せいれいたちのいるところ。
むかしむかし。
といっても、あなたと、あなたのママが生まれる前。そうね、あなたからすれば随分とむかしの話よね。あたしにとってももううんとうんとむかしの出来事な気がするわ。
そう、そのむかしにね、ふしぎな力を持ったひとたちがいたの。
ひと、と一括りにしたけど、あたしたちと同じ人間ではないの。風、火、水、そして大地。あたしたちを取り巻き、助け、そして時には罰をも下す、いわば神にも等しい存在。
彼らの姿はみえない、ううん、みえなくなってしまった、のほうが正しいかしら。
かつて彼らはノーサルドラの民に寄り添い、ともに息づいていた。いたずらに姿を現すことも、その声を耳にすることもあったわ。
だけどね、ふたつの場所で暮らす人間──つまりあたしたちアレンデールの民と、森に住まうノーサルドラの民が再び深く結び合ってから、長いながい年月を経るうち、彼らはあたしたちの前に現れなくなったの。
理由、ね、さあ、どうしてかしら。あたしたちにもわからないの。その必要がなくなったのか、それとも見放されたのか。時折気配は感じるし、森はいまでも美しいからきっと、いなくなったわけではないんだろうけど。ただ空気にとけるみたいにゆっくり、自然に、みえなくなってしまってただけ。
あら、退屈かしら。小さいときから何度も聞かせてきた話だもの、そりゃあそうよね。歳を取ると同じ話を持ち出しちゃうからだめだわ。
じゃあ、これはどうかしら。あなたのママにだって話したことがないものよ。
あたしには姉がいたんだけど。そう、かつてアレンデールの女王だったひと。あなたも絵画室で会ったことがあるでしょ。あのきれいなひと。あたしの最愛のひと。なによりも大切なひと。
どうして女王をやめたのか、って、そうね、説明すると長くなっちゃうんだけど。
結論から言うと、彼女は精霊だったの。そう、いつも話してるあのよにんと力を同じくする存在。風と戯れ、火に遊び、水に誘われ、大地と心を通わすもの。ふしぎな力は彼女にも宿っていたの、生まれながらにね。彼女自身もまた、雪と氷を操るひとだったのよ。
あたしよりも体温の低いあのひとのつくり出すものはね、とてもあたたかかったの。小さなころはそれでうんと遊んでもらったわ。離れていた時期もあったんだけど、その話も長くなっちゃうからまた今度ね。
あたしはアレンデール、あのひとはこの森を守っていくことに決めてね、それで、
「ついた!」
がたん、馬車が音を立てて停車する。うれしそうに声を上げたこの子は勇んで飛び降り、四対の石柱が佇む森の入り口へと駆けていった。侍女に降車を手伝ってもらい、ちいさなその背中を追いながら目をすがめる。あたしにもあんなころがあったわね、だなんて。いくら元気と丈夫を取り柄に生きてきたとはいえ、さすがに八歳の子供には敵わない。それに最近、めっきり身体が衰えてきた。そろそろ伝えておかなければいけないのかもしれない。この森のことを、あのひとのすべてを。
ようやく追いついた氷色の眸は、紅に染まる森を映しきらきらと輝いていた。
「きれい…」
時間が巻き戻ったような錯覚。まだ二十一のあたしと、三つ年上のあのひと。あの時、あのひとも、同じ色に心を惹かれていた。あの時のような視界を覆い尽くす霧はもうない。それもすべて、あのひとのおかげ。
「ね、早くいこ、グランマ!」
差し出されたちいさな手が、あたしをいまへと引き戻す。
あのひとと同じ氷色の眸、あのひとと同じ氷河色の髪、だけどあのひとよりもあたたかい指を包み、森のその奥へと足を進める。
いまは実りの秋。収穫に勤しんでいるノーサルドラの人々が、森に踏み入るあたしたちに手を振り声をかける。活気に満ちたその場所に彼らの姿はない。
あのひとが誘いに乗ってくれなくなったのはいつからだろう。
ジェスチャーゲームに来なくなった。週に一度の添い寝が月に一度から半年、一年に一度あるかないかになった。執務室に顔を覗かせなくなった。手紙の返事が滞るようになった。水の精のいななきがきこえなくなった。森に赴いても会えないことが増えた。たまに顔を合わせたあのひとに理由を問うても困ったように眉尻を落とすばかり。やさしい声であたしの名前を紡いで、それでもふれてくれることはなくて。
そうして──そうしてあのひとの姿さえ見失ったのはたしか、娘が生まれたその時から。木の葉の裏を探しても、海の向こうを目指しても、春と夏と秋と冬が過ぎても、あのひとの影ひとつみつからなかった。
森に生きる民は言う、声がきこえなくなったと。だけど森は生きている、いまもこうして華やかに色づいている。精霊たち、そしてあのひとの息吹はたしかにみえる。なのに、それなのに、そのひとたち自身がどこにもいない。
あるいは同化してしまったのかもしれない。自然とひとつになりすぎて、あまりにも身近になりすぎて、感じ取れなくなってしまったのかもしれない。あたしは探すことを諦めた。これはきっと信頼の証なんだと自分を無理に納得させているうちに季節は巡り、この子が生まれ、そうしていままた、この場所に、この季節に、帰ってきた。
幼い足が落ち葉を踏みしめる。吹き抜けた風がこの子の痕跡を舞い上げる。だれかが焚いた火が弾ける。遠くで川がさやめく。大地がたくさんの足音を静かに受け止める。眸を閉ざす。耳を澄ませる。両腕を広げる。息を吸いこむ。声は、
「──エルサ?」
懐かしい、名が、ひとつ。
小さく落ちた声はほんのわずか先から。氷色の眸がまたたく、そうして広がる喜色。
「あのね、声がいったの、エルサよ、って!」
「こえ」
「こえ! グランマにもきこえたでしょ!」
目の前のスカートが、持ち主の心を表すように楽しくひらめく。風が紅葉の山を巻き上げる。火花が躍る。水しぶきが立つ。大地が震える。
雪の結晶が、ふわり、舞う。
ひらりと降る雪をなんとか重ねた両手で受け止める。季節外れのそれにはたしかに覚えがあった。雪であるはずなのになぜだかぬくもりを持つそれは、たしかに、あのひとの、姉の、ものだった。
あのひとの髪と眸を受け継いだあの子にはみえている、きこえている。そこかしこに息づいている彼らが、彼女が。
「─…姉さん、」
あたしだけに許された呼称を、そ、と。久しぶりに音にしたはずなのに、どうしようもなく舌に馴染んだ。
あたしがみていないだけだった、きこうとしないだけだった、そこにいたのに、いつだってここにいたのに、あたしをみてくれていたのに。
目尻にふれた雪が、涙と混ざり頬をつたう。やさしい熱の懐かしさに視界がにじんでいく。それはまるでいつかの姉さんが、あたしの頬を撫でてくれているようでもあって。
ああ、姉さん、あたしね、はなしたいことがいっぱいあるの。この子にもまだ伝えていないこと、たくさんのこと、がんばったこと、いとおしいひとが増えたこと、孤独ではなくなったこと、ひととして精一杯生きたこと、面影を残した孫のこと、そうして。
そうしてあたしがどんなにか、姉さんに会いたかったかということ。
──アナ、
どんなにか、姉さんがすきだったかということ。
(ただいま、姉さん)
姉さんはいつだってここにいた。
2019.12.4