Good Night.
「ねーえさんっ」
普段は私を名前で呼ぶこの妹が、姉さん、と口にするのは、甘える場合かおねだりする場合だと決まっている。
いつものように執務室に忍び込んでひょこりと顔を覗き込んできたアナは果たしてどちらを選択するのか、そんなひそかな楽しみを胸の内に押し留め、顔を上げる。
小さなころから変わらない、無邪気な笑顔と至近距離で鉢合わせて思わず息が止まった。そんな私に気付いているのかいないのか、にしし、と。およそ王女らしからぬ、悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「今。びっくりしたでしょ、エルサ」
「…そんなこと、」
「あるの。最近ね、エルサがなにを考えてるか、なんとなくわかるようになっちゃって」
これも観察の賜物ね、なんて。動揺に勘付いていたらしい妹は誇らしげに胸を張る。その拍子に、おさげ髪に結った三つ編みが揺れる。
私をよく見てくれていたことを嬉しく思えばいいのか、それとも悟られたことを恥ずかしがればいいのか。どちらの反応も同じくらい顔を出してしまいそうだったのでとりあえず、それで、と先を促してみる。
「なにか用があったんじゃないの」
「あ、そうそう。忘れるところだった」
ぽんと手を打ち鳴らしたアナは一転、様子を窺うように見上げてくる。捨てられた子犬、なんて表現がぴったりなくらいに愛くるしい姿。抱きしめてしまいたい衝動をぐっと堪え、子犬を見つめていれば、彼女はぽつりと願いを口にした。
「今夜、一緒に寝ましょう!」
「………え、」
妹の頼みとなると断りきれないのは、昔から変わらない、私の短所だった。
アナが無茶なお願いをしてきたことは一度だってないけれど、今回のそれは少し、難しい。少なくとも、私にとっては。
わずかに軋む扉を開けて中の様子を窺う。室内はとっくに灯りが落とされていたので、月の光を頼りにベッドへと近付く。
部屋の主であるアナは予想通り、豪快にも大の字で眠っていた。結わえられていたはずの髪はほどけ、枕に広がっている。会食を早々に切り上げたつもりだったけれど、いつの間にか夜半を回ってしまっていたみたい。彼女が睡魔に負けてしまうのも仕方のないことだ。
ベッドの縁に腰かければ、きしりと音が鳴る。
ほんの少し腕を伸ばして、そばかすの散った頬に触れた。アナはほんの少し身じろいだだけで、まぶたを開ける気配はない。
陽だまりみたいなあたたかさを、私の手のひらが奪ってしまうのではないか、そんな思いがふと頭をもたげてくる。それでも引き寄せられてしまうのはきっと、切望していたから。こんな風に妹に触れることを。たしかなぬくもりを得ることを。
「…ごめんなさい、アナ」
口から自然とこぼれるのは、目の前で眠る妹への謝罪。
「本当は堂々と触れたいの、あなたに。目を見て、昔みたいに」
今は窺うことのできない薄氷色の眸を思い浮かべる。私のものよりもうんときれいで、とても澄んだ色。
羨ましいくらいにまっすぐな眸を見つめて、子供のころから変わることのない笑顔を真正面に捉えながら、触れたいのに、抱きしめたいのに。まだ、手が震えてしまう。思うように表情を向けられない。
寒さなんて、少しもないのに。
時々見てしまうから、強くなるばかりの力を御しきれなくなる夢を。この子をまた、傷付けてしまう夢を。
「私は、臆病ね」
月明かりがアナの髪を照らす。
彼女のトレードマークにさえなっていたプラチナブロンドの一房は、今はどこにも見られない。いいえ、見えてはいけないの。
息を、一つ。冷え切った指にじんわりと熱が広がっていくのは少し、くすぐったい。
「…私は、ちゃんと返せているかしら。あなたがくれる笑顔を、ぬくもりを、愛情を」
夢の世界へ沈んでいる相手にそんなことを尋ねるのは卑怯だということくらい、わかっている。けれど面と向かって訊けるはずがないから、返事のない問いを投げかけることしかできなかった。
彼女は愛に飢えていると、南諸島の王子は称したという。その原因を作ったのは紛れもなく私だという事実がまた、胸を貫く。だからせめてこれからの日々で埋めていけたらと思うものの、触れることさえ覚束ない私に果たして妹が望む愛を与えることができるのか、答えはきっと、ノーだ。
指ですくうように、頬を一撫で。ぬくもりをひそかに確かめて、立ち上がった。
ぐい、と。突然腕が引っ張られ、世界が回転する。そうして気付けば背中には、毛布のやわらかな感触があった。
ようやく暗闇に慣れたばかりの目が衝撃にちかちかとまたたく。けれど目の前の、覆いかぶさるように乗っている影が誰なのか、確認しなくたってわかる。
「ア、アナっ」
「ふふ、こんばんは、エルサ!」
夜闇の中でもそうとわかるほど顔を輝かせて挨拶をしてくる妹に返事をしかけて、いいえそうじゃなくてと頭を振る。
「あなた、いつから起きていたの」
「ええ、っと…ほっぺを触られたあたり、から」
「ほとんど最初からじゃない」
悪い予感は的中するもので、私の指摘にアナは苦笑する。王女の寝起きが悪いという話は、メイドから散々聞かされていた、そんなアナがついさっき起きたとは考えられなかったのだ。
ということは謝罪も問いかけも全部全部、聞かれていたということだろうか。尋ねなくたって、妹の表情を見れば容易に想像がついた。
ああ、なんてこと。胸の内にしまっておこうと思っていたのに、もう引き出すことはないと思っていたのに。
頬が火照りそうだった。窓さえ開放していない室内で、どこからともなく冷気が流れ出す。雪でも降り出しそうな雰囲気の中、唐突に、アナがぎゅうと抱きついてきた。
「あのね、エルサ」
どこか舌足らずな口調で、胸元にいる妹はもごもごと話す。
「あたしまだ、愛、ってよくわからないんだけど。返す返さないだけが、愛情じゃないと思うの」
冷たい風が弱まる。
それはきっと、さっきの返答。アナなりの答えだった。見返りがあることが愛ではないのだと、彼女は言う。私よりも三つほど年下の妹は、誰よりもたしかな愛情を欲している妹は、それでも愛を模索している。
それにね、と。笑みをこぼしたアナは、はつらつな彼女には珍しく小さな、やさしい声音で続ける。
「あたしは姉さんと、エルサとこうして一緒にいられるだけで、とっても幸せなんだもの」
とても、とても幸せなの。
繰り返す言葉は段々と音量を落とし、やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。よほど眠気を我慢していたのだろう。それにしたって早い寝つきに、思わずくすりと笑いがこぼれてしまう。
私の上で眠る様子はまるで、雪だるまをつくろうと小さな妹が起こしてきたあの時の続きのようだった。本当に、昔からなに一つ変わっていない、いいえ、とてもきれいになったけれど。けれど性格は、明るくて活発で、そしてやさしいまま。純粋に私を慕ってくれている、あの時のまま。
もう一度だけ、触れる。指先はアナの頬と同じくらい熱を持っていた。
もうこの手が妹を起こすことはきっとない。そんな事実がとても、嬉しくて。
そ、と。起こしてしまわない程度に、抱きしめる。
「いい夢を、アナ」
今なら幸せな夢が見れる、そんな気がした。
(できることなら、あなたと同じ夢を)
きっとそれは久しぶりに訪れたやさしい夜。
2014.3.28