あいなんてないの、どこにも。

 衝動というものは唐突にやってくる。 「──エル、」  なにかを感じ取ったらしいアナが最後まで紡いでしまう前に、色づいたくちびるを奪い去った。薄氷色の眸が驚きを露わに見開かれる。  こういう時は目を閉じるものだと教えてあげればよかった、そうは思うものの、こんな状況の原因である私自身が言えるはずもなく。  押し返そうとでもしたかったのか、伸びてきた手の首を取った。そのまま体重を傾ければ、身体は難なく倒れていって、やわらかなベッドにふたりして沈み込む。アナの苦しげな息は、軋んだスプリングに紛れてしまった。  本当はもう少し口づけていたかったのだけれど、肝心のアナが眉を寄せて震え始めたものだから、仕方なく距離を置いた。離れる際に一つ、音を残して。 「は、ぁ…っ、エル、サ、なにを、」 「なに、って」  束ねた両手に軽く力をこめて、そうして手を離した時には、氷の枷がアナの手の自由を奪ってくれていた。私にとってはこれくらい、息をはき出すよりも簡単なことだ。少し意識を向けるだけで、私の心情をなによりも忠実に表出してくれるのだもの。  けれどアナにとっては、普通の人にとっては畏怖すべきことのようで、そんな事実、誰よりも私が一番理解していることで。  薄氷色がゆれる、風に吹かれたみたいに頼りなく。まっすぐ私を映しているはずなのに、どうしてもそれが私には見えなくて。感情に身を任せて牙を剥いたただのばけものにしか見えなくて。 「知っているでしょ、アナ」  頬をそ、と。包み込めば、怯えるみたいに身体を竦ませる。まるで私に魔法をかけられるとでも思っているかのように。この子を凍らせてしまった、あの時のように。  この透き通った眸が、太陽みたいな笑顔が、ただ私だけに向けられるのならあるいは、それも魅力的な未来ではあるけれど。けれどすべてを留めてしまったらもう、アナの声が聴けなくなってしまう。弾む声が、明るい音が、私の名前を紡ぐことはなくなってしまう。  それになにより、思い知ってしまうから。 「ねえ、アナ」  凍ってしまったものはもう二度ととけることはないのだと。愛でかたちをなくすはずの氷はけれど、もうかき消えることはないのだということを。その証拠にほら、腕の拘束はまったくとけてはいなくて。 「アナ、ねえ、あいしているの」  薄氷色がゆれる、私の心を映したみたいに。かわいそうなくらいに赤くなっている手首に触れる術はもう、私には残されていなくて。  私とこの子の想いのかたちが違うことはわかっているから。魔法をかけてもいないのに、そのくちびるがもう、私の名前を呼んではくれないことを知っているから。 「…あたし、は、」  わかりきった答えなんて聞きたくなくて、耳を塞ぐ代わりに言葉ごと呑み込んだ。 (くちびるは、つめたかった)
 想いに押しつぶされてしまいました。  2014.10.9