女王に告ぐ、

 姉さんが立ち上がった拍子に、執務机に乗っていた書類の山が音を立てて崩れていった。いつもなら慌てて拾い集めるはずなのに、まるで音さえ聞こえなかったように、視線はこちらに向いたまま。  透き通った氷色がゆらり、にじむ。 「─…どういうこと、なの。それは、私と距離を置くという意味なの、アナ」  やっとのことで絞り出された声には隠しきれない震えが混ざっていた。くずおれてしまいそうになるのを必死で堪えるように、机に両手を突いて。それでも真っ直ぐに見つめ返してくるエルサに、痛いほど反芻してきた言葉をもう一度。 「私を妹としてでなく、ただの一家臣として扱っていただきたいのです、」  かさかさに乾いたくちびるをそっと舐めて、 「陛下」  落とした呼び名は思っていた以上に腹の底に深く、重く響いた。それは目の前の女王陛下も同じだったみたいで、薄く水の張った眸が見開かれて、そうして一瞬姿を隠した。雫をこぼさなかったのは女王としての意地なのか、それともまだ状況を呑み込めていないのか。  再び姿を現した氷色はまだ、にごりを含んだまま。 「私は、また、あなたを傷付けてしまったの」  震えるくちびるが語尾を上げて尋ねてくる。  また、だなんて。あたしは一度も姉さんに傷付けられたことなんてないのに。少なくとも、あたしの心は、想いは。冷たい氷に射抜かれたその時だって、気持ちは少しも変わることはなかったのに。  いまはない手袋にすがるように、机の上で両手を組み合わせる。 「いいえ、これはかねてより考えていたことです」 「…いつから、なの」 「ずっと。ずっとです、陛下」  たとえば姉さんに抱きしめられて眠ったあの夜も、やさしそうな寝顔を見つけたあの朝も。姉さんの隣に当たり前のようにいられる幸せを噛み締めた瞬間にはいつも、どんな時でも、その思考ばかりが後から後から湧いてきた。あたしはこの人の一番であってはいけないのだと、妹以上の愛を貰ってはいけないのだと。  行動に移さなかっただけで、移す勇気があたしになかっただけで、それはいつもあたしの中にあった。 「ずっと…ずっと、傍にいるって言ったじゃない」 「ええ、この命尽きるまでお傍に。臣下として。女王の右腕として」  姉さんの表情が凍りつく、まるで自分自身に魔法をかけてしまったかのように。声を上げて泣きたいはずなのに、あたしに掴みかかって問い質したいはずなのに、すらりと伸びた爪が甲を傷付けてはしまわないかと心配になるくらいに手を握りこんで。  そうよ姉さん、あなたはそう教え込まれてきたはずでしょう。感情を抑える術を、押し殺す言葉を。お父さまが震える姉さんを守るために伝えた、なによりも強力な束縛の魔法を。姉さんを長年縛り付けていた呪文を願うあたしはなんて残酷なのか、なんて非道なのか。  いっそ見限ってくれた方が楽なのに、姉さんは絶対にあたしを見放したり、ましてや嫌いになんてなるはずがない。これは自惚れではなく確信。 「私は近付きすぎてしまったのです」 「ねえアナ、なにを、」 「身に余るほどの愛を与えられすぎたのです」 「アナ」 「あなたの隣にいるべきなのは私ではないのです」 「アナ、」 「私は、」  あたしは、 「エルサの妹として生まれては、いけなかったの」  雫は、伝わなかった。隙間を埋めていた言葉がころりとこぼれて、ただただ寂しさを、虚しさを感じるだけ。氷色の眸に映った自分が見つめ返してきていることを確認できるくらいには、あたしの視界は鮮明だった、驚くほどに。  またたきを一つ、もう一つ。  小刻みに震える姉さんのくちびるがなにかを紡ぎかけて、だけど言葉を飲み込んでしまった。  これでいいの、姉さん。あたしは、あたしたちは、真実の愛なんて見つけるべきではなかったの。こんなにも縋り付いてしまうのならいっそ、出会ってしまわなければよかったの。  過去を変えることはできないあたしの精一杯は、姉さんのこれからを塗り替えること。妹なんていない、本当の愛を探す、そんな未来を、あなたに。  片膝を立てて、その場に跪く。決別の言葉を吐くべく相変わらず湿ってくれないくちびるを舐める。やめてアナ、と。かすかな懇願が聴こえたのは気のせいか。  頭を下げてしまえばもう姿なんて見えないから、どこにも。 「─…陛下」  愚かな妹の姿なんて見えないから、どこにも。 (さようなら、あたしの姉さん)
 親愛なる女王陛下へ、あたしの、あたしだけの陛下へ、  2014.8.16