部よ、全部」 「…ど、して」 「あのねエルサ、考えてることが顔に出ちゃってるのよ」  どうして私の考えが分かるの、そんな疑問をかすれたのどが音にしてくれなくて、断片的なものばかりが口からたどたどしく飛び出していく。けれどもアナはそのすべてを見透かして、呆れたように答えを与えてくれた。  そんなに私、表情に出ているのかしら。ポーカーフェイスには自信があったはずなのに、こんなことでは外交はやっていけない。この前は国を危険に晒して、いまはだれよりも守るべき妹に迷惑をかけて、そのうえ表情を押し隠すことさえできないだなんて、どこまで女王失格なのだろう。 「ほら、またネガティブになってる」  細い指が伸びてきて、眉間を少し強めにこする。さっきまでタオルをしぼっていたアナの指は普段の、陽だまりみたいな体温を失っていた。熱をはらんだ顔にはちょうどいいけれど、冷たさにわずかに震えているそれの原因を作ってしまったことが申し訳なくてまた、眉を寄せた。  ごめんなさい、アナ、ごめんね。  はき出せない謝罪がぐるぐる頭を巡る。ついには涙腺にまで作用しはじめたみたいで、視界が水で満たされ、曖昧な世界がその姿を取り戻していく。 「ああもう、泣かないでよ」 「ごめ、…なさ、い…アナ、こんな、わたし、で」 「わかった、わかったから」  言葉が詰まるのはのどが痛むせいなのか、あふれ出してしまった涙のせいなのかももうわからなくて、私はただ壊れたオルゴールみたいに、同じ言葉を繰り返す。  ごめんなさい、アナ、こんな姉でごめんなさい。あなたに迷惑ばかりかける姉でごめんなさい。もっと強くありたかった、あなたのように、なにもかもを守れる私でありたかったのに。  謝罪の半分も形にならなくて嗚咽を洩らすばかりの私に、わかってるよと、やさしい声音でアナは相槌を打ってくれる。こぼれ落ちては結晶へと変わっていってしまう雫だったものをぬぐい取って、わかってるから、と。 「ほら、お医者様が薬を煎じてくれたから、これ飲んで元気になろ」  背中に腕が回り、上体を起こされる。片手で薬包紙を持ったアナはそのまま、私の口に流し込んだ。苦さに思わずむせそうになったところへすかさず水が運ばれ、なんとか飲み下す。  けれどきっと、もう治らないのだ、この病は。  だっていつもはアナの熱を奪う側である私がこんなにも熱を持ってしまっているんだもの。揺らめく世界の中で妹の存在さえおぼろげに映りはじめてしまったんだもの。このまま覚めない眠りについて、そうして私が生み出した熱によって跡形もなくとけていってしまうのよ。  それでいい、なんて、以前の私なら思えていたはずなのに。襲い来る睡魔に抗うことなく、まぶたを閉じていたはずなのに。 「ねえ、エルサ。エルサが完璧な姉だったら、あたしなんて必要なくなっちゃうじゃない」  乗せていたタオルを取り去り、こつんと額を合わせる妹に、私はまだ、伝えていない。なんにもわかっていない妹に、伝えなくてはいけない。全部とは言わないから、せめて半分でも言葉にしなければ、私はまだ、消えることができない。  力の入らない手を叱咤して、アナの頬に添える。そこからも冷たさを感じてしまうほど、私の身体は体温を上げていた。早く、はやく。空回りばかりしようとする心を押し留めることもできないまま、アナを引き寄せる。鼻の頭が触れ合ってようやく、妹の薄氷色の眸がはっきりと映った。 「ね、アナ…わたし、ね、最期に、伝えたいことが、あるの」 「最期、って」  私の言葉に、それまでされるがままだったアナの表情が明らかに怒りを含んだそれに変わる。けれどここで中断されるわけにはいかない、私にはもう、時間がないの。閉じようとするまぶたを押し上げているのも、絶えていこうとする声をかき集めるのも、限界を迎えようとしていた。 「わたし、ね、あなたのこと、とてもすきなの。こんな言葉じゃ言い表せないくらいに。すきよ、アナ、すきなの」  口にしてしまえばそれは私にとってとても当たり前で、けれど彼女にはきっと、今まで一つも伝わっていなかった事実。それでもまだ、足りない。十三年分の、そしてこれからも紡いでいくはずだった想いを語るには、私が持ち得る語彙すべてを注ぎ込んだって足りないの。  ねえ、どうすれば伝わるのかしら。どうすればあなたにわかってもらえるのかしら。たとえば私が完璧だったとして、あなたがいなければそれはきっと私ではないのに。たとえば私を映す澄んだ眸を、私とよく似たその色を、軽やかな歌声も私の名を紡ぐ声も空気を震わす呼吸もあなたがこぼす音すべてをまるごと飲み込んで私のものにしたいのに、なんて。姉のそんな愚かな想いをさらけ出すには、一体どうすればいいのかしら。  それらすべてを残すことができるなら、汲み取ってもらえるのなら、私はあなたに触れるこの指を、あなたを見つめるこの眸を、あなたの名を呼ぶこの声を、この呼吸さえ捧げたっていいのに。 「あたしもよ、エルサ。当然じゃない」  半分だって言葉にしていないのに、その返事だけで、泣き出すみたいにくしゃりと崩れた笑顔を向けられただけで、私は満足してしまう。私のことはなんでもお見通しな妹にもうすべて伝わっているのではないかと期待してしまう。  きっと想いの深さまでは理解していないはずなのに、どれだけ私があなたを想っているのか、わかってはいないはずなのに。  それでも世界から隔絶しようとするまぶたを維持する力がもう残ってはいなくて、私はそっと、触れていた指を離す。 「ねえ、アナ、きいて、」  どうかあなたの中に残る私はきれいでありますように。そんなひとかけらの想いといっしょに最期の言葉を紡いで、まぶたの裏に妹の姿を閉じ込めた。  ***  言いたいことをはき出して安心したのか、それともようやく薬が効いてきたのか、ゆるゆるとまぶたを閉じたエルサはやがて小さな寝息を立て始めた。それとともに室内に気温が戻ってきて、あたしのはく息もようやく色を失っていく。  きっと意識が朦朧としていたエルサは気付かなかったかもしれないけど、彼女が意識を保っている間ずっと、部屋の中だというのに雪が舞っていたのだ。うっすらと床に降り積もっていたそれらも、主が意識を手放したせいかあっという間に姿をなくしていく。  ほうと、息を一つ。あれだけ見えていた白はもう窺えない。 「ね、エルサ。あたしがなにも分かってないって、そう思ってるんでしょ」  前髪をかき分けてもう一度、額を突き合わせれば、待ってましたとばかりに熱が侵食してくる。全身へ次々と伝播していくあつさが額を、指を、身体を、あたしをとかしていくみたいだった。これでも体温は下がった方で、エルサはいつから炎の女王にジョブチェンジしたんだろうかと、そんな冗談が浮かぶくらいには安堵していた。さっきまで感じていた怒りも熱に上書きされたみたいで、どこへ行ったのかわからない。  送り出した吐息がエルサの深い呼吸とまざっていく。 「あたしがなにも理解してないって、そう思ってるんでしょ」  間近で見つめる姉の眉はいつもみたいに寄せられていなくて、ただ小さな子供みたいにあどけない寝顔を浮かべていた。  ねえエルサ、それだけで、姉さんが苦しんでいないとわかったただそれだけで舞い上がりそうなくらいうれしくなるあたしももう十分すぎるくらいにエルサのことがすきなのに、きっとその想いの半分も伝わってないんでしょう。どうしてあたしが怒っていたのかわかってないんでしょう。あたしを守れない不甲斐ない自分をきらっているんだと、そう思ってるんでしょう。  わかってないのはエルサの方じゃないの、なんて。ひとりふて腐れてみても、当の本人は気持ちよさそうに眠るばかり。あたしの本心なんてなんにもわかってない姉さんは、一体どんな夢を見ているのか、口元を綻ばせていた。  この無垢な寝顔を、幸せそうな微笑みを守れるのなら、あたしはどんなことだってするのに。たとえば北の山に逃亡した姉を迎えに行くことも、険しい崖を飛び下りることも、心が永遠に凍ってしまうことだっていとわないのに。  ああけど、最後の一つはもう勘弁。  だってあたしはもう、見つけちゃったんだもの。どうしようもなくあたしを想ってくれる人を、どうしようもなくいとしい人を、どうしようもなく手のかかるあたしの姉を。  エルサなら、あたしを守るためなら消えたって構わないなんて言いそうだけど、あたしはそうではない。幸せになるならきっと、ひとりよりふたりの方がいいから。もう、ひとりぼっちはいやだから。  エルサの両頬を包み込む。まだやけどしそうなくらいに熱を持ったそこは、たしかにエルサはここにいるんだと伝えてくる。あるいは指先からとけて一つになってしまうんじゃないかと思う熱に、口元が自然、ゆるんでいく。そうね、エルサと一つになるのは案外、悪くないのかもしれない。  色づいたくちびるをそっと、起こしてしまわないように重ねて。少しだけ笑みが深まった気がしたのは、あたしの見間違いだろうか。 「ねえ、エルサ、きいて、」  エルサが眸を閉ざすその一瞬につぶやいた言葉を、今度はあたしの想いもこめて、繰り返す。 「あいしてるわ、エルサ。だれよりも」  どうかずっと、あたしのそばにいてくれますように。そんな子供みたいな願いといっしょに、まぶたの裏に姉の姿を閉じ込めた。 (想いといっしょにとけてしまう前に)
 姉の一番の理解者はいつだって妹。  2014.5.8