あなたに会う日。
姉さん、お姉さま、それとも姉上にしようかしら。
いつもは姉さんと―面と向かってではないけど―呼んでいるけど、その姉さんも明日には女王になるんだから、呼び名を変えた方がいいのかとふと思い付いたのが朝のこと。それからずっと考えているけど、しっくりとくるものが浮かばないまま。
いっそ恭しく陛下とでも呼べばいいのかな。ああダメ、それだと逆に距離が開いてしまいそう。なにせ何年もまともに顔を合わせていないんだもの。
髪を解いて、ため息を一つ。
事実だから仕方ないけど、改めて認識するとやっぱり落ち込んでしまう。ふたりきりの姉妹なのに、ふたりきりの家族になってしまったのに、どんな風に成長しているのかまるでわからないなんて。
ああでも、ようやく明日、姉さんに会うことができるのよ。夢の中でも、扉越しでもない、本物の姉さんに。うれしすぎてあたし、不作法になったりしないかしら。
「どうされたのですか、アナ王女。先ほどから百面相なさって」
「失礼ね。してないわよ、百面相なんて」
入浴準備の手伝いをしてくれていた侍女の突っ込みに頬をふくらませる。
一応否定してみたけど、自分でもあまり自信はなかった。ころころ変わる表情だってことくらい、あたしが一番よく知ってる。いまだってきっと、眉を寄せたり肩を落としたり頬をゆるませたりと、忙しくしているに違いない。
跳ね回っている心を少しでも落ち着かせようと、息を吸って、はいて。
それでも口元がどうなっているのか、確認するまでもない。
「ねえ、エルサのこと、なんて呼べばいいのかしら」
服に手をかけてふと、尋ねてみれば、侍女はなんのことかと首を傾げる。
「いつも通りでよろしいのでは」
「ええそうね、そうも思ったんだけど。でもせっかく久しぶりに会うんだし、ちょっとくらいゴージャスな呼び方にしてもいいかなって。ああでも、陛下は却下ね。もっと、こう、フレンドリーなのがいいわ。あたしとしては姉上、とかいいかなって」
胸元のボタンを外しつつさっきから考えていたことを上げていけば、やがてくすくすと、背後から笑い声が聞こえてきた。振り向けば、侍女が押し殺した笑いを洩らしている。いや、タオルで顔隠せてないから。
「申し訳ありません、あまりにも嬉しそうなので」
「そりゃあうれしいに決まってるじゃない。だって久しぶりに会えるんだもの!」
一体どんな風に成長しているのか。あたしと顔を合わせたとき、どんな表情をしてくれるのか。きっと母さまに似て美人で、父さまに似て聡明なんだろうけど。
思い浮かぶ姉さんはいつも、小さなころのまま、すべてを包みこむやさしい笑顔を向けてくれて。
「ね、ね。姉さんってどんな人? やっぱり美人?」
「私も最近、あまり顔をお見かけしないのですが、そうですね。お綺麗ですよ」
「そうよね、だってあたしの姉さんだもの」
「それに、王女にも似ておられます」
そっと付け加えられた言葉に、ほころぶ頬を抑えることができなかった。
恥ずかしくて思わず、目の前のタオルにぼふりと顔を埋める。洗い立てのタオルとは違う、花のように甘やかなにおいが、鼻孔をくすぐった。
このにおいには覚えがある。姉さんの部屋を通りがかったときにほのかに香る、やさしいにおい。
「ねえ、これって」
「すみません、そのタオルはまだ替えておりませんで」
「じゃあ、エルサが使ったタオル、ってこと」
侍女が頷くのを横目に、もう一度タオルへ顔をダイブさせる。少しだけ水をふくんでいるそれは、だけどあたしをあたかかく受け止めてくれるようだった。
これが姉さんの、エルサのにおい。ひだまりみたいなにおいは、お母さまのそれによく似ていて。
うれしいはずなのに、眸があつい。
できるだけ自然に目元をぬぐってみたけど、静かに背を向けた古株の侍女にはたぶん、気付かれたのかもしれない。
「ああそういえば、先ほどのことですけれど」
出て行きかけた侍女はふと、思い出したように顔を上げる。
つられてあたしも視線を向ければ、にこりと彼女は微笑んだ。娘にでも宛てるみたいな笑顔を。
「どんな呼び方でも、お喜びになられると思いますよ」
「そういうものかしら」
「そういうものなのです。だって姉妹なのですから」
理由はなんだかアバウトな気もしたけど、とりあえずゆるんでいく口元を隠したくてタオルを抱きしめた。
効果は薄いみたいだけど。
***
元気だった、どう過ごしていたの、変わりはないかしら――言葉を探してみては、音になる前に次々と消えていってしまう。全部が全部、白々しく聞こえてしまう。せっかく明日、久しぶりに妹に会えるというのに、かける言葉一つ見つからないなんて。
ペンを置いて、ため息を一つ。
私のせいなのに、いつも肩を落としてしまう。ふたりきりの姉妹なのに、ふたりきりの家族になってしまったのに、どんな風に成長しているのかまるでわからないなんて。これでは姉失格だわと、自責の念に駆られても文句は言えなかった。
ああでも、それでも明日、会うことができる、話すことができるのよ。
あの子からはきっと話しかけづらいだろうから、私の方から声をかけてみよう。落ち着いて、自然に。これまで何度もイメージトレーニングしてきたのだから、きっと大丈夫。
目を閉じて、妹の姿をまぶたに思い浮かべる。笑いかけてくれる妹はまだ、幼いまま。
おそらくきれいになっているのだろう。お母さまに似て眸は大きくて、お父様に似てあたたかな愛情を持っていて。
こんこん、と。ひかえめなノックが思考に割って入ってくる。
「エルサ様、明日のお召し物をお持ちいたしました」
「ありがとう。扉の前に置いておいて」
「かしこまりました」
長年仕えてくれている侍女や使用人でさえ、自室に入れることは稀だった。いつも扉越しの会話に留めているのはもう、誰も傷付けたくはないから。彼女たちも私の心情を理解してくれているようで、極力顔を合わせないようにしてくれていた。
その無言の気遣いには本当に、感謝してもしきれない。
「…ねえ、相談があるのだけれど」
動き始めた足音がぴたりと止まる。
なんでしょうか、と。落とされた声は少し、うれしさを含んでいるように聞こえた。
「明日、ね、アナになんて声をかければいいかしら」
「声、ですか」
「元気だったかとか、変わりはないかとか。どんな言葉も他人行儀に思えてしまうの。いいえ、話したいことはたくさんあるわ、言葉が浮かんでこないだけ。あの子にどう接すればいいのか、分からないの」
こんなにも想いをはき出したのは久しぶりかもしれない。
けれど一度口にした質問は後を絶たなくて、そのうち洩れ伝わってきた笑い声にようやく口をつぐんだ。
「ああ、ええと。私なにか、おかしいことでも言ったかしら」
「いいえ、ただ嬉しくて」
真意を図りかねて首を傾げる。
彼女は一体どんな表情をしているのか、扉越しだから当然、分かるはずもない。こんなにも扉を開けたいと思ったのはいつ以来だろう。
そんな私に気付いているのかいないのか、侍女は申し訳ありません、とやわらかな笑いを抑えつつ謝罪を送ってくる。
「どんな言葉でも、お喜びになられると思いますよ」
「そういうものかしら」
「そういうものなのです」
疑問を繰り出す私に、彼女はだって、と続ける。声色はやわらかいまま、娘にでも教え諭すように。
「エルサ様とアナ様は、姉妹なのですから」
「…そうね、きっと」
扉越しだから、互いがいまどんな表情を浮かべているのか分からない。
けれど彼女はきっと、私の口元がほころんでいることに気付いているはず。
(ひとときの、喜びを)
戴冠式前日。
2014.4.6