angina pectoris
殺しきれていない足音が耳に届いて自然、頬がゆるりと綻んでいく。
「なんの用事かしら、アナ」
「んもうっ、仕事に集中しててよ」
構えた両手が肩を掴もうとしたその瞬間を狙って声をかければ、なんとも理不尽な言を向けてきた妹は諦めたように背にもたれかかってきた。両腕をわたしの首に回して、その上にあごを乗せて。ぷくりと子供みたいにふくれた頬がわたしのそれに当たる。
なんでわかっちゃうかなあ、などとこぼされた恨めしそうなつぶやきに、深めた微笑みを一つ。気配を完全には消せていないことに気付いていないのだ、この子は。たとえば軽やかに弾む足取りだとか、やんわりと落とされた息だとか、そんな些細なもの。消していたとしても、私が感じ取らないはずはないのだけれど。
離れていった手が机の上の書類を漁る、がさがさ、散らかすことだけを目的としているみたいに。
「それで? 背後にばっかり気を取られてた女王様のお仕事はいつ終わるのかしら」
「背後じゃなくてあなたに気をやってたのよ、アナ」
「それはうれしいわね。それで?」
「まだ当分終わらなさそうね」
「気を散らしすぎなのよ」
公務に関することでアナに怒られるのは珍しいけれど、まったくもってその通りなのだから反論しようがない。
いつもならばとっくに終わらせて妹のかわいいいたずらを待っているはずなのに、陽も落ちたこんな時間になっても積み上げた書類は朝から変化を見せていなかった。
それというのも、
「…ねえ、アナ」
「なあに。仕事放り投げる?」
「ペンなら投げ出したいけれど」
放ったペンがからりと机を転がっていく。行方を追いかけたアナの指は、けれど途中で動きを止め、方向転換して私の手に近付いた。怯えでもしているようにそ、と。まずは指先で触れて。
なにかあったの、と。敏感な彼女は問いかけを落とした。
息を、一つ。
「あなたは…結婚する気は、ないのかしら」
「………けっこん?」
やがてつぶやかれた音は、なんだそんなこと、とでも言いたそうに拍子抜けしていて。
「たとえばクリストフだとか」
「彼はいいお友達よ。それ以上でも以下でもないわ」
「お見合い話もあるのだけれど」
「顔も見たことない人とお付き合いする趣味はないの」
なるべく普段通りにとはき出した言葉ににべもなく返されながら、そのうちふふっと上がった笑い声はやっぱり隣から。さっきまでリスみたいにふくらんでいた頬が、いまはやわらかくゆるんでいる。
おかしな姉さん、だなんて。言葉でさえも、私の想いを汲み取ってはくれなくて。
「どこにも嫁ぐ気はないから、あたし」
どくり、やけに大きな鼓動が一つ、痛みを伴ってやってくる。純粋な妹の言葉に、笑顔に、体温に反応して、どくりどくりと音を速めていく。このままではいけないのだと固く決意した心を、あろうことか心自体が揺るがしていくみたいに。
「だってあたしは、姉さんがいてくれたらいいんだもの」
まってアナ、
「姉さんの隣にいられたら、それだけで幸せなんだもの」
アナ、
「姉さんの傍にいることが、あたしの幸せなの」
「──アナ」
鼓動をそのまま転がしたみたいな声はやけに静かに落ちて、広がっていった。
私が割り込む隙さえ与えようとせず話していたアナは口を閉ざし、恐る恐る身体を引きはがしていく。ぬくもりが遠のいていく。最後に肩を掠めていった指が震えていたのは気のせいか、それとも私の方なのか。
「…エルサのこと、すきよ、あたし」
どうやら気のせいではなかったみたいだ。たどたどしくこぼされた言葉はひとりごとにも、言い聞かせているようにも聞こえて。
「姉さん、は、」
「私は、」
解放してあげなければいけない、アナを、誰よりもなによりも大切な妹を。この子はもっと自由な世界で生きなければいけないから。私みたいな人間もどきにも、国にも縛られない人生を、彼女だけの人生を送らせてあげなければいけないから。十何年振りに姉に会えたという、ただそれだけの感情に流されて、未来をつぶしてしまってはならない、そんなこと、あってはいけないの。
ゆっくり、振り返る。少しの空間を挟んで見た妹の表情は泣き出しそうにも、怯えているようにも映った。
心臓が痛い、とても。握りつぶされているように、押しつぶされているように、たしかな痛みが襲ってきて、ともすれば呼吸さえ止まってしまいそうになる。
息をもう、一つ。どうかのどが鳴ってしまわないように、なんて小さな願いは、どうやら届いてくれたみたい。
「─…すき、よ」
叶えるついでにどうか、この願いも一緒に。
言葉にこめた意味の違いにどうか、このあわれな妹が気付きますようにと。
(どくどく、ほら、いまだって)
わたしのこころはいつだって、ひめいをあげているの。
2014.10.2