あなたに触れた日。
彼女はチョコレートの香りとともにやって来る。
「またつまみ食いしたのね、アナ」
「うぐっ」
ペンを止め、背中越しに指摘してみれば、それまで気配を殺していた妹は妙なうめき声を上げて停止したようだ。
ぐるり、顔を巡らすと、明後日の方角に視線を向けあまり上手とは言い難い口笛を吹くアナの姿があった。その口元には、私の言葉を証明してくれるそれがぽつり。
拭き取ろうと伸ばしかけた手を直前で止めて、誤魔化す代わりに人差し指を立てた。
「チョコレート。口の端についてるわよ」
「うそっ」
指で示せば、途端に焦って口元をこする。手の甲に移ったチョコレートを舐めとり、悪戯に失敗した子供のように笑った。
こんな風に一人百面相をしてのける妹は、見ていてまったく飽きることはない。それでなくても、何年もまともに顔を合わせていなかったのだ、どんな表情の変化だって、私には新鮮だった。
壁に掛けてある鏡できれいに拭い去れたことを確認したアナは、指を組み合わせバツが悪そうに少し俯いた。
「つまみ食いしちゃったことは認めるわ」
「物的証拠が残ってたものね」
「ぐう…え、ええとね、今日はそれだけじゃないの」
私の少し意地の悪い返しにもめげず、妹はポケットを漁る。そうして取り出したのは、両手いっぱいのチョコレートだった。色とりどりの紙包みが目に鮮やかだ。
「エルサ、最近忙しそうだから。だから少しでも疲れが取れたら、って思って」
気に入ったかしら、なんて。覗き込んできた表情はいつもの笑顔。口角を目いっぱい引き上げ、両目を閉じる、彼女特有の笑み。そばかすが散ったその表情はなによりも愛しかった。
最愛の妹が私の心配をしてくれている、その心遣いが泣いてしまいそうなほど嬉しくて。
ありがとう、と。一言だけれど、その言葉にすべてをこめて立ち上がり、手を伸ばす。
けれど指先が包み紙に触れるよりも早く、アナの手が私の手首を捕らえた。
ひゅっ、と。喉が鳴る。蘇るのは、幼いころの記憶。
「──やっと捕まえた!」
からりと床に広がるチョコレートを気にも留めず、嬉しそうにささやいたアナは手を引く。バランスを崩した身体は、私よりも少し小さな妹の腕の中、そのまま受け止めるように抱きしめられた。
チョコレートの甘い匂いに包み込まれる。
左手は背中に、右手は私の左手に絡めるように握ってきて。
直に触れた妹の指は、火傷してしまいそうなくらいあたたかかった。
「駄目よアナ! 手袋を、」
「まだ、こわいの」
「………っ、」
突き付けられた確信に息を呑む。
もう昔みたいに力が暴走するわけではない。きちんと制御できる、手袋なんていらない、誰にも危害を加える心配はない、そんなことわかってる。けれど、妹を傷付けた事実が消えるわけでも、過去が変わるわけでもなかった。
変えられる前の記憶をアナが思い出すことはないけれど、私の中には棘のように刺さったまま。こうしてふと、浮き上がってきては、喉を締めつける。息を止めにやって来る。
幼い姿の私はいまだ、心の奥底でひとりぼっち。
そんな私を、過去に囚われたままの私を、アナはすべて知っているとでも言うように抱きしめる。
「大丈夫よ、エルサ」
大丈夫、なんて。子供をあやすみたいに、背中をぽんぽんとたたいて。
ひとりぼっちの小さな私に、手が差し伸べられる。
「もう、抱きしめてもいいの」
「…でも、私はあなたを傷付けたわ。一度だけじゃない、二度も、あなたを。大切な妹を。だから、」
「そんなことであたしが離れると思ってるの」
額を突き合わせたアナは、心外だわ、とでも言いたそうに頬をふくらませるも、すぐに破顔する。すぐそばにいる妹は、だって、と。どんな表情よりもきれいな笑顔を浮かべた。
「だってあたしは、エルサの妹だもの」
「…アナ、」
言葉が続かない。笑顔を見ていたいのに、視界がうまくピントを合わせてくれない。
にじんだ世界の妹はそれでも、まっすぐに私を見つめていた。誰よりも守りたい表情を、眸を、私だけに向けて。
言葉の代わりに、表情の代わりに、右手をアナの背中に伸ばす。まだ震える手を叱咤して、少しだけ、抱きしめた。開いたままだった左手を閉じれば、線の細いアナのそれもたしかに力をこめてくれる。
あたたかい、火傷しそうなくらいに。
またたきを一つ、二つ。雫の通り道が熱を持つ。
ただ一言、最愛の妹に伝えたくて。
「──大好きよ、アナ」
「──あたしもよ、エルサ!」
堪えきれないといった風に、アナが思い切り抱きついてくる。支えきれなくて、二人して地面に倒れ込んだ。顔を見合わせ、くすくすと笑って。
背中の痛さなんて気にならない。
視界の端ではきらきらと、チョコレートの包みが輝いていた。
(少しずつ進んでいけばいい、あなたと一緒に)
ようやく一歩踏み出していけそうなエルサ。
2014.3.26