夢に惑う、

 とてもしあわせなゆめをみていた。 「それでね、それでねっ」 「もうアナ、息つく暇くらいちょうだい」  口では困った風を装いつつも、その頬がきっとゆるんでいることは見なくたってわかる。下がった眉は父の影をそのまま映して、やさしく細められる眸は母と同じ色で。  姉さんはいつ、どんな時だって、自分のことのようにあたしの話を聞いてくれるから。それはたとえば今日出会った城下の子供たちの話であったり、おいしいアイス屋の話であったり、眠っている時に見た夢の話であったり。あたしにとってはいまこの瞬間でさえも、夢みたいな話だけど。  毛先まで編み込んで、紐で結わえる。見慣れた三つ編みが完成して思わず笑みが上った。姉さんの髪を触れる日がまさか本当に来るだなんて、あの十三年の間には考えられなかったから。幼いころからずっと憧れていた、あたしとは違う色に、あたしを照らしてくれるこの髪に。 「ありがとう、アナ」  鈴をころころと転がしたような音が響いて。昔とちっとも変わらない声があたしの名前を呼ぶ、うれしそうに。  思えば姉さんは事あるごとにあたしの名前を口にしてくれていた。アナ、アナ、アナ、と。幼いころと同じように、大切に、慈しむみたいに。 「本当に、夢みたい」 「なにが」 「こうしてエルサといられることが」  離れていた十三年間を埋めるように、あれからあたしたちはいつも一緒にいる。どこへ行くにも隣にいるものだから終いにはゲルダに、少しは姉離れしてくださいませと呆れられるほど。姉離れできないのではない、したくないだけなのに。それをわかっているのか強くは言われないけど。  くすくす、おしとやかな笑いがこぼれる。 「ばかね、」  小さな子供に諭すみたいな口調で、ようやく姉さんが振り返って、  これからはずっと、  ***  伸ばした手は誰にも掴まれなかった。 「─…アナ、様、」  覚えのある名前に首を巡らせれば、記憶にあるものよりも大分老いた側仕えの姿があった。ベッドのすぐ傍らに座っていた彼女はみるみる眸を見開いて、それからはらりはらりと雫を落とす。いつも悪戯ばかりのあたしとエルサを叱り飛ばしていた彼女の涙を初めて見た。  毛布の上に落ちかけた手をすくわれ、握りしめられる、強く。 「信じて、信じておりました、いつかお目覚めになると、わたくしは…っ」 「………ぁ、」  なにを、言っているのか。なにを言われているのかわからなかった、なにも。どうして泣いているのか、どうしてそんなにも嬉しそうなのか、どうして。尋ねようにもあたしののどは声を忘れてしまったかのようにただ息のこすれる音しか発しなくて。声どころか腕も、足も、頭も、鉛が詰め込まれているみたいに重い。  戸惑いを察してくれたのか、涙を拭おうともしない彼女は口早に説明を始める。曰く、五歳のころに姉の魔法が当たり昏睡状態に陥ったと。曰く、それから十三年間目覚めることがなかったと。曰く、そのショックからか母は病でこの世を去り、父もまた憔悴していると。  まさに奇跡だと喜ぶ彼女の言葉のなに一つ信じられるものがなかった。だってあたしは眠ってなんかいなかったのに。一人遊びに興じる日々を過ごして、両親を亡くして、ひとりぼっちで生きてきて、姉の魔法を知って、けれど真実の愛を見つけて。そうしてふたり仲良く寄り添っていたはずなのに。  その姉の現在が話のどこにも上らないことに気付いたのはすぐだった。頭を起こすことは諦めて視線を巡らせてみれば、あたしのベッドの向かい側、ちょうど姉のベッドがあった位置に目が張り付く。 「エルサ様は、」  視線を辿ったゲルダはまた眸を潤ませ、 「─…氷漬けになさいました、自分自身を」  透き通った氷柱の中には、母にとてもよく似た女性がいた、まぶたを閉ざし祈るように両手を重ねて。あたしが眠りながらも成長していったのと同じように姉もまた、氷の中で歳を重ねていたという。  思考が追い付いてこない、これが現実だと信じることができない。だって信じてしまえば、さっきまで見ていた映像は、姉の笑い声は、髪の触り心地は、そのすべてが、夢、ということになってしまうのに、けれどどこか納得している自分もいて。  あれが全部夢だったというのなら、あたしは知るはずがなかったのだ、姉の成長した姿を、あたしの名前を呼ぶ声を、あたしを見つめる表情を。  あたしは、 「──…エ、ル、」  あたしは、とてもしあわせなゆめをみていただけだったんだ、 (とてもざんこくなゆめを)
 しあわせなゆめを、みていました。  2015.7.12