どうか幸せな夢の続きを。

 サプライズなんて何年振りだろう。小さいころはなにかと記念日を見つけては盛大にやっていた気がするけれど、扉を閉ざしてからはそんなことができるはずもなく。だからきっと、女王になってからは初めてだ。 「ああ姉さん! 塩は入れないの!」  飛び込んできた制止の声に驚いて手を止めた。砂糖だと思っていたのだけれど、よくよく見れば袋に「Salt」と書いてある。砂糖と塩はどうしてこうも間違えやすい形状をしているのだろう、もっと塩は塩らしくしていてくれれば間違えずにすむのに。塩らしく、といっても、どういうものが塩らしいのかと問われれば答えは見つからないけれど。  砂糖の袋を取り出したアナが、計量スプーンとともに手渡してくる。そうね、スプーンで量って入れるのよね。袋から直接入れたりはしないのよね。  私が砂糖を加えている間にも、アナはてきぱきと生クリームを泡立てていた。その手際の良さといったら、長年この城に務めているシェフだって舌を巻いてしまうくらい。  私の知る妹は服だってひとりではちゃんと着られなかったのに、いつの間にか料理さえ簡単にこなせるようになってしまっていた。それだけ十三年という月日は長く、そうして私に罪の深さを思い知らせる。姉妹であるはずなのにひとりぼっちで過ごすことしかできなかった妹の十三年がどれだけ長かったのか、寂しいはずの日常をどれだけ気丈に生きようとしたのか。笑顔の裏に隠されたそれらをすべて推し量るには、私は彼女を知らなさすぎていた。 「ほら姉さん、口開けて!」 「んっ、…っもう、アナったら」  思考の海に沈んでいた私の口元へやわらかいなにかが押し付けられる。言い終わる前にやって来たものだから当然、口は開いているはずもなく、アナお手製の生クリームは私に白いヒゲを作っていった。こうして過去に沈みいこうとする私が救われるばかりで、当のアナにはなにも返してあげることができない、それがとても、もどかしい。  味見してちょうだい、だなんて。笑顔にほだされて、私は今日も妹の気遣いに甘えるまま。指ですくい取り、大きめの一口。ちょっと甘い気もするけれど、甘党なあの人にはちょうどいいのかもしれない。  …あの人、って。誰だろう。 「姉さん、なんだかサンタクロースみたいね!」 「ねえ、アナ」 「味はどうかしら、姉さん」 「え、…ええ、大丈夫だと、思うけれど」  疑問はヘラを手に笑う妹に遮られた。いつもならば、この笑顔の前ではすべてが些細なことに思えてしまうはずなのに、胸の内に引っ込めたそればかりは氷のように形を残したまま、後味の悪さだけを与えてくる。なにかを、そう、なにかを忘れているような、そんな気がするのに。  生地を焼かなくちゃね、と。きっと眉を寄せているであろう私を気にも留めないアナは、フライパンを熱していく。無駄のない動きに、私はまた、目を奪われてしまう。出来上がりを想像して思わず鳴りそうになるお腹を押さえれば、見咎めたアナがふふ、と笑み崩れた。 「姉さんの食いしん坊」 「ち、違うわ。これはお腹の虫が勝手に鳴っただけよ」 「はいはいわかりましたー」  ああ、きっと絶対わかってなんかいないわ。そうは思うものの、浮かんでくる笑みは隠すことができなくて。それでも素直に笑ってしまうのはなんだか癪で、私は誤魔化す代わりに、口元に残っていたクリームをぬぐってはせっせと舌に乗せていく。うん、やっぱり甘いわ。  そんな私を見つめて、妹はさらに笑みを深める。誤魔化しきれていないのだ、わかってはいたけど。  くすくすと笑いをこぼすアナはふと、まっすぐに、私を見据えてきて、 「喜んでくれるといいね!」  喜んでくれると、いいね。  それは一体、誰を喜ばすというのか。誰のために料理を作って、誰のために花を買って、誰のためにサプライズをするというのか、この妹は。閉じ込めたはずの疑問が再び頭をもたげてくる。今度ははっきりと、意思を持って。  私たちは、誰に、なにを、 「そんなの、決まってるじゃない」  妹は笑う、どこまでも純粋な眸で、そんなの決まってるじゃない、なんて。  ねえ、誰だって言うの。誰に向けているの。答えを知りたいけれど、聞きたくないと私が、私自身が拒絶している。けれど妹は無情にも、続きを口にする。私のすべてを見透かすその眸を向けて。 「今日は、」  *** 「──エルサっ!」  耳に飛び込んできたのは夢の中とまったく変わらない音で、それは私の意識を覚醒させるには十分だった。  またたきをするたびに視界がぼやけていく。そんな不安定な世界にただ一つ見える人影はきっとアナだろう。だってこの世界でエルサと呼んでくれる人はもう、ただひとりしかいないのだから。ただひとりを残して、いなくなってしまったのだから。そんな変わりようのない事実にまた、視界は形を失っていく。  頬をふと、熱が掠めていく。 「ね、なにかこわい夢でも見たの、エルサ」 「こわい、ゆめ」 「だってほら、」  目尻をやさしくぬぐい去られる。それでも眸からは次々と雫がこぼれて、アナの指を濡らしていった。もう泣かないと、決めたのはいつのことだったか。もう決して涙を流すことはないのだと、そう心に誓ったのに、やっぱり泣き虫な私は守るべき妹にあやしてもらっている。その役目は本来、私でなければいけないはずなのに。  どうしたの、と。落とされた声色はとても、似ていて。 「…しあわせな夢を、みたの」 「しあわせな、ゆめ」 「私とアナがサプライズを計画している夢。一緒に料理をしている夢。お母様とお父様が生きている、夢」  ひゅ、と。声にならなかった息が、高い音を立てて通り抜けていく。  そう、夢の話。扉を開けた後の、幸福な夢。あの夢の中には私と、アナと、それからきっとお母様もお父様もいて。昔みたいにふたりで、どうやって両親を驚かせて、笑顔にしようかと、そればかりを話し合って。  そう、今日は記念日だから。  或いは目覚めてしまわなければ、夢だと気付いてしまわなければ、違和感を、疑問を持たなければ、あの幸せな夢は続いてくれたのだろうか。誰も欠けていないあの世界は続いていたのだろうか。ずっと夢見ていた暮らしが広がっていたというのだろうか。  ぽろぽろ、涙が頬を伝っていく。熱を持たないそれがアナの指を冷やしてしまう気がして、両手で顔を覆った。まぶたを閉ざして、なにも映さないようにして、眸さえ溺れてしまえばいいと。 「ごめんな、さい、アナ…ごめんなさい…」  ごめんなさい、ねえアナ、あなたがきっといちばん、みんなで過ごしたいと思っていたはずなのに、誰よりも家族という形を求めていたはずなのに。そのすべてをこわしてしまったから、私が、あなたの未来を奪ってしまったから。せめて夢の中だけは幸せであってもいいのに、幸せでなければいけないはずなのに、私はまた、気付いてしまって、そんな幸福があるはずがないのだと、知ってしまっていて。  私はゆるされるべきではないのに、ゆるされてはいけないはずなのに。まだ罪さえ償っていない私を、けれどアナはやさしく抱きしめる。片手を頭の後ろに回して、ぽんぽんとたたくその動作は本当に、お母様と瓜二つで。 「ね、エルサ。あたしね、一つ、サプライズしようと思ってるの」  秘密を打ち明けるようにこっそりと告げられた言葉は不思議と、私の心を穏やかにする。少しだけ強められた力は、けれど心地良かった。  チョコレートと、サンドイッチと、それからお花でも持って、と。ピクニックの計画でも立てるみたいに語って、だから、と言葉を続ける。 「だから、ね、ママとパパのところに行こうよ」 「…だめよ、私は、行けないわ」  逃れたくても力で敵うはずもないから、せめて表情だけは見られてしまわないようにと首元に顔をうずめる。結われていない髪がふわりと香って、それはやっぱりどことなく、お母様を思わせて。まぶたを閉じていたって、息を殺していたって、その存在が見え隠れする。  行けるはずがなかった。お母様とお父様の前に、ふたりの墓前にだなんて。私を、アナを、いちばんあいしてくれていた人たちになにもできなかった私が、一体どうしてふたりの前に立つことができるだろうか。いまだって、ほら、存在を感じ取っただけでこんなにも胸が締めつけられて、息が止まってしまいそうなのに。  それでも妹は離してくれたりはしない。十三年の間にひとりで服を着れるようになって、料理の腕も上達して、姉よりも姉らしくなった妹は頭を撫でて、ばかね、なんて。 「エルサの罪なんて、元から一つもないのよ。それにね、あたしの家族ならもう、ここにいるもの」 「家族、って」 「全部言わないとわからない?」  あとね、 「子供を拒む親を持った覚えは、少なくともあたしにはないわ」  言葉がしとしと染み込んで、私をあたためていくみたいだった。ここはきっと笑顔を見せなくてはいけないのに、視界はまた、おぼろになってしまっていて。あたしの姉さんは泣き虫ね、だなんて声に、ただただしがみつくしかなかった。  私は、ゆるされてもいいのだろうか。昔みたいに笑い合っていいのだろうか。さっき見た幸せな夢の中みたいに、アナとたくさんお話をして、料理をして、触れ合ってもいいのだろうか。私は、家族になっても、いいのだろうか。  問いかけは言葉にならなくて、けれどきっとすべてお見通しの妹はもう一度、ぽんぽんと頭をたたく。そうして声をひそめて。 「今日はママとパパの、結婚記念日なんだから!」  まるで夢の続きのようにささやいた。 (どうか夢の続きを紡がせてください)
 私にもまだその資格があるのなら、どうか。  2014.5.11