だって開かない扉はないんだもの。
いまのあたしの心境を知ったら、あなたはなんて言うのかしら。
呆れることはないかもしれないけど。いつもみたいに眉を寄せて、傷付いたような苦笑を浮かべたあとに、手を伸ばしかけて、ふと、止まって、ごめんなさい、なんて。表情の一つまで鮮明に予想できてしまって、ひとりで落ち込んだ。これはきっと、ハズレではない。
それでも振りかざしたからにはと、コンコン、ノックを五回。
小さいころ、いつか姉さんが扉を開けて迎え入れてくれるはずだと信じていたころ、歌に乗せて叩いたリズムと同じものを。
扉に耳を押し当てて室内の物音を捉えようとしたけど、待てども待てども、返事どころか衣擦れ一つ聞こえない。
「留守…なのね」
諦めるためにつぶやいた言葉はさらに気分を沈ませた。
ああエルサ、あなたの部屋の扉をノックすることがいまだにこわいだなんて知ったら、一体どんな反応をするのかしら。
もちろんいまは、ひとりきりで扉に向かうあたしを、エルサが頑なに拒むことはない。名を呼ぶ声が、ふたりだけに通じる独特のノックが聞こえたらすぐに、笑顔で出迎えてくれる。今日はどんなことがあったのかしら、なんて。あたしの話を楽しみに待っていてくれているエルサのベッドに座って、夜通し話す日だってある。
けどそれは、エルサが自室にいる場合だ。
彼女は一国を担う女王、ゆえに自室にこもっている時間はほんのわずか。長くて一週間ほど部屋を空けることも稀ではない。
あたしはスケジュールをすべて把握してるわけじゃないから、この扉の向こうに果たしてエルサがいるのかいないのか、わからなくてこうしてふと、迷う。ノックしたとして、音沙汰がないと、小さなころの記憶が思い出したように過ぎるから。固く閉ざされたひどく無機質な扉に呼びかけ続けていた、あのときを。
そうしてこわくなるの、また姉さんは、あたしの前から姿を消してしまうんじゃないか、そんな風に。もうそんな心配はないはずなのに、エルサを信じているはずなのに。時々少し、不安になる。
ため息を一つ、今日は間が悪かったんだと言い聞かせる。もう夜も深いんだから、さっさと自室に引き返して毛布をかぶって寝てしまおう。そうして明日もう一度、扉を叩けばいいんだから。
ぱしん、と。両頬をはさみこむみたいにはたいて、扉から離れる。
留守ということは、エルサはいま、なにをしているんだろう。時間帯で言えば、少し遅めの沐浴中という可能性が一番高いけど。昨日は他国との会食で、一昨日は首脳会談で、先週は先進国の視察、だった気がする。これは全部、女王付きのメイドから聞いた情報だけど。
そこまで思い出して、ここのところエルサの顔さえまともに見てないことに気付いてまた、肩を落とした。
女王である姉さんが多忙な日々を送っていることは知ってる。雪だるまつくろう、なんて子供みたいなわがままを言いに夜中訪ねてはいけないこともわかってる。わかってるの。
だけどもせっかく、昔のように笑う合うことができたのに、会う機会が少ないなんてあんまりだわ。
ずいぶんと久しぶりに会ったんだから、話したいことはそれはもう山ほどあるし、一緒に行きたい場所も、したいこともたくさんある。
それを全部全部、我慢しないといけないだなんて。
こんなやりきれない想いを抱えてるのはあたしだけなんだろうか、ふと考える。
たとえばエルサも、十三年ぶりに会った妹ともっと話をしたいと思ってくれているんだろうか。いままで外の世界に触れていなかった分、一緒にいろんなところを見て回って、時折雪だるまをつくって、なんて。とっくに成人している姉がそんなことを考えているとは、到底思えなかった。
じゃあふたりでもっと一緒に過ごしたいなんて想いは、あたしの一方通行なのかしら。
ああダメ、今夜は次から次へと思考がネガティブな方向へ進んでいってしまう。あたしらしくもない。
頭を振ってみるけど、同じ考えがぐるぐる回るばかり。本当に、らしくない。
「―…アナ、」
だけど、角を曲がる直前に聞こえた名前に、思考が全部どこかへ飛んでいってしまった。この声を、音を、あたしが聞き間違えるはずがない。第一あたしの名前を呼ぶのは、城内でただひとりだけ。
気付かれないようそっと、様子を窺う。
思った通り、あたしの部屋の前にはエルサが立っていた。沐浴後なのか、しっとりと濡れた髪が解かれ、肩に流れている。普段と違う姉の姿に思わず、食い入るように見つめてしまっていた。
なんで姉さんがこんな時間にあたしの部屋の前にいるの。
一度からっぽになった頭が、今度はそればかりを吟味し始める。脳を回る疑問にもちろん解答は与えられない。
見つめられているとも知らず、俯いたままのエルサはやがてなにかを決心したように顔を上げて、ノックを五回。聞き覚えのあるリズムは、あたしと姉さん、ふたりだけが知っているそれだった。
扉を叩いたその姿勢で止まっていたエルサは、しばらくして笑みをゆがめた。眉を寄せた、困ったような苦笑。あたしが想像していた通りの表情。
「…こんな時間だもの、起きていなくて当然よね」
エルサの悲しみにあふれた顔はあの日、山奥に閉じこもってしまったあのときに嫌というほど見たけど、いま、ほんの少し先にたたずむ姉の表情はそれとは違っていて、なにかを我慢しているような、欲しいおもちゃをねだれない子供のような、そんな雰囲気だった。
こんな姉さんを、見たことがなかった。
その場に腰を下ろしてしまったエルサは、扉に背を預けて、目を閉じる。
「今日はね、城下町に行ってみたの。もう紅葉の季節なのね、とてもきれいだったわ」
そうして姉はぽつぽつと、今日の出来事を語っていく。曰く、赤く色づいた木々をアナにも見せてあげたかったわ。曰く、生まれたばかりの子犬があなたみたいでかわいかったなんて言ったら怒るかしら、等々。内容はすべて、あたしに直結しているみたいに聞こえた。
間を空けて、息を一つ。
「あなたに会いたいわ。…会いたいの、アナ」
廊下にこぼれたのは、ひどくさみしいつぶやきだった。まるであたしの心の内を代弁したかのような言葉に、胸のあたりが痛みを覚える。小さなトゲが刺さったような、ほんのわずかな痛み。
話し終えてしまったのか、立ち上がったエルサは背を向けて歩き去ろうとする。
声をかけるべきか見送るべきか、そんな選択肢、あたしには必要なかった。
「エルサっ!」
「ア、アナ!?」
走った勢いのまま、細い腰に思いきり抱きつく。お風呂の熱を残した身体は、いつもよりあたたかい気がした。
突然のことだからか、受け止めきれなかったエルサはよろめきながらも名前を呼ぶ。驚きのにじんだその声が、身体のあるべき場所に馴染んでいくみたい。
感じる音と体温が格別うれしくて、頬をすり寄せた。
「ねえアナ、もしかしてさっきの、」
「聞いてたわ。たぶん、全部」
「そう、よね」
がくりとうなだれる。それとともに冷気が差し込んできたようで、身体を震わせた。
彼女の感情が揺れたとき、たとえば恥ずかしがったり悲しんでいるときは決まって、冷風が吹き荒れ雪が降る。この場合はたぶん前者、なんだろうけど。姉さんはこんなにもわかりやすい人だったのねと一つ、発見。ゆるんでいくばかりの口元を見られていなくてよかった。
「…こうして、ね。たまに、来てしまうの」
「…ん、」
「ごめんなさい、少し、うそ。最近はほとんど毎日、だけれど」
先週は無理だったけれど、と付け加えて。夜中に部屋を訪れては、やさしく扉を叩いて、出来事をひとりで挙げ連ねていって。そうして会えないさみしさを紛らわしているのだと、エルサは言った。けれど足を向けるたび、扉を叩くたび、ひとりで話すたび、さみしさが募っていくのだと。あたしより三つほど年上の姉さんは言った。
そうして、ごめんなさい、なんて。きっといま、眉を寄せている。
「こんなさみしさをずっと、あなたに感じさせていたのね、私は」
「…違う、違うのよ、エルサ」
腕をほどいて、向き直る。ああほら、やっぱり。想像した通りの表情を浮かべた姉さんに微笑んでみせる。
「たしかに昔はさみしかったけど。けどいまは全然、さみしくないわ」
もっとたくさん話をしたい。いろんな場所を、景色を、一緒に見て回りたい。少しでも多く、顔を合わせたい。そんな気持ちを、エルサも同じように感じてくれていた。同じ痛みを抱えていた。それだけ、たったそれだけのことがすごく、うれしいの。
「だってあたしには、エルサがいるんだもの!」
小さなころのあたしが扉を叩いて、だけど開かれない悲しさに涙をこらえていたその向こうで、姉もまた、膝を抱えていたことにどうして気付かなかったんだろう。背を預けて涙を流すその後ろで、姉さんもまた悲しみをあふれさせていたことに、どうして気付くことができなかったんだろう。
ずっとずっと、想いは一緒だったのに。
ぱちり、またたきを一つ。少し背の高いエルサは、アイスブルーの眸をやさしく細める。あたしの大好きな姉さんの、大好きな表情を浮かべる。
「そうね。私には、アナがいるもの」
少しもさみしくないわ、だなんて。唄うようにつぶやいて。
ぎゅ、と。真正面から抱きしめられる。それは氷を溶かしたあのときのように、やさしく、慈しむように。
「…ねえ、今日はこのまま、一緒に寝ようよ」
「そんなこと言って、寝かしてくれないんでしょう?」
「当たり! 今夜はしゃべり倒しちゃうんだから!」
顔を見合わせて、ふたりしてくすくす笑って。
あたしは扉を開けた。
(あたしはもう、自らノブを回すことができるから)
アナとエルサは微妙にすれ違ってるといい。
2014.3.31