やさしい体温。
今日は晴天、局地的に雪が降るでしょう。
そんなアナウンスを脳内で流しつつ、窓の外に視線を向ける。雪の女王が作り出した結晶は、目に痛いばかりの陽射しを浴びてきらきらと輝いていた。こんな体調でなければ外に出て、城下の子供たちと雪合戦でもできたのに。中庭から聞こえる雪だるまの歓声をうらやましく思いつつ、ため息を一つ、いつもより熱を持ったそれが流れ出て、のどを震わせた。
雪だるまの陽気な歌声とは正反対に、廊下からおぼろに洩れ伝わってくるのはため息とくしゃみと嘆きばかり。その中で一際よく届いてくるのは、大いに動揺した姉の足音だ。
「陛下、妹君が心配でしたら中に入られては…」
「だめよ、余計悪化させてしまうわ」
「しかしこのままでは、城の者たちまで風邪を引いてしまいます」
「有給休暇はちゃんと出すわ」
「つまり床に臥せと、そう仰るのですか」
「致し方ないわ、アナのためよ」
こつこつ、こつこつ。ヒールが床をせわしなく鳴らしていく。どうやらエルサは公務もなにもかも放り出して扉の前でうろうろしているみたい。
十三年の月日を経て、あたしの耳は姉さんが発する声や音を拾うことばかりに特化したようで、水中に沈んでいるのかと思うほど物音がゆがんで聞こえるいまだって、姉のかたい足音も、不安で揺れる声も、はき出された息だってぜんぶはっきりと捉えてくれる。
「ねえ、アナは本当に大丈夫なの? もしも、なんてことは…」
「心配されずとも、陛下と違い儚くはないお方ですから」
褒められているのか貶されているのか。わからないけど、それよりも心配性な姉さんの気持ちがうれしくて、侍従の言葉なんて気にならない。
姉さん、と。あたしにだけ許された呼び名をそっとつぶやいたつもりだったのに、のどはうまく声に変換してくれなくて、代わりに掠れた息だけが洩れてしまう。それと同時にぴたりと止む足音。もしかすると扉の前にいる女王もあたしと同じなのかもしれない、いつの間にかあたしの音ばかりを丁寧に拾い集めてくれるようになったのかもしれない、そんな淡い期待を抱きつつ首をぐるりと巡らせれば、やがて控えめに扉が開いた。
ひょこり、最初に飛び出したのは一本だけ跳ねた前髪。それからいつも通り八の字に寄せられた眉に、どこか潤んだ氷色の眸、最後にきつく結ばれた桜色のくちびるが覗いた。
なんだか叱られた子供みたいな表情を浮かべた三つも年上の姉をもっと近くで見ていたくて、姉さんと、もう一度口にする。音を探して、そっと空気に乗せて。今度はちゃんと声になっていてくれたようで、扉のふちにかけられたエルサの指がぴくりと震えた。
「ねえ、入ってきてよ」
「で、でも…」
「そばにいてほしいの。ね、」
おねがい、なんて。思っていた以上に甘えた色が出てきたことに、自分でも驚いた。
小さいころ散々使っていたそれは久しぶりに取り出したにも関わらず少しも褪せてはいなくて、だからこそ、それまでこの世の終わりと言わんばかりに漂っていたエルサの緊張がゆるゆると解けて、代わりに苦笑にも似た表情をくれた。そんなところは昔とちっとも変わってない。仕方ないわね、なんて言いつついつもおねがいを聞いてくれることを、あたしはよく知っている。だってエルサは、あたしの姉さんはどうしようもなく、妹に甘い人だから。
気だるい手をなんとか持ち上げて、こっちにおいでと手招きすれば、ようやくエルサが部屋に踏み込んできた。足音一つさえ殺して、ベッドの縁にそっと腰かける。ベッドが沈みこまないあたり、エルサには重さなんてないんじゃないだろうか。忙しいからと食事を抜かずに、もっとたくさん食べるべきだと、あたしは常に思っている。
エルサはそうして行き場をなくしていたあたしの手を包みこんで、そっと頬に当てる。やわらかなそこはいつだって熱を持っていなくて、どうかこの体温を少しでも共有することができますようにと、あたしは常に願っている。
思いはいつも押し込めて、願いはいつも届かないけど。
「調子はどう? 苦しかったり、つらかったりしない?」
「ん、大丈夫。なんだか熱も下がってきたみたいだし」
「でも、まだこんなにあついわ」
「エルサの手がつめたいのよ」
あたしのつぶやきに途端こわばって、離れようとしていく指をつかんで引き寄せる。折れてしまいそうなほど細い指を頬に押し当てて、眸を閉ざして、そこから熱が伝わりますようにと。いまでさえ触れることを恐れている姉さんにどうか、この想いが通じますようにと。あたしは凍ることはないのだと、この指だってあたたかいのだと、なによりもエルサに信じてほしくて。
門の外にでも出て行ってしまったのか、あれだけ元気に響いていた雪だるまの声は聞こえなくなっていて、部屋にはあたしの雑な息遣いばかりが満ちていた。
すぐそばにいるはずのもうひとりの物音はなに一つ立たなくて、もしかしてあたしはまた間違えてしまったんじゃないか、そんな不安に駆られてまぶたを押し上げる。ぼんやりとかすんではいるけどたしかにあたしを見つめているエルサの表情は、泣こうとしているのか、笑おうとしているのか、きっとその両方なのかもしれない。
「アナ、」
いつもよりももっともっとずっとやさしい音を落として。なんとか微笑みを作ったエルサは空いた手でそっと、すがりつくようにあたしを抱きしめた。
ふわりと香る花のにおいも、頭をやさしく撫でる仕草も、記憶に残る母親のそれとどことなく似ている。
「アナ、ねえ、あなたはどうして、こんなにもやさしいのかしら」
どうしてこんなにもあたたかいのかしら、なんて。
ねえ、そんなの決まってるわ。いままでずっと言葉にも、行動にもしてきたはずなのに、鈍感な姉はまだ気付いていないみたい。答えなんて一つしかないのに。ひとりぼっちだったら自分があたたかいことにすら気付けないし、こうして上がり過ぎた体温を分けることだってできない。つまりは姉さんがいてくれるなら、エルサがそばで笑っていてくれるなら、あたしはやさしくも、あたたかくもなれるの。存在価値を見出すことができるの。あたしはエルサの隣にいてもいいんだって、そう思えるの。
熱に浮かされているせいで、拾い集めてはぽろぽろとこぼれていってしまう言葉たちをとりあえずぐっと飲み込み、エルサの頬に触れる。ようやくまみえた氷色はもううすく膜を張っていて、いまにもあふれだしてしまいそうだった。
「ねえ、エルサ」
ようやくそれだけをしぼり出せば、なに、と小さく返される。ゆるゆると迫ってくる眠気に抗おうとほんの少しだけ、指をつかんだ手に力をこめる。逃げ出そうと抵抗を示すことはなくて、それがとても、うれしい。
「あたしが寝るまで、そばにいてほしいの」
「…私は、いてもいいのかしら。あなたのそばに」
「いてもいい、じゃないわ。いてくれなくちゃいけないの」
ね、おねがい。何度も音にしてきたそれをもう一度向ければ、ぽたりと、あたたかい結晶が降ってきた。いつもは消えてなくなってしまうはずのそれらは、だけどあたしに触れるとしずくに姿を変えて流れていく。ほら、凍らないって言ったでしょ、心の中でそっとつぶやいた。あたしの前では、エルサは雪の女王でもなく、ただの姉さんなんだもの。
おずおずと重ねられた手は、なんだかほんのりあたたかい。
「あなたの元気な笑顔を見るまでは、ここにいるわ、ずっと」
だからなかないでちょうだい。ぼんやりとした視界に、姉さんの声だけがはっきりと聞こえてきて。あたしはないてなんかいないわ、ただうれしいだけなの。そばに姉さんがいてくれることが、ひとりぼっちでないことがこんなにも。もうひとりぼっちで目を閉じることがないことも、あたしの目覚めを待っていてくれる人がいることがこんなにも。
ついにはゼロになってしまった世界で、エルサは微笑む。あたしだけに宛てた笑顔をそっと浮かべてくれる。
「やくそく、ね。ぜったいぜったい、いなくならないでね」
「ええ、そばにいるわ、ずっと」
前髪をかき分けて額にくちびるを落とす、その仕草が本当に母様とそっくりで。
昔と変わらない体温を感じたあたしは頬をゆるめて、世界を閉じた。
(たまには弱気にならせてください)
風邪を召された王女さま。
2014.5.18