とけることなんてないの、

 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 「─…ア、ナ」  その音を口にしたのは一体いつ以来だろう。夢のように霞んだ遠い昔な気もするし、つい昨日、一人で呟いた気もする。心の中ではいつ、どんな時でも、響きを忘れてしまわないように、かたちをなくしてしまわないように繰り返しているのだけれど。少なくともこうして本人に向けたのは随分と久しぶりのことだった。  そうは言っても、その妹にはどうやら届いていないみたいだ。 「うう、ん…」  しかしどうしてこんな夜中に、しかも私の部屋の前で眠っているのだろう。むにゃむにゃと気持ちよさそうに寝言を呟いているあたり、生き倒れているというわけではないのだろうけれど。  もしかしてまた昔みたいに、私の部屋の扉をノックしてくれようとしていたのかしら、なんて。浮かんだ甘い期待を首を振って追い払う。両親の葬式にさえ顔を出さない姉をそれでもまだ慕う妹がどこにいるというのだろうか。わかりきっている答えだとしても、いまはまだ聞きたくなかった。  ため息を一つ。春も終わりに差しかかっているとはいえ、空も眠っているこの時間に廊下にいたら風邪を引いてしまう。かといって城仕えたちが通りかかる気配はないし、アナを遠ざけているいま私が起こすわけにもいかない。  しばらく悩んで、とりあえず毛布だけはかけておこうとベッドから一枚持ってきた。  深い息で気持ちを落ち着かせる。なるべく緊張してしまわないように、触れないように。それでもどうしようもなく震えてしまう手を止めることはできなかった。  半ば投げるように毛布をかければ、アナが僅かに身動ぐ。もしや目を覚ましてしまったのではと身体が強ばったけれど、またなにかを呟いただけで薄氷色の眸が覗くことはなかった。あるいはいっそその眸に私を映してくれたらと。叶わない願いを押し込める術くらいは知っていた、痛いほどに。 「…ねえ、アナ」  ずれてしまった毛布をそっと直して。毛先に触れてしまった、ただそれだけのことでぱきぱきと音を立てようとする氷をなんとか振り払い、まぶたを閉じる。  ねえ、アナ。やっぱり私は、あなたに触れることも、あなたに姿を映してもらうことさえできないみたい。きっとあなたを悲しませてしまうから、苦しめてしまうから。  私が最後に見た妹よりも少しだけ大人びた寝顔をまぶたの裏に刻み込み、静かに立ち上がる。  けれどもし、私を映してくれることがあるなら。薄氷色にとかしこんでくれることがあるのなら。その時こそちゃんと、あなたの眸を見つめて、名前を呼ばせて。 「──おやすみなさい、アナ」  きっとこの扉を叩かれることはないのだろうけれど。 (私の氷も、私の想いも)
 戴冠式の少し前。  2015.2.21