視界にあったのはいつもあなたひとりだったの。
「、あっ」
まさか振り向いてくれるとは思わなくて─期待していなかったと言えばうそになるけど─それでも少し、ほんの少し名前を呼んだだけなのに。どうしたの、と首を傾げて訴えかけてきて。
あ、いや、と。言葉に詰まったのはあたしの方。用があるわけじゃなかった、いや、探せばたくさんある。そろそろお茶の時間にしようだとか、気分転換に散歩にでも出かけないだとか。だけれどあたしがいままで、十三年間追いかけてきた背中はそのどれにも、自身の音にさえ反応を示してくれようとしなかったから、咄嗟のことになにも口を突いてくれなかった。追いかけてきたといっても、あたしが見かけた背中は数少ないけど。
触れたら壊れてしまいそうな背中はいつも、あたしの道しるべであり終点だった。それ以外に道を知らなかった。拒絶しか表してくれない背中はそれでもあたしの生きる術だった。それに向かうことでしか、追い付こうともがくことでしか、あたしはあたしでいられなかった。
だけどいざそれが振り向いてしまって、目的地を見失ってしまったみたいに姉へと向かっていた気持ちも身体も急停止して。
両指を突き合わせて視線を合わせようとしないあたしに、ふふ、と。いつものやわらかい笑みが降ってくる。促されるようにそろりそろりと顔を上げれば、少し高い位置にある眸が細められていた。
いつもは見えなかった、あたしのいない方向ばかりを向いていた、氷色の眸。
「ね、アナ」
いつもは聴くことのなかった、向けられることのなかった、夏の涼しさのような声。ただ背中を向けていただけのエルサはだけど、氷色の眸にちゃんとあたしを映して、あたしの名前を呼んでくれていた。
「私、ね、これからはちゃんと、あなたに隣を歩いてほしいの」
あなたの隣を歩いていたいの、なんて。目標を失ったあたしにちゃんと居場所を作ってくれて。ここにいてもいいのだと、エルサの隣にいてもいいのだと。
にじんだ世界の中に、けれどたしかに姉の姿があって。
「歩いて、いいのかな。隣にいても、いいのかな」
無理矢理顔を出させた言葉に頷く代わりに両手を広げた姉さんに、勢いよく飛び付いたのはすぐ後のこと。
(抱きしめた背中はやっぱり、こわれてしまいそうだったけど)
背中を書きたかっただけ。
2015.4.2