とびらあけて、
世界を閉ざしてから、一体どれだけの時間が経っただろう。夜が深い季節のせいかまだ陽は覗いてくれなくて、廊下にぺたりとつけたお尻から段々と熱が抜けていく。
このまま完全に体温を失ってしまえばあるいは、この扉の向こうで眠っているであろう姉と同じになれるんだろうか、ふと、浮かんだ考えにひとり、首を振る。雪と氷を自在に操る姉さんはだけど、とてもあたたかいから。たとえ指先が冷たかったとしても、魔法を扱っていたとしても、その心は、あたしに向けてくれている愛は、とても。
ふふ、と。洩れたのは安堵でも喜びでもなく、ただの苦笑。愛、だなんて。
十三年間ほとんどと言っていいほど顔を合わせてもらえなかったあたしは、姉さんに嫌われているんだと思っていた、無条件に信じていた愛情がいつの間にか失われていたんだと、だから会話してもくれないんだと。だけどそれは思い違い、姉さんもあたしと同じように十三年間変わらない、いいえ、それ以上に募った想いを抱えていてくれた、あたしを失ったと聞いて絶望に打ちひしがれるほどの想いを。
お互いの気持ちを、愛を、あの夏の日に確認し合ったはずだった、抱きしめることで想いの丈を吐き出したはずだったのに。あたしはまだ、この扉をノックできずにいる。
もしノックをしたとして、この部屋の主がなにも応えず扉を閉ざしたままだったら──あたしを傷つけることがないと知ったいま、きっとそんなことはないんだろうけど、それでも脳裏にぼんやりと蘇るのは幼いころの記憶。記憶と呼べるほど大層なものでもなくて、むしろ断片みたいなものなんだけど、欠片が映すのはいつも一緒、あのころ大好きだった歌のフレーズに乗せてノックを五回、返ってきたのは、あっちいって、なんて。拒絶としか捉えることのできない、姉の言葉。
もしまた拒絶されてしまったら、近付くことを許してもらえなかったら。そう考えると振りかざした手はいつも止まって、そうして元の場所に戻って。いくじなしのあたしは今日もひとり、叩けない扉に背を預けてまぶたを閉じる。
「─…ゆきだるまつくろ」
自然と口を突いたのはやっぱり、あのころと同じ歌。うんと小さいころも、そして成長してからも、どうにか姉を連れ出す手立てはないかと、姉さんが好きだった雪遊びを引き合いにして。
歌を重ねていくにつれ、一緒に遊んでくれることはないんだと、イエスと応えてくれる日は来ないんだと。悟っていても、あたしはあたしの祈りをやめることはできなくて。
膝を引き寄せて抱え込む、それはまるで、父と母を見送ったあの日のようで、
そうね、久しぶりに作ろうかしら。
あまりにも闇に馴染んでいこうとするものだから、聞き逃してしまいそうだった。
まぶたを開けて世界と対面、急いで振り返れば、いつもと変わらず閉まったままの扉の向こうからくすくすと、聴き慣れた笑い声が一つ。欠片に映った小さな姉そのまま、きっと口元に手を当てる上品な笑み。
「あ、の、エルサ、いつから、」
ずっと。ずっとよ、アナ、それこそ毎日ね。
気付かれていたんだ、ずっと前から。毎夜毎夜、あたしが扉の前で座っていたことに、同じフレーズを繰り返していたことに。
冷たい床に吸い取られていたはずの熱が頬に集中する。見られているわけでもないのに、かっかと火照る両頬を隠して。
声がとけていく、深い夜に。それを辿るのは、あたしにとってはとても簡単なことだった。だってあたしはこの声を、この人だけが発することのできる音をずっと、ずっと求めていたんだから。
ね、アナ、
おもちゃをねだる子供みたいに、お菓子をせがむ幼子みたいに。落とされた音が、あたしの名前を刻んでいく。なあに、と。返したはずの言葉は声にならなくて、ただ白い軌跡だけが口から流れて薄暗がりに消えた。
かたちにならなかったそれはだけど拾ってくれたみたいで、呼吸が一つ。
ノック。してくれないかしら。
そんな予感はしていた、姉さんが繰り出すであろう一文はなぜだかそれである気がしていた。だけれど想定していたからといって促されるままノックできるわけではなくて、頬に添えたままの手が途端に震え始めて。この扉のすぐ向こうに姉さんがいる、応えてくれる、そんなこと、わかっているはずなのに。
両手を重ねてなんとか震えを抑えようとするあたしに、姉さんの声がかかる。
あなたの好きな歌で、フレーズで、聴きたいの。
私も覚えているのよ、あの歌、だなんて。こぼされた旋律はあたしが何度も口にしていたそれと同じもの。雪だるまをつくろう、自転車に乗ろう、姉さんが興味を持ってくれそうな遊びを挙げ連ねた歌が、昔の音をそのままに扉の奥から流れてくる。
そうして、ねえ、と。扉が語るのはやっぱり、あたしと一緒の想いを抱いた姉の心。怖かったのだと、いつか扉を叩いてくれなくなることが、歌が聴こえなくなることが、はっきりと音になった愛を失うことが。
いっそ嫌われてしまった方が、あなたのためなのに、ね。
夜を震わせるその声に、伝った雫を拭い去る。手は依然小刻みに動くまま、だけどそ、と指を握り込んで。
解放してあげなければ、姉さんを、あたしを、この夜から。ノックを望んでいた少女を、ノックを恐れていた少女を、深い夜から。
またたきを一つ、二つ、息が重なる。そうしてノックを刻む、リズミカルに五回、あのころと同じそれを。ふわりと、静かだった廊下に風が舞って、壊れたみたいに流れ続ける涙を揺らしていく。
「──ゆきだるま、つくりましょう。アナ」
扉は、開かれた。
(ねえ、あたしはようやくひとりぼっちの夜から抜け出せたのね、エルサ)
アナちゃんのしあわせについて本気出して考えてみた。
2015.3.31