迷える子羊に差し伸べるのは、
見覚えのないものが扉の前に落ちていた。
いや、糸と鉛管自体は見たことがあるのだけれど、それがどうして私の部屋にぽつんと置き去りにされているのかがわからなかった。よく観察してみれば、鉛管の底にくくり付けられた糸の先は扉の外にまで伸びているようだ。
まだ覚めきっていない頭が至ったのは昔の遊び、糸の両端に鉛管を繋いで会話をしていた幼少期がふと浮かぶ。
しゃがみこんで手に取ってみれば廊下にいる相手も気付いたようで、びくりとした反応が糸を伝ってきた。幼いころも、そしていまも、この糸の先にいるのはただひとりだけ。
そ、と。耳に当てる。
「─…エルサ、」
やっぱり。耳を覆うように被せられた声は、昔と変わらない妹のものだった。ただ普段と違うのは、声にさえ含まれている底抜けの明るさを感じないこと。
朝に弱いはずの妹が私が起き出すよりも先に目を覚まして廊下で待っていたというのもなんだかおかしい。
「扉。開けないで」
ノブに手をかけたところで向けられた制止に、お願い、とまで付け加えられてしまえば聞かないわけにはいかない。再び座り込んで、扉に背を預けた。
こうして妹の声を辿るのもいつ以来だろう。三年前の両親の葬儀以降、扉の外から呼びかけてくれる人は城仕え以外にいなくなってしまったから。それまで健気に話しかけてくれていた妹はあの日の泣き声を最後にノックさえしてくれなくなったから。
姿どころか声さえ現さない姉に愛想を尽かせたって仕方のないことだけれど。
「夢を、ね。みたの」
辿るように、探るように、窺うように。自分のことだというのにそれさえもおぼろになっているみたいな、そんな様子で妹が落とす声を拾い集めていく。
扉が閉ざされたままの夢を見たのだと――あるいはそれは過去が浮かび上がってきただけなのかもしれないけれど。返事のない冷たい扉の前でただノックをしてお決まりの文句を口にしていたのだという、雪だるまつくろう、と。
「あたしは十三年間、遊ぼうだとか、出てきてよとしか言わなかった。あたしのこと、きらいになったから、必要なくなったから会ってくれなくなったんだって、そう思ってたの」
ひとりごとにも似たそれはどこか懺悔にも聞こえて。違うのだと、否定しようと口を開いた私が見えているみたいに、でもね、と。言葉を挟む隙を与えず、妹の懺悔は続く。
伝わる音が震えているのはなにも廊下が寒いわけではない、きっと。
「違ったの。あたしが音に乗せるべきなのはそれじゃなかったの」
面と向かって言うのは恥ずかしいから扉越しなんだけど、と。前置きを一つ、小さく息がこぼれる、深く。
「あたしは、自分の気持ちを、変わりようのないまっすぐな想いを伝えなくちゃいけなかったの。扉の前で誰にも頼ることができなかった姉さんに。ただ、すき、って」
姉さんがすきなの。
確認するようにもう一度。妹をひとりぼっちにすることしか出来なかった愚かな姉にそれでも変わらず想いを寄せてくれていたのだと、妹は告げる。扉に身体を預けて嗚咽さえ殺すことしかできなかったあの日の私を、妹にきらわれたのだと、そればかりを思っていた私を拾い上げていく。
簡単でありきたりな想いが、ただその一言がどれだけひとりぼっちだった私を満たしているのかきっと気付いていない妹は、更に言葉を重ねていく。十三年分の想いを埋めていくように、静かに。
「今更、なんて思われるかもしれない。あたしの自己満足だって言われても構わない。それでもあたしは言いたかったの」
きっとまだ膝を抱えて泣くことさえできない女の子に伝えたかったの、
「すきよ、エルサ」
震えているのはなにも寒さだけではない、そんなことわかっている。拙い言葉で必死にすべてを教えてくれようとしている妹もまた、幼いころの自分を抱えたままなのだ。自分はいらない存在なのだと、そう思っているころのまま、いまだって、想いさえ否定されるのではと音を震わせて。
「ねえ、アナ」
「っ、なに、かしら」
「廊下は寒いでしょう」
糸がふるりと振動して、それからうん、と。小さいながらも届いた返事に、鉛管を元あったように転がした。泣くことも、扉を開けることもできるようになったわたしにはもう、不要なものだ。
きっと最初からこうしておけばよかったの。ノブを回して、扉を開けて、寒さに震える妹をぎゅっと抱きしめて、ただただ純粋な想いを伝えて。随分と遠回りをしてしまったけれどもう、間違えたくはないから。ノックも出来ずただひとりで震えている迷子を見つけてあげたいから。
糸が床に垂れる。
思った通り、潤んでいた薄氷色の眸がとうとうしずくをこぼして抱きついてきた。
「すきよ、アナ」
(おかえり、私の妹)
アナちゃんかわいいかわいいキャンペーン第三弾。
2014.11.22