世界でいちばん。

(現代パロディ)  陽を浴びてきらめく色素の薄い髪をなびかせて、我が姉上は今日もまばゆいばかりの笑顔を浮かべていた。 「ほらほら、エルサ様よ!」 「なんてお美しいの…っ」  フェンスにしがみ付いたクラスメイトたちが次々と上げる黄色い歓声にも慣れたものだ。その歓声の対象が自分の姉だという事実は、いまだにむずがゆいけど。ファンクラブ加入済みの友人たちによるエルサトークに着いていけず、というか着いていきたくもなく、あたしは一人、棒状のチョコレート菓子を食べる。やっぱりおいしい、これ。  口に染み渡るほどよい甘さに感動しつつ三本目へ突入した時、フェンスを隔てて少し先、中庭を歩いていたエルサの視線がなにげなくこちらへと移ってきた。またたきを一つ、目を凝らすように眉を寄せた姉はやがてぱあと、傍目から見ても明らかに顔を輝かせ、控えめに手を振ってきた。途端、隣から一際大きな悲鳴が洩れる。  そう、友人たちが乗り気でないあたしを隣接された大学近くまで引っ張ってくる理由はこれだ。 「いいなあ、アナは。エルサ様に手を振ってもらえて」  エルサは別に差別とか贔屓をしているわけじゃない。ただ彼女は超がつくほどの近眼で誰かがいるのかさえ判別できないだけ、それなのになぜだかあたしの姿だけは見えるだけなの。  事実は胸に押し留め、あれはみんなに向けてだよとフォローを入れる。姉の名誉を守るあたしってなんて出来た妹なのかしら、今夜はお赤飯ね。 「ほんとにきれいでスタイルもよくて…なに食べたらあんな風になるんだろ」  なにを食べたら、というか、なにも食べていない日が多いことを彼女たちは知らない。 「アナがエルサ様と姉妹だなんて信じられない!」  それどういう意味よと問いただしたかったけど、あたしだって信じられないわ。大学生どころか高校生までも惹きつけてしまうマドンナ的存在のエルサが、 「おかえりなさい、アナ! 今日も無事でよかったわ!」  面倒くさいほど過保護だなんて。 「ただいま」  ぱたぱたとスリッパを鳴らして玄関までやって来たエルサに返事をすれば、おかえりなさい、とさらに深まった笑顔まで付いてきた。  帰宅してきた妹に向けた第二声が無事でよかったわ、なんて。一体どんなご時世なんだろう。たしかにニュースでは誘拐だとか事件の話題は絶えないけど、幸いにもあたしたちの住む地域でそんなおそろしい話は聞かないし、痴漢も不審者も出没したことはない。だというのにこの姉は、あたしを一番に出迎えて無事を確認しなければ気が済まないのだ。  脱ぎ散らかした靴を整えていたエルサは突然、しゅんとうな垂れてしまう。家でのエルサは本当に、ころころと表情が変わるから見ていて飽きない。飽きないけども、これはきっと、泣き出す兆候。 「ねえ、アナ。今日、なんで手を振ってくれなかったの」 「手、って」 「放課後。来てたでしょ、中庭の近くに」 「ああ、あれ、うん。お菓子で手がふさがってたから」 「私はお菓子以下なのね…」 「違うって! 次はちゃんと振り返すから!」  氷色の眸に水が張るものだから慌てて約束して、ほんと、とどこか訝しむみたいに見上げてくる姉に首を振ってみせる。いちいち振り返すのは面倒だけど、そうしないとこんな風にもっと面倒くさいことになるから、とは顔にも出さないけど。あたしってなんて出来た妹なのかしら、お風呂でしっかり労わってあげよう。本日二度目の自賛をしていれば、どうやら機嫌が直ったらしいエルサは弾むようにリビングへ戻っていく。  こんな一喜一憂しすぎている姿をエルサファンクラブのみなさんに見せたら、一体どんな反応をするのか。それはそれで需要がありそうだからこわい。  ため息をつきつつリビングに入ると、いつもはソファに座っているはずの父が見当たらなかった。 「お父さんは今日、お仕事で帰れそうにないって。ちなみにお母さんは同窓会」  あたしの疑問を素早く察したエルサが、夕飯の支度をしながら教えてくれる。ということは今晩はエルサのお手製ね。母のとはまた違ったおいしさがあって、あたしはひそかに、エルサの料理を楽しみにしている。 「だから今晩はふたりきりよ」  おいしい料理のためなら、姉の若干気になる言い回しだって捨て置くことができるのだ。  あっという間に用意された食事を前に、ふたりして手を合わせる。  普段は勉強を優先して食事が疎かになるエルサも、あたしとふたりきりの場合は必ず一緒に食べてくれる。あたしには、三食きちんと食べなきゃだめよ、なんて口をすっぱくするくせに、自分は貧血でよく倒れるのだから本当、困りものだ。だからあたしは毎晩、父さんの仕事にトラブルが発生しますように、母さんが突然思い立って旅行に出掛けますようにと祈っている。どう考えても父への願いにウエイトがかかりすぎてるけど、エルサのためだ、父さんだって喜んで仕事をしてくれるはず。  きっと今日は祈りが届いてしまったのね。心の中で父に合掌しつつ、肉じゃがを口に運ぶ。ほくほくのじゃがいもが口の中でとけていくみたい。 「ね、アナ」 「ん?」 「今夜は一緒に入ろうか、お風呂」 「んぅ?」  肉じゃがを頬張るあたしをうれしそうに見つめていたエルサがそんなことを言うものだから、あやうく吹き出しそうになってしまった。そんなあたしなど意に介した様子もなく、にこにこと言葉を続ける。 「アナ、最近部活で帰りが遅かったから入れなかったけど。久しぶりに、ね」 「ひ、久しぶりって…最後に一緒に入ったの小四の時だった気がするんだけど」 「うん、知ってるわ。それで?」 「それにあたし、もう高三なんだけど」 「うん、知ってるわ。それで?」  今年成人式を迎えたばかりの姉は小首まで傾げて先を促してくる。  そんなかわいい仕草、反則よ。きっとあたしの成長が小学生くらいで止まっているであろうエルサにそろそろ怒ってもいいはずなのに、子供みたいな笑顔になにもかも吹き飛ばされてしまった。期待にきらきらと光る眸はいつも、あたしにあきらめと妥協と、それを補って余りあるいとしさを運んでくる。折れるのは普通、姉の方だと思うんだけど。あたしってなんて出来た妹なのかしら、今日はしっかり寝よう。  よく冷えた麦茶を飲んで、目の前の席で返答を待っている姉の視線を受け止める。 「でもうちの浴槽せまいから、今日はナシね」 「えっ…」 「また今度温泉にでも行って一緒に…って、エルサ、聞いてる?」 「うん…聞いてる…」  あ、ダメだ、まったく聞こえてない。エルサなんて呼ぼうものならいつも、お姉ちゃんよ、なんてしつこいくらい強要してくるはずなのに、それにさえも気付いてないから重症だわ。  妹に断られたくらいでどれだけショック受けてるのよ、この姉は。 「そ、それにほら、あたし部活した後だから汗くさいしっ」 「どんなにおいでもアナのものなら平気よ…」  眉を八の字に寄せた姉はなんともおそろしい発言をしてのける。たしかにエルサなら、汗をかいていようがいまいがぎゅっと抱きしめてきて存分に息を吸い込みそうではあるけど。そんな想像をいとも容易くさせるエルサもだけど、なにも違和感を持たないあたしも大概だ。  失礼な想像をしている間に、ごちそうさま、と手を合わせたエルサは、半分以上残った料理を片付けようとする。あたしが食べるから、と制せば、少しだけ笑顔を取り戻して自室に引っ込んでしまった。  また減量失敗ね、あたし。ひそかにため息をつきつつも手が伸びてしまうのは、エルサの料理がおいしすぎるせいよ、きっと。さばの煮付けを一口、やっぱりおいしい。  エルサが面倒くさいのはいまに始まったことじゃない、だって過保護で姉バカなのは昔から変わらないんだもの。  こけたら危ないからと中学生に上がるまで手を繋いで歩いてたし、男子との喧嘩に負けて帰ったら次の日エルサになにか言われたらしいその男子が土下座で謝ってきたし、彼氏だって十八年間で一度もできたことがない。エルサのかわいさだけで満足しているあたしに、彼氏なんて当分いらないけど。  そんなことを洩らそうものなら途端に過保護具合が増しそうだから、口が裂けたって言わないわ。  ***  お風呂でしっかり足を揉みほぐした後、リビングに行ってもやっぱりエルサの姿はなかった。もう寝てしまったのか、それとも勉強しているのか。エルサの場合、きっと後者だ。それならおやすみと一言声をかけておいた方がいいわね、そうしないと明日の朝、ふて腐れた表情を見ることになるだろうから。それもそれでかわいいんだけども。  ふくれた頬を思い出して少し、笑う。  それからエルサの部屋の扉を五回ノック、これは小さいころから叩いている、あたしとエルサ、ふたりだけの合図だった。 「エルサ、起きてる?」  返事はない。もしかしてもうベッドに入っているのだろうか、それならばと起こしてしまわないようそろりと扉を開ける。だけど求めた姿はベッドにも机の前にもなかった。  まさか、また。最悪の状況を思い浮かべてしまう頭を振り、ベッドに近付く。毛布を触って、ついでにばさりと剥いで、それでも姉の姿は見当たらなかった。  ああもう、これで何回目よ。 「家出も大概にしてよね、エルサ…っ!」  髪も乾かさないまま、上着片手に家を飛び出す。風はまだ春の冷たさを残していて、お風呂上がりのあたしの肌に容赦なく吹きつけてくる。エルサはなぜだか寒さに強いから、きっと薄着のままだろうけど。一応エルサ分の上着も持って、部活で鍛えた足で走っていく。  目指すところなんて一つしかない。家から徒歩二十分の場所にある公園の、木でできたお城の中。エルサは小さいころから、なにかあればそのお城に逃げ込んでいた。その理由のほとんどは、あたしが手を繋がなくなっただとか、話す機会が減っただとか、あたし関連である。そうして今日もきっと、さっきの会話が原因で家出したんだろう。  まったく、本当に手間のかかる姉さん、ぜひ妹の顔が見てみたいわね。  わずか十分で公園にたどり着き、息を整えてからお城の中を覗く。  吹き抜けになっているその場所は、大人ひとりがやっと入れるだけのスペースしかない。そんなせまい空間で、エルサはひとり、抱えた膝に顔をうずめていた。 「エルサ」 「…っ、アナ…どうして、」 「ね、ちょっと詰めてよ」  どうしてここが分かったの、とでも訊きたそうな声を遮って身体を滑りこませれば、エルサが慌てたように身を引く。エルサは細いから大丈夫かと思ったけど、やっぱりせまいものはせまい。それでもなんとか立てた膝に頬を預け、泣きはらした目を必死に隠そうとしている姉に笑ってみせた。 「ここに来るの、久しぶりね」 「…私は、二週間前にも来たけれど」  二週間前にも家出したのね。原因はやっぱりあたしなんだろうから尋ねないでおくけど。  なおも目元をこすろうとするエルサの手首を掴む。驚いたようにあたしを見つめる姉の表情はなんだかお菓子を取り上げられた子供みたいで、我慢できずに笑いをこぼしてしまう。途端、やわらかな頬がぷくりと不服そうにふくらんだ。ほら、その顔、やっぱり子供みたい。そんなことを言ってしまえばへそを曲げてしまいそうだから、代わりに空いてる手で上を指した。 「ほら見て、エルサ。星がきれいよ」 「…わぁっ」  見上げたエルサが小さく歓声を洩らした。住宅街の灯りから隔絶されたここからは、きれいな星空が見えることをきっと、俯いてばかりいた姉は知らないだろう、それまで泣いていたのがうそみたいに目をきらきらさせて、きれいね、なんて。  満天の星空よりもあたしは、隣で空に見入ってしまっている姉に視線を縫い止められていた。感情を言葉にするのが不得手な姉は、だけどなによりも表情で語る。悲しい時は眉を寄せて、うれしい時は顔を輝かせて。あたしより三つも年上な姉は、あたしよりも幼くて、そんな姉が、あたしは、 「アナ、…ごめんなさい」 「なに、突然」 「だって私、アナにたくさん、迷惑かけてるわ。かわいいがばっかりについ口を出して、結局あなたに嫌がられてるし…」  ああもう、どこまでネガティブなんだろう、この姉は。  言葉の代わりにため息を一つ、幸せが逃げるなんて言うけど、エルサからは逃げられそうもないから、当分あたしの不幸はやって来ないみたい。 「エルサってほんと、バカ」 「ば、バカって…っ」 「あたしがいつ嫌がった? いつ迷惑だって言った? そりゃあもちろん犬みたいにどこにでも引っ付いてくるのも、ネガティブ思考なのも、すぐに家出しちゃうところも面倒だなって思うし、将来あたしの夫になる人はかわいそうだなって思うけど」 「ねえアナ、それは言い過ぎじゃないかしら」 「だけどね、エルサ」  また泣き出しそうに顔を歪めたエルサの頬を両手で包みこむ。ずっと外気に晒されていたそこはかわいそうなくらい冷えていて、お風呂で蓄えたあたしの熱を奪っていく。身体が徐々に熱を失っていく感覚さえいとしいと思えるあたしはなんてバカなんだろう。どうしてこんなにも、感情があふれてくるんだろう。とめどない想いをぜんぶぜんぶ伝えたいのに、エルサと同じように口がうまくないあたしはただ、額を合わせるだけで。  澄んだ氷色が間近に迫る。  エルサみたいに頭がよくないあたしはこの言葉しか知らないけど、だけどどうか、この面倒で過保護でネガティブで、そしてどうしようもなくあたしをあいしてくれている姉に伝わりますようにと願って。 「そんな姉さんが、あたしは世界でいちばん、だいすきなの!」  ささやいた言葉に、氷色の眸から雫がこぼれ落ちた。 「じゃあ今日一緒にお風呂に、」 「もうあたし先に入っちゃった。…ってごめんごめん、もっかい入るから、だから泣かないでよもう!」 (世界でいちばん面倒で、泣き虫で、そうしていちばん、すきな人)
 過保護すぎる大学生エルサに辟易しつつも結局お姉ちゃん大好きな思春期アナちゃん。  2014.5.9