もうあなたなしでは生きられないの。

「陛下、本日のご予定ですが」  そんな堅苦しい言葉がまさか我が妹の口から出るだなんて、今日は雪でも降るのかしら。と思ったけれど、私のいまの心境ではそれもたとえ話では済みそうになかった。だってまだ秋にも差し掛かっていないというのに、窓の外には雪がちらついているんだもの。アレンデールのみなさん、ごめんなさい。心の中で謝罪を送るも、それと反比例して降雪量は増していく。  中庭や廊下からはひっきりなしに、また女王陛下の心が乱れておられるぞ、との声が聞こえてくるものの、執務室に入ってくる者は誰ひとりとしていない。女王陛下が心を乱しているのだから、心配して少しくらい様子を見に来てくれたっていいんじゃないかしら。そうは思うものの、きっと誰もが不穏な空気を感じ取って我関せずを決め込んでいるのだ。  そんな空気を発しているのはもちろん私ではなく、書類を手に佇む妹である。 「午前中は書類に目を通していただき、午後から貿易国との会食となっております。それから、」 「ね、ねえ、アナ」 「何かご不明な点でもございましたか、陛下」  ほら、また。さっきからずっとこの調子だ。  エルサ、姉さん、聞き慣れた呼称はいつまで経っても向けられることはなく。見ていて飽きないくらいにころころ変わる表情はなりをひそめて、ただただ心の内の読めない顔が張り付けられているだけ。私に対して敬語を使うことも、こんな風に色を抑えた眸で見据えてくることもなかったはずなのに。 「不明な点というか、あなたの意図がわからないのだけれど」 「私に関してのご質問でしたら、後ほどお伺いいたします」  そうして私の疑問を封じ込めて、業務連絡を続行するアナに口を挟めるだけの度胸があるはずもなく。大人しく椅子に座り直し、様々な可能性を思い浮かべてみる。  たとえばアナ偽者説、いいえそれはありえないわね。アナのにおいも仕草も声質も覚えている私が、本物かどうか区別がつかないはずないんだから。それなら強く頭を打っただとか、なにかのサプライズだとか。けれど王女の性格が変わってしまうほどの怪我をしたのなら騒ぎにならないはずはないし、なにかを隠せるほどアナは器用ではない。どうしたって表情に現れてしまうのだ。  それならば一体、と今日の予定を右から左へ受け流しつつ考えてみても、昨日の朝食以降なにも栄養を摂取していない私の頭はうまく働いてくれない。  そのうちに伝達事項は終わってしまったみたいで、ご質問を、と促される。息を整え、怒りさえも含まれていない薄氷色の眸に怖気づきそうになる自分を必死に鼓舞する。ここで挫けてはだめよ、エルサ、あなたは女王でしょう。なけなしの勇気を振り絞って、アナ、と呼びかける。それに対して言葉は返ってこなくて、せっかく引き結んだ心がまた泣き出しそうになった。 「その。もしかして、変なものでも食べたの?」 「昨日の夕食はローストビーフにコンソメスープ、それからサラダでした」 「あら、おいしそう。…じゃなくて、ええと。これはあなたの仕事ではなかった気がするのだけれど」 「大臣に代わり、本日より女王付きを拝命いたしました」 「でもあなた、公務なんて」 「元より私は女王の右腕となるべく教育を受けてまいりましたので」  書類を机に置きつつ淡々と返す様は、いままでずっと業務を行っていたかのように自然で、王女が真面目に授業を受けてくださらないのです、などという侍女の言葉も嘘ではないのかと疑ってしまうくらい。けれど私には、妹の成長を喜ぶ余裕なんてなかった。  普段ならここから話題を広げて、昼食のメニューやティータイムの予定を立てたりするのにそんなことはないまま、会話は終わったとばかり、アナは書類を仕分けていく。その手を押し留めれば、なんでしょう、と他人行儀にもほどがある返事が一つ。こんなことで揺らいでしまう私の決意はなんてもろいのかしら。 「アナ、その。私はまた、なにかしてしまったのかしら」 「…どうしてそうお思いに」 「だって昨日は、ディナーを一緒に食べられなかったし」 「昨夜遅くまで、食事もお取りにならず公務に勤しんでおられたのは陛下です」 「で、でも、いつもなら呼びに来てくれるから」 「陛下のお仕事の邪魔になりますから」 「っ…そ、それに、ベッドに潜りこんでもこなかったし」 「分け与えられた部屋で眠ったまでです」  それとも添い寝しなければ眠れないのですか、などと目を細めるアナに、いつもやって来るはずのあなたの姿が見えなくて不安で一睡もできていないのよ、なんて言えるはずもなく、ただぐっと押し黙るばかり。それでもきっと聡い彼女のことだ、目の下に浮かんだそれをとっくの昔に見つけているはず。  たしかにアナの言う通り、夕食を共にする必要も同じベッドで眠る必要もない。そもそも私は十三年間、ひとりきりでいたのだから、それが当たり前だったはずなのに。どうして、どうして、なんて。いよいよ回らなくなってきた頭はそればかりを繰り返す。ねえアナ、どうして名前を呼んでくれないの、どうしてもっと近くにいてくれないの、私をきらいになってしまったの。  ふと手を止めたアナは、私の顔を一瞥し、やがて一つ息をつく。 「…お疲れのようですので、気付けに紅茶でも用意してまいります」  そうして背を向けて、部屋を出て行こうとする。行ってしまう、私のそばから離れてしまう、 「──アナっ、」  声よりも身体が先に反応していた。追いかけようと立ち上がって、けれど力の入らない足はうまく動いてくれなくて、倒れる勢いのまま振り向いたアナに抱きついた。勢いがつきすぎて、ふたりして床に倒れ込む。背中をしたたか打ち付けたアナはわずかに顔をしかめた。  ああ、ごめんなさい、アナ。  ぼんやりとにじんでいく視界は、そんな表情すら曖昧にしていってしまう。流れる結晶のように眸さえ凍ってしまったなら、もっとよくあなたの顔が見れるのに。 「アナ、ねえ、アナ…、私のこと、きらいにならないで…っ」  こぼれたのは謝罪でも疑問でもなく、ただ一つ、胸の内に閉じ込めていた願いだった。ずっと遠ざけていたのは私の方なのに、なんてひとりよがりな言い分だろう、なんて勝手なわがままだろう。けれど一度与えられたぬくもりは私にはあたたかすぎて、やさしすぎて、もう手放せるはずがなかった。  きらいにならないで、どこにもいかないで、なまえをよんで、わらって、おねがい、 「あなたのこと、どうしようもなく、すきなの。あいしてるの…っ」  音が嗚咽にさえぎられ始めたころ、伸びてきた指が目尻をぬぐい去った。それに合わせてまたたきを一つ、ようやく露わになった妹の表情は苦く、けれど笑っている。薄氷色の眸にはようやくいつもの色が戻ってきていた。 「もう。やっと言ってくれた」  なんのことかわからずただ見つめる私の顔が面白いのか、アナはくすくすと声を洩らす。 「ほらあたし、いっつも姉さんにハグしたり、大好きって言ったりしてるでしょ。でも姉さんからは一度も、ああハグは一回あったわね。でも、あたしのことどう想ってるのかなんて聞いたことがなかったから、もしかしてきらわれてるのかなって」 「そんなこと、」 「わかってる。姉さんは伝えるのがへたくそな人だってくらい。でもね、不安になっちゃうの、あたし」  だから一芝居打って、本音を探ろうとしたってわけ。そう言って妹はごめんね、と笑う。私の大好きな笑顔をめいっぱい浮かべて、目の下には私と同じそれを残していて。あたしもね、昨日は眠れなかったの、なんて。どうやら相当な演技派らしい妹は両頬に触れて、顔を寄せてくる。額がこつりとぶつかって、薄氷色に目を真っ赤にさせた泣き虫な女王が映りこんだ。  ねえ、エルサ。  ようやく求めていた名前が与えられる。この音がなければ、この響きが聴こえなければ、あなたの声で呼んでもらわなければ、私はもう、だめみたい。あなたなしでは、どうしたって生きてはいけないみたいなの。そんなあふれんばかりの想いを伝えるだけの言葉を持っていない私は、もう一度言ってちょうだい、とかわいらしいお願いをしてくる妹にただ一言、そっとこぼした。 「あいしてるわ、アナ、誰よりも」 (不器用な私たち)
 はっきりしない陛下についに本気を出す右腕アナちゃん。  2014.5.15